第9話 マカロン色の夢の中で

 夜空の星はこんぺいとう 月が涙を流す夜

 ほうき星が キミの部屋の窓をノックするよ


 それは天使が 不思議な夢を見せてくれる合図


 それは本当に夢? それとも……


 真実を知っているのは

 天使と お星さまだけ


 ――絵本「魔法使いのケーキ屋さん」より


 私は、閉店時間になるまで、マスターの絶品パスタを食べながら待って。お店を閉めたあと、マスターがサービスで三人分の美味しい紅茶を淹れてくれて、ゆったり話をしながら、私と恵麻ちゃんとマスターでモンブランを食べた。

「恵麻ちゃん、私ね、珪樹さんのお店のアルバイト、終わっちゃったんだ」

「……うん」

「珪樹さんね、いろいろ教えてくれたの。お菓子作りのことだけじゃなくて、ほんとにいろいろ」

「そっか……」

「私、今までの集大成を珪樹さんに見せたい。今度は私一人でケーキを作って、珪樹さんに贈りたいの」

 ありがとうと、ごめんなさいと。そして、伝えたいこと全部、伝えたい。

「……杏樹、がんばれ」

 私がこのモンブランに込めた気持ちは、恵麻ちゃんとマスターが一緒に消化してくれたから、今ならね、きっと今までで一番美味しいケーキが作れそうな気がするの。


 アパートに帰った時には、もうすっかり夜。なんだか今日は、怒涛の一日だったなあ……。

 すっかり疲れて、ベッドにダイブしたくなるけれど、どうしても今夜中にやらなきゃいけないことがある。

 髪を束ね、愛用の木綿のエプロンをきゅっと締めて、キッチンに立つ。

 ボウル、秤、ハンドミキサー。薄力粉、砂糖、卵、生クリーム。調理台代わりのダイニングテーブルに、材料を用意していく。

 キッチンに立つと、自分のスイッチが切り替わるみたい。頭がすーっと冴えて、余計なことが何も考えられなくなって。

 いつもはトロい私でも、三倍速くらいの速さで動けているんじゃないかと思う、たぶん。

 使い込まれたお気に入りの道具たち。甘い匂いで満たされた空間。1DKのアパートの、決して広くはないキッチンだけど、ここは私だけのお城。

 魔法使いがいなくても、私は私自身に、魔法をかけるよ。

 シャカシャカと泡立て器が奏でる、リズミカルな音楽。

 気付いたの。私は、珪樹さんが魔法使いじゃなかったことがショックだったんじゃないって。珪樹さんに拒絶されたことが悲しかったんだって。そしてそれは、どうしてなんだろうって。

 珪樹さんは、自分が魔法使いだっていう以外に、私を騙したり、嘘をついたりしたかな? してないの、一回も。

 私が珪樹さんのケーキを食べて、元気が出たのも本当。カップルが、あまりの美味しさに仲直りしちゃったのも、本当のこと。珪樹さんがたくさんの人を幸せにしてきたのも、本当なんだよ。

 珪樹さんのケーキが魔法みたいに美味しいのは、珪樹さんが魔法使いだからじゃない。珪樹さんが、ケーキを愛しているから。お客様の笑顔を、愛しているから。

 気付いたの。珪樹さんが魔法使いでもそうじゃなくても、私が珪樹さんを尊敬する気持ちには、何も変わりがないんだってことに。

 ねえ、だったら。珪樹さんが、「恋じゃなくて好奇心」って言ったこの気持ちは、何なのかな?

