第8話 涙味のホットチョコレート

 ココアにはね

 塩をひとつまみ入れるのが おいしくするコツ


 しょっぱいものは 甘いものを引き立たせるんだ


 キミのしょっぱい涙も

 明日が甘くなるための 必要な味なんだよ


 ――絵本「魔法使いのケーキ屋さん」より


 頭の中がフリーズしたまま、私は裏口のドアの前で立ち尽くしていた。どうしていいのか、何も分からなかった。今までどおり扉一枚隔てただけなのに、〈Ange〉がとても遠い。ぱたんと閉めたドアの音が、消すことのできない拒絶の音に聞こえた。珪樹さんが、私と珪樹さんの間に置いていったピリオド。

 このまま戻って、私は珪樹さんに、何て言葉をかければいい? そんなこと気にしませんよ~、って冗談ぽく言えばいい?

 ――オマエが好きなのは、魔法使いとしての僕だよ――。その言葉を否定できる? だって、確かに私は、自分の気持ちすらもう考えられなくなっていた。

 戻れない。もう戻れないんだよ、この場所には。ここで泣いていても、中に入れてくれる人はもう、いないんだよ。

 明るいマカロン色だった今までの気持ちは、目の回りそうなマーブル模様に変わっている。このままマーブルケーキにしたら、誰もが吐き出しそうな感じ。

 罰が当たったんだと思う。私はきっと、ふわふわした気持ちに酔っていて、珪樹さんの気持ちまで見えていなかった。自分本位で行動していた。ずっと、ずっと。

 御伽噺では、ウサギは最後にどうなるんだっけ。泥舟で沈められたり、皮を剥がれたり……。ダメだ、ろくな最後が思い出せないよ。

 唇を噛みしめ、悔しさと嫌悪感の混じった涙をぐいっと拭った時、鞄の中の携帯電話が震えた。

「もしもし?」

 場所を移動しながら通話口を耳に当てる。

「あ、もしもし、杏樹ちゃん?」

「えっ、塩沢くん?」

「おはよう。突然ごめんね。先週、今日話したいことがあるって言ってたでしょ? でも一限目に姿が見えなかったから、心配して電話してみたんだけど。体調でも悪い?」

 えっ、一限? 塩沢くんの言葉に腕時計を確認すると、ちょうど一限目が終わった時間だった。

 私の頭はどれだけ、ぼうっとしていたのだろう。一時間以上、ドアの前でフリーズしていたらしい。ケーキの箱がなければ、ポカポカ頭を殴りたい気分だ。

 塩沢くんにお礼を言い、通話を切ると、未読メールが数件たまっていた。差出人は恵麻ちゃん。授業をサボるなんて初めてだから、心配をかけてしまったみたい。

 今から向かうね、と返信を打ちながら、早足で学校に向かった。

 もう、モンブランが崩れてしまっても関係ないはずなのに、どうしても、走れなかったの。モンブランが、珪樹さんと繋がっている最後の糸に思えてしまったから、大切に胸に抱きながら、揺らさないように、崩さないように、急いだ。

 通い慣れた道。〈Ange〉から毎日通った通学路。始まりの日から一ヶ月も経っていないのに、木漏れ日を落としていたポプラ並木が、舗道に絨毯を作るようになった、それだけの短い時間なのに。それなのにどうして私の景色は、こんなに何度も色を変えてしまったのだろう。

 ギリギリ二限目に間に合い、チャイムと同時に教室に滑り込む私に気付いた塩沢くんが、遠くから笑顔で目配せを送ってくれる。

 こっちこっち、と口パクで手を振ってくれた恵麻ちゃんの隣の席に急いで座る。

「席、とっておいてくれてありがとー。あとメールも、気付かなくてごめんね」

「いえいえ。それより一限目、寝坊でもしたの? あれ、その箱なあに? なんだかいい匂いする」

 恵麻ちゃんに説明する前に教授が入ってきてしまったので、話はそこで中断になってしまった。授業が終わったあと、塩沢くんにメールをした。

『今日は電話をくれてありがとう。心配かけちゃってごめんね。大事な話のことなんだけど、放課後、中庭のベンチで待っています』

 送信ボタンを押す時、少し、指が震えた。


 放課後、私は中庭のベンチに座って、ぼんやりと景色を眺めていた。

 広大さがウリのキャンパス。草原のような芝生の広場に、木製のテーブルや椅子、ベンチが点在している。通路に沿って植えられているポプラから斜めに差し込む十二月の陽射しが眩しい。

