第6話 小鳥が教えてくれたこと
キミは天使って信じてる?
天使はね 綿菓子の雲の上に住んでいるんだけど
誰も見たことはないでしょう?
それもそのはず
人間界に降り立つ時はね 青い目の白い小鳥になってくるから
見分けられるのは魔法使いだけ
でも必ずしも 天使は嬉しいものじゃないんだ
そう 天使が魔法使いのもとに来るときは大抵
警告も含まれているから――
――絵本「魔法使いのケーキ屋さん」より
あの日は、呆然として家に帰った。
どうして、オマエが好きなのは魔法使いとしての僕、だなんて言ったの? 本当に珪樹さんが言うように、珪樹さんが魔法使いだから、私は好きなの……?
魔法使いに対する、憧れの気持ち。小さい頃からの夢を叶えてくれた、高揚感。確かにそれは、否定できない。
でも、私が珪樹さんのことを、もっと知りたい、もっと素の珪樹さんを見てみたいって思ったのは、それだけは好奇心じゃない。絶対に。魔法使いじゃない珪樹さんの、いろんな一面をもっと見たいと思ったんだよ。
どうしたら、伝えられる? 私の本当の気持ちは?
私が放課後、カフェテリアのテーブルでボーっとそんなことを考えていると、
「杏樹、どうしたの? さっきからそれ、全然飲んでいないじゃない」
恵麻ちゃんが明るく、私の肩をポンと叩いた。
「あ、うん。ちょっと考えごとをしていて」
自販機で買ったまま手付かずになっていたイチゴオレを一口飲む。
恵麻ちゃんは、ははーんというようなしたり顔になったあと、口に手を当ててニヤッと笑った。
「恋わずらい?」
「……っ!」
吹き出しそうになったイチゴオレをすんでのところで堪えると、ゴホゴホむせてしまった。周りの学生たちが怪訝な目でこちらを注目している。
恵麻ちゃんはそんなことも気にせずに、よしよし、と私の背中をさすってくれたあと向かいに座り、声のトーンを落として話を続けた。
「今日、塩沢くん、なんだか意味深な様子でしょっちゅう杏樹のこと見つめていたから。でも、杏樹は杏樹で上の空で、全然気付かないし。何かあった?」
「……恵麻ちゃん」
「ん?」
「私やっぱり、毎日珪樹さんのケーキ食べなきゃ、糖分が足りないみたい……」
「は?」
そう、もうアルバイトに来なくていいと言われた手前、やっぱり今朝はお店に行けなくて。
そしたら、そしたら、違うんだもん。甘かった毎日が、今日は全然甘くないんだもん。空に浮かんだ雲が、綿アメに見えないんだもん。
甘いものを無意識に求めて、普段はローカロリーの紅茶しか買わないようにしているのに、イチゴオレなんて買っちゃっているんだもん。なのに全然、甘く感じなくて。
「私、やっぱり、物足りなーーいっっ!」
珪樹さんのケーキじゃなきゃ、珪樹さんの甘さじゃなきゃ、足りないの。
「あ、杏樹、どうしたの?」
恵麻ちゃん、苦笑いしながらこちらを見ている。
「ええと……」
「あ、そういえば」
楽しいニュースを思い出したように、恵麻ちゃんは手のひらをぽん、と合わせた。
「校門の銀杏の木にシマリスがいるって、ちょっとした騒ぎになっていたよ」
「ええっ!?」
「凄いよね。台湾リスなら鎌倉とかでもよく見かけるけど、シマリスって、動物園でもなきゃ本物見たことないよね?」
それって、そのシマリスってもしかして……!
「わっ、私もそのシマリス見たいっ!」
私、弾かれたように立ち上がり、恵麻ちゃんに向かってそう叫んでいた。
校門の銀杏の木の周りには、騒ぎを聞きつけてきた学生たちがたくさん。あっ、先生たちまで……。都会で見るの珍しいもんね、シマリス。
どこだろう? 私も銀杏を見上げ、きょろきょろと枝の間に目を走らせる。黄色から茶色に変わって、葉っぱもあらかた落ちてしまった銀杏の木は、リスの保護色になってしまって目を凝らしても見つけにくい。
「あっ」
枝の間を、素早くチョロチョロっと動いた茶色い物体は……。遠目でも、あの色と模様は、間違いない!
「ビスくんっ!」
私がそう叫ぶと、驚くことにビスくんは幹をサササッと降りて、ピョン、と私の肩に降り立った。
わあっ、と歓声が上がって、周りにいた人たちが私の周りを取り囲んだ。
「すごーい、どうやったの?」
「ほぅ。野生のリスが肩に乗るとは、珍しいものですな」
「教授、やはり保健所に連絡して、山に返したほうが良いのではないでしょうか。伝染病などの恐れもありますし」
ゆったりした口調と動作で私を見つめた初老の教授に、若い助教授が不安げに尋ねる。
野生って! 保健所って! このままじゃビスくんが連れていかれちゃうよ!