 自分でもよく説明できない、ワクワクして、なんだか楽しくって、体温まで上がってしまう、こんな気持ち。尊敬だけじゃなくて、今までに感じたことのない気持ち。

 珪樹さんが魔法使いだから、こんな夢みたいな気持ちになるんだと思っていたの。でも、珪樹さんが魔法使いじゃないって分かってからも、この気持ちは変わらないの。

 今だってほら、珪樹さんに教えてもらったたくさんのことを思い出すだけで、ここが魔法使いの厨房みたいにワクワクしてくるんだよ。

 珪樹さんは、景色だって、気持ちだって、マカロンみたいな夢色に変えてしまうの。

 不思議な力がなくたって、こんな特別なことができる人は、きっと……。

 冷ましたスポンジを半分に切って、生クリームと苺でデコレーションする。

 シンプルな苺のショートケーキだけど、シンプルだからこそ、ごまかしがきかなくて難しいケーキ。

 だからこのケーキを選んだの。あなたが私に似ていると言ってくれた、苺のショートケーキ。ごまかしがきかない私の気持ちを、シンプルに伝えるために。

 昔はスポンジが綺麗に膨らまなくて、泣いたりしたっけ。メレンゲを立てる時、なかなか泡立たなくて、イライラして焦ったり。

 でも、珪樹さんから学んだことは、ごくシンプルなことだった。

 楽しい気持ちで作ればいいの。楽しいこと、嬉しいことを考えていれば、いつの間にかメレンゲは、ふわふわって膨らんでくれるの。

 珪樹さんは、どんなに根気のいる作業でも、細かい作業でも、いつも笑顔だったの。まるでケーキに、心で話しかけているみたいだった。

 私は珪樹さんの魔法にじゃなくて、そんな姿勢に一番、感動したんだよ。

 まあるいスポンジの真ん中、生クリームとラズベリーで、赤い瞳のウサギを描く。耳は慎重に、細長く生クリームを絞り出して、薄く切ったアーモンドを載せて……。

「……できた!」

 テーブルの上の、まんまるいショートケーキを見下ろして、ふーっと息をつく。

 カットした時の、スポンジの切れ端を味見してみる。

 ふわふわしていて、甘すぎなくて、口の中ですうっと溶けて……。うん、今までで一番、うまく焼けたみたい!

 これならきっと、珪樹さんも合格点、くれるよね。

 でもそれ以前に、どうやって渡そう。今さら私に、会ってくれるのかなあ……。

 なんだか疲れてしまって、ダイニングの椅子にふうっと沈み込む。テーブルに顔をのせ、ぺたっと頬をつけて、ぼんやりと目を閉じる。

 あれ、なんだか、瞼がだんだん重くなってきた……。


 ……カツン!


 窓のほうで、こんぺいとうがトライアングルを鳴らしたみたいな、高くて澄んだ音がした。


「どうして、あの子には自分から打ち明けたの?」

「別に、ただの気まぐれだよ。ちゃんと否定した。これでいいんだろ?」

 遠くから、珪樹さんの声が聞こえる。よく通るアルトの、耳に心地よい声。贅沢な子守唄だなあ。

「それで、あの子が本当に信じていればいいんだけど。もし駄目だったら、いつも通り記憶を消さなければならないわ」

「信じるも信じないも、最初の話を真に受けるほうが、突拍子もなかったんだから」

 ふわふわ、ふわふわ。なんだか浮いてる気がする。私、いつの間にか眠っちゃったみたい。

 あ、ケーキ、冷蔵庫入れないと!

 ぱちり、と目を開ける。キッチンだと思っていたのに、そこは夜の公園だった。珪樹さんと満月の夜に出会った、あの公園。

 足は、一メートルくらい宙に浮いている。

 冬の夜なのに、寒くもなくて、風も感じない、不思議な感覚。

 ……あ、そうか。これ、夢なんだ。

 自分の体を見下ろす。手も足も半分透き通っていて、ピンク色の粒子がぽうっと光りながら、体の周りを縁取っている。

 うわああぁ、きれーい……。

 自分の手のひらをしげしげと見つめたり、夜空に透かしたりしてみる。

 足を踏み出してみると、ふわっと、優しい風に包まれたみたいに足をとられて、体勢を崩した。

 空を飛ぶ格好のまま、ふわふわ浮いている。

 手も足も、羽になったみたい。普通に歩こうとするより、空を飛ぶつもりになったほうが、うまく動ける。

 こんなに不思議な夢、初めて見たかも。

 珪樹さんの声がするほうに飛ぶと、お月さまの光がぼうっと照らし出す、ふたつの人影が見えてきた。

 ミルクティー色のムートンダッフルを着て、バーバリーチェックのマフラーに顔を埋め、ポケットに手を入れている珪樹さんと、白いふわっとしたワンピースを着た、小学生くらいの小柄な女の子。