 お天気のいい日には、ランチを食べたり談笑したりする学生でそれなりに賑やかな中庭だけど、十二月のこの寒さで夕方だと、さすがに人気もほとんどない。

 テーブルに、課題とコーヒーのタンブラーを置いて、甘く微笑みあいながらペンを動かしているカップルを見る。寒くないのかな。寒くても二人きりになりたかったのかな。それとも、二人でいたら寒さなんて感じないのかな。

 こんな素敵な景色の中の素敵なカップルを見ても、何も感じない。外国映画のワンシーンみたいな、憧れの景色なのに。

 自分以外の素敵な出来事が、全部、遠い世界で起こった他人事みたい。

 はあぁぁ……と深くため息をついた時、背後から息をのむ音が聞こえた。

 くるりと振り向くと、心配そうに眉根を寄せている塩沢くんと目が合った。

「塩沢くん! どうしたの? そんな顔して……」

「いや、杏樹ちゃん、口から魂が抜けそうなため息してたよ……?」

「ええっ、抜けてない! 抜けてないからっ」

 慌てて手をブンブン振ると、塩沢くんはやっと安心したように笑ってくれて、私の隣に腰を下ろした。

「うん。でも、気は抜けているみたいだね。今日一日ずっと、ぼんやりしてたでしょ」

 傍から見ても分かるくらい、あからさまだったなんて。そういえば、いつの間にか放課後になっていたし、今日の授業の内容も、あんまり頭に入っていない。

 だめ。なんでこんなに私は、器用にできないんだろう。考えなきゃいけないことが他にもあるのに、ひとつのことに気をとられると、全部がまともに考えられない。

 わざわざ塩沢くんを呼び出して、来てもらったのに。先週電話した時から、覚悟していたことなのに。こんなんで、ちゃんと話できるの? しっかりしなきゃ、だめだ。

「杏樹ちゃん、あのさ」

「う、うん」

 塩沢くんの、深い色をした眼差しに見つめられて、波打っていた心の水面が、すうっと凪いだ。

「俺のせいで、そんなに困らせているんだったら、ごめん」

 同時に、血の気もすうっと引く。

 私の態度のせいで、誤解されちゃったんだ。誠意を持って伝えてくれた塩沢くんに、困るとか、そんなふうに思って欲しくないし、謝っても欲しくないのに。

「違う、違うの! 塩沢くんの言葉は、嬉しかったの、本当に」

「そっか。……それってさ、この前の返事、期待しちゃっていいのかな」

 言葉に、詰まる。

 優しげな微笑みを向けられたら、奮い立たせた心がたじろいでしまう。

 人の笑顔を奪うかもしれない言葉を告げるのは、こんなにも勇気がいることだったんだね。それは綺麗なガラスに、思いっきりヒビを入れるようなこと。珪樹さんは、どんな気持ちで、どんな覚悟で、私に真実を告げたんだろう。

 こんなふうに、何度も悩んで、何度も迷って。

 だとしたら、本当に傷ついているのは私じゃなくて、珪樹さんなんじゃないのかな。私は大事なことを、見落としていたんじゃないのかな。

 喉がひりひりと痛くなってきて、ポケットの中のものを思い出す。

「あ、塩沢くん、寒くない?」

「そうだね、夕方はちょっと冷えるよね」

「あったかい飲み物買っておいたの。塩沢くん、コーヒー好きだったよね? 良かったら、どうぞ」

 コートのポケットから、自分用のホットミルクティーと一緒に、缶コーヒーを取り出して手渡す。

 うん、とりあえず、落ち着かなきゃ。

「……ふふ」

 すると、塩沢くんが手を口元に当てながら、堪えるように笑い出した。

「ど、どうしたの!?」

「いやあ、参るなあって思って。杏樹ちゃんって、見ていないようで人のこと見ているよね」

「え?」

「コーヒー好きとか、言ったことなかったよね?」

「だって塩沢くん、いつもその缶コーヒー、買っているでしょ?」

 お昼休みや放課後、自販機の前で塩沢くんを見つけると、決まって同じ缶コーヒーを買っていた。だから、この銘柄がよっぽどお気に入りなんだなぁ、って思っていたんだ。

「何も考えていないようで、考えているし」

「えと、それって、褒めてる?」

 なんだか半分くらい、いやそれ以上、褒められている気がしないのですが……。

 杏樹って何も考えていないよね、とはよく言われるけれど。あれ? そうするとやっぱり、褒めてくれているのかな。

「杏樹ちゃんは、優しいってこと」

「そんなことないよ……。優しいっていうなら、塩沢くんだよ」

 私がもっと自分以外のことも考えられていたら、きっとこんなことにはなっていなかった。私は基本的に何も考えずに行動しちゃうけれど、塩沢くんは違う。ジェントルマンが板についている、って感じだし、さりげない気遣いや優しさが、大人だなぁ、凄いなぁっていつも感心してしまう。

「いや、俺は別に優しい人間じゃないから」

 そう静かな口調で言った塩沢くんは、自嘲するような笑みを浮かべていて、その違和感に心臓がちいさく跳ねる。

「……優しい人間じゃないって意味は、よく分からないけれど、私は塩沢くんの優しいところが好きだったし、今だって尊敬しているんだよ?」

 前半は戸惑いながら、後半は少し熱っぽい口調で、一息に語ってしまった。

「うん、ありがとう」

 でも、そう言って微笑った塩沢くんの瞳は、なんだか寂しそうに見える。

「そう思ってくれるのは嬉しいんだけどね、俺が優しいのは、杏樹ちゃんだからだよ?」

「ええっ!?」

 そんな、いたずらっぽく目配せされて、言われてもっっ!

「ふふっ」

 そしてそんなに、不敵に微笑まれてもっっ!

 あれ、何か、デジャヴ? 誰かに似ているような。

「ごめんごめん。杏樹ちゃん、表情くるくる変わって、見ていると面白くて」

 ああ、やっぱり……。塩沢くんまで珪樹さん化、しないでください! 私の心臓が、もちませんっ!

「塩沢くん、そんなキャラだっけ……」

 じいぃぃ、って見つめると。

「ご、ごめん。そんな恨みがましい目で見ないでよ。またツボにはまるから……」

 言いながらも、笑いを堪えているしっ! 何がツボにはまったのか、全く分からない……。塩沢くんって、笑いのツボ、ずれている人だったっけ?

「そういえば、その箱、さ。気になっていたんだけど、もしかして……」

 期待を含んだ塩沢くんの表情と、ためらいがちに尋ねる口調。

 存在感のあるどっしりした、リボンのかかったケーキの箱。無造作に隣に置いてしまっていたけれど、ここに持ってくるべきじゃなかったかもしれない。

 でも、どこかに置き去りになんて、できなかった。

「あ、えっと、違うの、これは……」

 箱を膝の近く引き寄せようとして、その手がさまよう。

 珪樹さんに自分の気持ちを伝えたら、笑ってくれるかなって思っていた。喜んでくれるだろうなんて、考えていた。

 そうしたら、二人で一緒にこのモンブランを食べられたらいいな、なんて甘い夢を見ていた。

 そうだね、私がこんなに馬鹿だから、珪樹さんはつき放してくれたのかもしれない。それだって、私を責めたりしなかった。珪樹さんの言葉は、精一杯の優しさだったんだ。

 私がしなきゃいけないことは何だろう。珪樹さんを傷つけて、これからきっと塩沢くんをも、傷つけてしまうんだろう。

 私が馬鹿なばっかりに、周りを振り回しているんだ。周りが、優しい人ばかりだから。優しいせいで、きっと。

 自分の気持ちと相手の気持ちと、両方を大切にするのは、どうしてこんなに難しい? 自分の気持ちに素直になればなるだけ、人の気持ちを大切にできなくなるの? 人の気持ちを大切にすると、自分の気持ちを押し込めてしまうの? どちらかを、壊してしまうことになるの?