 女の子の髪は、白にも金色にも見える不思議な色で、足元に届きそうなくらい長かった。それでも全然重たそうな感じではなく、毛先からふわりふわりと波打っているように見えた。

「ねえ、約束守ったんだから、これでこの街を出て行かなくてもいいんでしょ?」

 珪樹さんのマフラーからぴょこっと顔を出したビスくんが、ちょっと怒った口調で女の子に話しかける。

「だいたい何で、こんな夜中に呼び出したのさ。しかもご丁寧に、人間の姿になってるし。いつも通り来ればいいのに」

「わたしには、わたしの事情があるのよ」

 女の子の声は、高くてとても幼かったけれど、口調は大人びていて、そのギャップにドキッとしてしまう。

「おおかた、僕たちに釘をさすようにでも、言われたんでしょ?」

 面倒くさそうに、崩れたマフラーを巻き直しながら答える珪樹さんの声。

「最近のあなたは、あなたらしくなかったわね。一体どんな気まぐれだったのかしら?」

「退屈していた時に、からかいがいのあるウサギを見つけただけ」

「……本当に、それだけかしら」

「……え? なにあれ! ちょっと、珪樹!」

 こちらを振り向き、私と目が合ったように見えたビスくんが、ぎょっとした口調になって珪樹さんの耳を引っ張っている。

 そっか、夢だから、ビスくんが喋っているんだ。

「え、なに。……いたたたた!」

 振り向いた珪樹さんと私の目が合ったのと、そのマロングラッセみたいな瞳が大きく見開かれたのは、ほぼ同時だった。

「……っ!? オマエ、何でここに……? それに、その姿……」

 驚きというより、意表をつかれて呆然としているような、珍しい珪樹さんの表情。

「珪樹、あれ、実体じゃないよっ!」

「ああ、分かってる。お前の仕業だよね? いいと思ってるの? こんなことして」

 妖艶な笑みを浮かべながら女の子に詰め寄り、誘惑の魔法みたいな吐息まじりの脅迫の言葉を口にする珪樹さん。

 うわあ、あれをやられると、鳥肌がぞわーって立って、金縛りみたいに身動きがとれなくなるんだよね……。

 魔法使いじゃなくても、珪樹さんは充分、物騒な魔法が使えていると思うよ。珪樹さんに限っては、媚薬も必要ないかも……。

「大丈夫。わたしは、あの子に危害を加えるようなことはしないわ。……優しいウサギさん」

 きょとんとしている私を見上げ、目線を合わせて微笑んだ。

 ウサギって、私のこと? どうやらこの姿は、全員に見えているみたい。

「凍えていたわたしを助けてくれたウサギを、忘れないわ。だから、呼んだの」

 女の子の流れるような喋り方は、まるで歌うようで、不思議な音楽を聴いているみたい。

「えっ?」

 助けた? なんのこと? 身に覚えがなくて、うーんと首をかしげる。

 でも、確かにこの女の子、どこかで会ったような気がするの。何だか神聖なものを見ているような、こんな気分、いつか、どこかで……?