 でも私は、どちらも諦めたくない。

 自分の気持ちも、相手の気持ちも大切にしたい。

 きっと子供の頃は自然にできていたこと。大人になったらなったぶんだけ難しくなる。

 それがどれだけ難しいことだとしても、諦めないよ。

 私にできることは、精一杯伝えること。目の前の人に対して、誠実であること。

 素直に伝えることは、相手を余計に傷つけることになるのかな?

 分からないし、自分が傷つくのは、こわい。大好きな人を傷つけるのは、もっとこわい。だからって、逃げたくないの。

 不思議だね。自分の気持ちと向き合ったら、大切な人とも、もっと向き合いたくなったよ。それは少しこわいけれど、でもすごく、嬉しくもあるんだよ。

 勝手で、わがままで、ごめんなさい。でも、伝えたいな。伝わるといいな。嬉しかったあなたの気持ちも、嬉しかった私の気持ちも。

「……ごめんなさい。このケーキは、あげられないの」

「えっ……?」

 私たちの周りだけ、時が止まったのかな。北風がぴゅうぴゅう言っている音だけが、さっきよりも大きく聞こえる。

 いつの間にか強く握り締めていた手のひらに爪が食い込んで、痛い。

 一瞬、目を見開いて瞳の奥を揺らした塩沢くんが、ゆっくりとまばたきをして、表情を立て直した。ケーキの箱に目線を移し、硬い声で問う。

「その包み、〈Ange〉のだよね」

 ケーキの箱にはパリっぽいセピア色の包装紙がかかっていて、細くて先が螺旋状に巻いてあるトリコロールのリボンの上に、天使の羽の形をした金色のロゴシールが留めてある。

 シンプルだけど凝っているから、一度ケーキを買ってくれた人は覚えてくれるんだって、珪樹さんが言っていた。

「……うん」

「杏樹ちゃんは……あの人が好きなの? あのお店の店長さん。この間杏樹ちゃんとお店で会った時、親しい感じがしたから」

 いきなり突かれた、核心。塩沢くんには、やっぱりごまかせない。たぶん塩沢くんには、私の気持ちなんて全部見透かされていると思うけれど、自分の言葉で打ち明けないと、ダメなんだ。

 触れるのすら戸惑っていた自分の気持ちの核心を、言の葉にして伝えないといけないんだ。そして臆病な自分にも、心の奥から、言い聞かせて。

「ちょっと長くなるかもしれないけど、私の話、聞いてもらってもいいかな」

 真剣になりすぎて低い声になってしまった私を、塩沢くんは困惑した眼差しで、それでもしっかりとうなずいてくれた。

「わたし……私ね、正直に言うと、恋とか好きとか、今までちゃんと分かってなかったみたい。塩沢くんのことも、恋に恋してただけなのかと思う。私のは、恋じゃなくて好奇心だって、はっきり言われちゃったし」

 自分を馬鹿にするように、力なく笑ってみる。

「憧れの感情と恋愛感情の違いが、よく分かっていなかったの。なのに告白するなんて、すごく失礼なことをしちゃったと思う。ごめんなさい」

 深く頭を下げる。でも、予想に反して、少し呆れたような優しい声が上から降ってきた。

「だから、俺とは付き合えないって結論なのかな?」

 ぱっと顔を上げると、困ったように笑顔を作った塩沢くんの表情があった。

「え? う、うん」

「別に俺はかまわないよ? 最初なんて、みんなそんなものだと思うし。付き合っていくうちに、だんだん分かっていけばいいんじゃないかな」

「うーん……?」

 塩沢くんの言っていることは分かる。もしかして、すごくもったいないくらいの申し出をしてくれているのかな? でも、そういうことでは、なくて……。

「あのね、塩沢くんのことは好きだし、大切に思っているよ。私にはもったいないくらいの素敵な人だと思ってる。恋愛感情とかじゃなくて、人として憧れているし、大好き! これは本当だからっ!」

「う、うん、分かった。ありがとう」

 勢い込んで、前のめりになる。塩沢くんは、上体を反らして、半ば引き気味……!?

「な、なんか照れるね。そうきっぱり言われると」

 あ、違ったみたい。ほうっと力が抜けて、胸の前で作っていた両手の握りこぶしが下がる。

「うん、自分でも分かっているの、塩沢くんへの気持ちは……。でもね、分からない気持ちがあって」

「分からない?」

「うん……。珪樹さん、あ、〈Ange〉の店長さんのことなんだけど」

「うん、あの人」

「凄い人なの。でもね、パティシエとしての腕前はもちろん尊敬しているんだけど、優しいのに意地悪で、仲良くなったと思ったら拒否されるし、正直珪樹さんの考えていること、全然理解できないの」

「意地悪?」

 不思議そうに首をかしげた塩沢くんの呟きは、スルーさせてください。

「珪樹さんといると、混乱することばっかりで。頭ぐるぐるになるし、体温まで上がるし。でもね、嫌じゃないの。むしろ楽しいっていうか、なんだかすごくワクワクするの! 何でなのかは、自分でも不思議でよく分からないんだけど……」

 そこかしこにびっくり箱が仕掛けてある遊園地に迷い込んだような気持ち。

 最初は一歩進むごとに驚いて、出てくるピエロに怯えたりしていたけれど、手を引かれて進んでいくうちに、ジェットコースターもお化け屋敷も、楽しくなっていた。

 くるくると違う景色を見せてくれるコーヒーカップ、夢の国へのチケットはメリーゴーランド。白馬に乗った王子さまに手を伸ばしたら、泡みたいに弾けて消えた。

 スポットライトが落ちた真っ暗な遊園地。魔法の時間はもうおしまい。

 もしもしそこのお嬢さん、遊園地はもう閉館ですよ。はやくおうちに帰りなさい。ベットで寝たらここの思い出も、明日には過去になっているでしょう。

 でも片道切符のチケットだけは、まだ私の手の中にあるんだよ。

「だからね、知りたいの! よく分からない自分の気持ちも、知りたいの! 珪樹さんへの気持ちが恋愛感情かって聞かれたら、本人に否定されちゃったし、自分でも自信がない。でも、もっと知りたいっていう自分の気持ちだけはね、本当なの」

 好奇心って言われたっていい。否定ができないんだったら、その正体が分かるまで、自分の気持ちと、珪樹さんと、もっともっと向き合ってみたいの。

 黙って話を聞いてくれていた塩沢くんが、頭を落としながら、肺の中の空気を全部出しきるようにハーッと息をついた。

「杏樹ちゃんは、すごいね」

「え、どこが!?」

「そこまでまっすぐだと、不本意なのに応援したくなっちゃうよ。不思議なことに」

 クスッと笑ったあと、

「まあ、しないけどね」

 と、いう声がボソッと聞こえた気がする。

「え?」

「ううん、こっちの話」

「まっすぐ、なのかな。そんなふうに考えたことなかったよ。猪突猛進とか、考える前に手が出るとかは、よく言われるんだけど」

「そうだね……だからこそ、杏樹ちゃんが直感で感じたことは、きっと正解なんだと思うよ。まっすぐなのは、杏樹ちゃんの長所だから」

「長所……」

 馬鹿みたいにまっすぐで、笑っちゃうくらいに単純。今の今まで、それがいいことだなんて考えられなかった。長所だなんて思いもしなかった。

 珪樹さんの優しさに憧れて、恵麻ちゃんのあったかさに憧れて、塩沢くんの思いやりに憧れて。自分のいいところなんて、ちっとも見つけられなかった。ううん、こうなりたいと憧れるばかりで、最初から見つけようともしなかった。