「余計なこと、言わないでくれる?」

「あの、どこかで会ったことありましたっけ? って、自分の夢なのに質問しても、ダメだよね」

「……何も、気付いていないのね」

 女の子は、いたわるような笑みを浮かべると、手を伸ばし私に触れようとした。

 手も、肌も、石膏像のように真っ白で、月の光に照らされると、まるで陶器が反射して光っているみたい。人間離れしたその美しさに、惹きこまれる。

 じっと見つめられた瞳が、吸い込まれそうなサファイアブルーで、私は束縛の魔法にかかったみたいに、その瞳から視線を外せなかった。

 珪樹さんがその手をパシッと振り払い、女の子に向き合って、凍えそうな瞳でにらむ。

「わざと、そういうふうに仕向けたんだろ。何が目的?」

「……いいえ、気付いていないのは、あなたのほうね。ケイキ……」

 女の子は軽くかぶりを振り、悲しい表情になって、珪樹さんの顔を見上げる。

「あなたは、始まる前から終わりを待っているの? それとも、終わるのが怖いの……?」

 ハッと息を呑み、珪樹さんの顔色が変わる。

「今まで、正体が知られそうになったら、街を転々としてきた……居場所にも、人にも何の執着もなかったあなたが、この子を遠ざけてもこの街に残りたいと思った。……それはなぜ?」

「関係ないだろ、お前には」

「そうね……わたしにとっては、掟さえ守ってくれれば、それでいいわ。でも、あなたに振り回されたおかげで自分の気持ちに気付けていなかったウサギが、可哀想だったから」

 私の、気持ち?

「あなたはもう分かっているはずよ、優しいウサギさん。本当に自分のことを分かっていないのは、誰?」

「……黙れ。余計なことを言うために、わざわざこんなお膳立てをしたのか?」

 な、なんだか険悪な雰囲気。

「あ、あのぉ、よく分からないんだけど、喧嘩しないでくださーい……」

 って、私の夢なのに、なんで私が仲裁しなきゃならないの!

「一番状況が分かっていないオマエに言われると、複雑な気分だよ……」

 弱々しいため息をつき、疲れた表情で頭を押さえている。

 ……というか、珪樹さん、私と喋ってくれたぁ……。

 鼻がつーんとして、瞼が熱くなる。

「……なんで泣くんだよ!?」

「け、珪樹さん、もう会ってくれないと思っていたから……夢の中でも喋ってくれたことが、嬉しくて……っっ」

 嗚咽を堪えられずしゃくりあげる私を見て、珪樹さんは唖然と目を見開いている。

「何でだよ……」

 珪樹さんが、弱々しい表情で髪の毛をくしゃっと掻く。

「ちゃんと言っただろ? 魔法使いじゃないって。オマエに、もう僕は必要ないはずだよ」

「ちがうっ、ちがうんです、私はっ!」

「……どうしてオマエはそうやっていつも、簡単に一線を越えてこようとするの?」

 相手を非難しながらも、本当は自分を自嘲しているこの表情、前にも見たことがあるよ。こういう顔の時、本当に傷ついているのは、苦しんでいるのは珪樹さんだって、私はもう、知っている。

「珪樹さん……?」

 近付こうとした瞬間に、月の光を雲が隠し、闇の中をざわざわと、落ち葉を躍らせる風が吹いた。

「……もう、夢はおしまい。早く、目を覚ましな」

 そう言って珪樹さんが私に向き直り、すっと人差し指を振った瞬間に、私の周りの光の粒子が薄くなってゆき、目の前の景色がだんだんぼやけて遠くなってきた。

 ……あ……夢から醒めるんだ。

「いやだっ!」

 なんだか、もう珪樹さんに会えないんじゃないかという不安に襲われて、涙の粒を飛ばしながら、薄れゆく珪樹さんのシルエットに手を伸ばした。

「いやだよっ……! 私はもっと、珪樹さんのそばに……!」

 そばに、いたい? どうして?

「夢の中でだって、必要ないだなんて、言わないでっ! もう会えないなんて、嫌だっ! わたし、私は、珪樹さんが……っ!」

 自分が遠ざかっているのか、夢が消えていくのか分からない中で、掴むように手を伸ばした瞬間、ぱちん、と瞬きするみたいに、目の前の景色が消えた。

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