 塩沢くんに、そう言ってもらえるまで。

 そうだ、今までだって、心で感じたことに嘘はなかった。いくら頭で考えて気持ちを覆そうとしても、正解はもう、決まっているの。

「俺は杏樹ちゃんのそんなところに、自分にないところに、憧れたんだ」

 誰かに憧れてもらえる自分があるなんて、ちっとも知らなかったの。

 瞳が潤んでくる。つめたい冬の空気を吸うと、喉の奥がきゅーっと痛くなる。

 塩沢くんは、塩シュークリームみたいな人です。誰もが好きな、定番のシュークリーム。売っていないケーキ屋さんはないってくらい。食べたことがない人を探すほうが難しいくらい。

 でも、シュークリームは、クリームが甘すぎたり、しつこすぎると飽きちゃうんだ。シューだって、きれいに膨らませるのには、すごく技術が必要で……。シンプルなお菓子に見えるのに、とっても奥が深いの。

 そしてね、塩シュークリーム!

 クリームの甘さを控えめにして、シューをほんの少ししょっぱくすると、不思議なくらい飽きがこなくて、何個でもパクパクいけちゃうの!

 最初は、お塩なんて入れるの!? ってびっくりしたんだけど、不思議なことに、すごく合うんだよ。

 甘さの中に、ちょっぴりのしょっぱさ。それは、優しさの中の厳しさに、何だか似ているね。あなたのバランスがいいのは、とても大人に見えてしまうのは、人に対する優しさと、自分に対する厳しさが同居しているからなのかな。

 やっぱりあなたは、私の憧れです。これからも、きっと、ずっと。

「塩沢くん……ありがとう。これからも、友達でいてくれるかな」

「うん、もちろん」

 力強い笑みを返してくれた塩沢くんに、私の顔も、ほころぶ。

 落ちかけた冬の夕陽が、塩沢くんの笑顔の後ろから見えて、濃いオレンジ色の影を、私に落として。

 なんだか胸の奥がツーンとして、泣き笑いみたいになってしまったんだ。

「本当はね、最初から分かっていたんだよね。杏樹ちゃんの答えは」

「えっ、どうして?」

「最初に杏樹ちゃん、俺の優しいところを“好きだったし尊敬している”って言ったでしょ? 過去形になっている時点で、分かったんだ」

 ごめんね、って言葉は、どうしても言いたくなくて。言葉を探しているうちに、なんにも言えなくなって、たぶん私は、泣き出しそうな表情で、塩沢くんを見つめてしまっていたんじゃないかな。

「もう、陽が暮れちゃうよ。帰ろうか」

「……うん」

 トートバックを持って立ち上がった塩沢くんにならって、私も腰をあげる。

 こっそり手で涙をぬぐったのは、見ないふりをしてくれてありがとう。

 落とした涙は、心に降り積もるのかな。水時計の水が落ちるみたいに、流れ落ちた涙のぶんだけ、強さに変わっていくのかな。

 でも、もう、悔し涙のしょっぱさは、ぜんぶ飲み込むって決めた。

 ケーキの箱も、斜めにしないように、ちょっと慎重に持ち上げる。

「それ、もし良かったら、俺にくれないかな」

 このモンブランは、珪樹さんと食べようと思って作ったものだから、それを塩沢くんにあげるのは失礼だと思った。

「ううん、塩沢くんには、塩沢くんにあげる用に、ちゃんと作るね。……これは、自分でちゃんと食べる」

 一度捨てると決めた、私の思いの残骸を、カケラまで飲み込んで。自分で消化しなくちゃ、ダメだから。

 お腹を壊さないようにね、と気遣う声のあとに、

「あ、そうだ。杏樹ちゃん、分からないっていうのは、それが初めての気持ちだからじゃないかな」

「えっ、どういう意味!?」

 思いっきり顔を上げたせいで、夕陽のまぶしさに目を細めた、オレンジ色の視界の中、

「これ以上は、ヒントはあげないよ」

 といういたずらっぽい声が、降ってきた。

 頭を撫でようとしてためらって、髪の先にさりげなく触れた、優しい手のひらと一緒に。


 校門の前で塩沢くんに手を振って別れると、手に持ったケーキの箱が、急にずっしりと重く感じた。

 ……自分の気持ちはまとまったけれど、これからどうしたらいいのかな。

 すっかり地平線まで落ちた夕陽が滲んでいて、なんだか泣いているように見える。

 でも、不思議。また、ちゃんと、空も綺麗だって思える。冬の風も気持ちいいなって感じられる。

 きっと大丈夫。いつもの私、前向きな私に戻れたはずだから。

 お気に入りのピンクのマフラーを巻き直して、大学の前の大通りから、奥の路地へと足を進めた。


 どっしりとした木のドアを押すと、真鍮のベルがカランカランと楽しげに鳴る。

 すぐに耳に流れ込んでくる、心地よい蓄音機のレトロな音。

「いらっしゃいませ」

そして、穏やかなマスターの優しい声。

「いらっしゃいませ……杏樹!?」

 そして恵麻ちゃんの、おひさまみたいな明るい笑顔。

 マスターの喫茶店の雰囲気が優しいのは、内装や音楽のせいだけじゃなくて、きっとこの二人がいるからなんだろうな。

「えへへ、遊びにきちゃった」

 入り口まで迎え出てくれた、カフェエプロン姿の恵麻ちゃん。バイトの時は髪をきりっとまとめていて、なんだかみとれちゃう。

「わあ、びっくりしたけど嬉しい! いつもどおり、カウンターにする? ディナータイムに入ってお客さんが増えちゃうと、私もマスターもあんまり相手できなくなっちゃうけど……」

「うん、大丈夫!」

 マスターがテーブル越しに珈琲を入れているカウンター。

こぽこぽと愉快な音を奏でる、大きなサイフォン。正面の壁の、ガラス扉付きの食器棚には、綺麗なグラスやティーカップが、整然と並んでいる。

 全体がマホガニーみたいな濃い茶色で統一された、落ち着いた雰囲気の店内。ステンドグラスを模した窓ガラスのせいもあるのかな、ここに来ると、喧騒の時をひととき忘れて、タイムトリップしたような懐かしい気持ちになれるの。

 私がアンティーク調の椅子に腰を下ろすと、マスターが、

「いらっしゃい。杏樹ちゃん、久しぶり」

 と、柔らかい微笑みを向けてくれる。

 外は寒くても、マスターのそばだけ、春みたい。ぽかぽかな、あったかい空気。

 ここは教会じゃないのに、神父さまに隠し事ができないように、マスターにはついついなんでも話してしまう。

「お久しぶりです!」

 私も元気いっぱい挨拶すると、マスターがほっとしたようなため息を漏らす。

「良かった、杏樹ちゃんが元気そうで」

「え?」

「今日ね、ずっと恵麻ちゃんが心配していたんだよ。“今日、杏樹が元気なかった。どうしよう”って。なんか、熱を出した子供を心配するお母さんみたいな様子で……。それを見ている俺のほうが、恵麻ちゃんが心配になっちゃったくらいだよ~」

 深刻な空気にならないように、わざとおどけた口調で話してくれる。

 肩をすくめて困っているマスターの姿は、大人の男の人なのに、なんだかかわいくって。こういう気取っていないところが、マスターのあったかい空気の理由なんだろうな。

「どうかした?」

「いえ、恵麻ちゃんにもマスターにも、心配かけちゃってごめんなさい」

「いえいえ。……そうそう、杏樹ちゃん、チョコレートは好きだったよね?」

「はい! 大好き!」

「良かった。冬の新メニュー、良かったら味見してくれないかな。ホットチョコレート」

 私の前に、ソーサーの上にハート型のチョコレートが添えられた、湯気のたつカップがコトリと置かれた。

 ココア色の液体の上に、ミントの葉っぱがちょこんと浮いている。

「……ココア?」

「まあ、平たく言えば、そうなんだけどね」

 きょとんと聞き返した私に、マスターは苦笑しつつ、顎をかいている。

「ちゃんと、チョコレートを練って作っているんだよ。そしてね、コツは塩をひとつまみ入れること」

「お塩?」

「うん。ホットチョコレートに塩を入れると、おいしさが引き立つんだよ。……さ、あったかいうちに、どうぞ。舌、やけどしないように気をつけてね」

「はい、いただきます」

 ぽってりしたオフホワイトのカップの中に、ミルクとチョコレートがハート型のマーブル模様を描いている。

 見た目もかわいくて、どんな味なのかワクワクしてくる。ふーふー、と息をふきかけて冷ましてから、慎重にひとくち。

「わあぁ……」

 ほうっと夢見心地のため息をついた私を、マスターがニコニコしながら見ている。

 ココアよりとろりとしていて、チョコレートの濃い甘さが、おなかをぽかぽかと暖めてくれて。

 そして、ほんのちょっとの塩気が後から効いてきて、次にひとくち飲んだ時、よりいっそうおいしく感じるの。

「おいしーい! ココアもお塩を入れると、こんなに味が変わるんだー……!」

 お塩でおいしくなるのは、塩クリームだけじゃなかったんだね。ひとくち飲むごとに、ふあーって、吐息といっしょに力が抜けていく。チョコレート色の吐息に包まれているみたい。

「杏樹ちゃん、しょっぱさが甘さを引き立てるのは、ココアだけじゃないんだよ。今日、どれだけ塩辛い思いをしても……、それは明日の杏樹ちゃんが笑うための、必要な味なんだよ」

「マスター……」

 そっか、そうなんだ……。今日の涙のしょっぱさだけ、明日が甘く感じるんだね。マスターのこの、ホットチョコレートみたいに。

 もしかしてマスターは、私にこの言葉を伝えるために、ホットチョコレートを作ってくれたのかな。

 マスターの優しさに、なんだか涙腺がゆるみそうになって……。

あれ、おかしいな、ほっぺたが冷たい。もうすでに、目から塩水が……?

「え、ちょ、杏樹ちゃん、なんで泣いてるの!?」

 知らないうちに、だばーっと垂れてしまった涙を、拭いもせずに呆然としていると、マスターがわたわたと焦り始めた。

「……杏樹っ!? ちょ、マスターっ! なんで泣かしてるのぉっ!」

 ホールの仕事から戻ってきた恵麻ちゃんが、マスターをがくがくとゆすり始める。

「ええーっ!? お、俺が泣かせたの!?」

「ち、ちが……。あ、でも、そうなのか」

 否定しようとして肯定してしまったせいで、マスターがあからさまにショックを受けた顔に。

「そ、そんな……」

 恵麻ちゃんは、じっとりとした目つきでマスターを睨んでいるし、マスターはショックを受けた顔のまま固まっているし、私は一瞬ポカンとしたあと、なんだか楽しくなって、泣きながら笑ってしまったの。

「あ、杏樹ちゃん?」

「杏樹っ? お、おかしくなっちゃったの?」

 違うの。今の涙はね、嬉しくて出た涙なんだよ。ホットチョコレートよりも二人が、あたたかくて優しかったから。

 口元まで流れてきたしょっぱい涙を、手の甲で拭う。でも、生ぬるいこの感触が、今は愛しいから、頬に触れる手の感触も優しいよ。

「ねえ、恵麻ちゃん、マスター。良かったら、このケーキ、一緒に食べてくれないかな」

 涙が落ちたせいで、しょっぱくなってしまったホットチョコレートを飲みながら、たくさん話をするから。

 ねえ、塩シュークリームと、意地悪なモンブランの話を、聞いてくれるかな?

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