「あのっ、この子、野生のリスじゃないんですっ!」
気が付くと私は、その教授をすがりつくように見上げて訴えていた。ロマンスグレーという雰囲気の、口にたっぷりと髭を蓄えた、ぴんと伸びた背すじで仕立ての良い背広を着こなした老紳士。
「私の知り合いが飼っているペットで……だから私のことが分かったんだと思います。きっと家を抜け出して迷子になったのだと思うので、私が責任を持って飼い主のもとに送り届けますので!」
私の言葉が耳に入った周りの野次馬から、「へぇ~、野生じゃなかったんだ~」「大学のペットにしたかったなぁ、残念~」などど、いろんな感想が聞こえてくる。
「ふむ……お嬢さん、君の名前は?」
髪と髭の色と同じグレーの瞳で私をじっと見下ろしていた教授が、ふっと表情を和らげて声をかけた。こんな一生徒にも、「お嬢さん」って声をかけてくれるなんて、本当に紳士。
「はいっ! 栗原杏樹です」
「そうか、栗原くん。その人の家が分かるなら、お願いしてもいいかね? 君は今から帰りかな?」
「はい。ちょうど今から帰るところです。通り道なので、任せてください!」
「ほう、それは良かった。頼もしいね」
髭を撫でつけながら、丸眼鏡の奥の目を細くして微笑む。チェーンが付いた、片目だけのこの眼鏡、なんて名前だっけ。映画以外で実際につけている人を見るのは初めて。グレーの厚手の背広は見るからに上品で、ネクタイじゃなくてスカーフを巻いている。一見フォーマルにも見えそうなそんな服装を慣れたように着こなしていて、紳士という形容詞が嫌味なく似合う。
ううん、それより、魔法使いのおじいちゃん――って言ったほうが似合うかも。
って私、珪樹さんと出会ったからって、周りがみんな魔法使いに見えちゃダメだってば。
でも、虹彩までグレーの、万華鏡みたいな目で見つめられると、心の内をすべてを見透かされるような、それなのに包容力で包んでくれるような、不思議な気持ちになったの。
「だったら、カゴに入れて運ばないと危ないのではないですか?」
さっきの助教授がどこからか、よくリスや鳥が入っているようなカゴを持ってきた。い、いつの間に、一体どこから……。
「うむ、確かにそうだね。どれ、リスくん、ちょっと失礼するよ」
教授が私の肩にいるビスくんを抱き上げようとすると、ビスくんはするっと身を翻してその手から逃れた。
「び、ビスくん」
不機嫌そうに肩の上を動き回ったあと、不満げにじっと私を見た。
「カゴに入れられるのが嫌みたいだね。でも、もし車などに轢かれたら……」
眼鏡を押し上げて教授が悩むと、ビスくん、私のコートの胸ポケットにするっと入り、すっぽり収まった!
「おお、これなら安心だ!」
周りの先生たち、拍手喝采。
ビスくんを見下ろすと、「どうだい?」とでも言いたそうなフフンとした目を私に向けた。
ビスくんって、喋っていなくても、なんだか生意気な少年って感じがするんだけど。一度だけ聞いた声も、珪樹さんの声を高くした感じの少年声だったし。
「それじゃあ、よろしく頼んだよ」
教授はそう言って私の両手を握り、見送ってくれた。握った手にぎゅっと力が込められて、私の目の深い部分を見つめて、そこには私以外の誰かに対する深い慈愛が感じられた。最後まで何も言わなかったけれど、教授はもしかして、ビスくんの飼い主が誰かを知っているのかな……?
校門までは、「ちょっと撫でさせてー!」って人たちが付いてきていたけど、ビスくんはすっぽり頭までポケットに入って拒否の態勢だったから、みんな諦めて残念そうに去って行った。
ビスくんのちょこちょこした動きを胸に感じ、くすぐったくて、これって一種のセクハラなんじゃないかとか考えながら、学校からお店までの道を歩いて行った。
「ビスくん、何で学校なんかにいたの?」
ビスくんが返事をしてくれるわけはないけれど、私の言葉は分かっているはずだよね、と思って話しかける。
近いって言っても、リスの足だったら結構な距離があるはず。散歩して迷ったにしては、遠くまで行き過ぎじゃないかな。リスには帰巣本能ってあったっけ?
「はっ、もしかして、私に会いに来たとか!?」
ひょっとして……! と思って聞いたのに、ビスくんはそっぽ向いてツーン。違いますか、そうですか。
めげずに、ちょこちょことビスくんに話しかけながら無視される、というのを続けながら歩いていると、ビスくんが急に顔をピクッと上げて、鼻をひくひくさせて、耳を左右に細かく動かしたあと、歩道にピョンと降り立ってしまった。
「わっ、ちょっと、ビスくんっ」
そのまま、すったかたーと走り出す。リスって、意外と足が速い! そして、歩道の隅にある植え込みの側で止まった。
「ど、どうしたの……?」
ビスくんに追いついた私、ちょっとゼイゼイ息をつきながら下を見る。
背の低い木が植えられた植え込みの、根元のあたりに、真っ白な綺麗な小鳥が倒れていた。動かないから最初はドキっとしたけれど、呼吸をするたびにお腹が上下していて、まばたきもしているので、生きていると分かってほっとした。
白い鳩かと思ったけど違う。もっと小さくて、ほっそりしている。白い体は、つやつやと光沢が感じられるくらいすべすべで。ゆっくりとまばたきをしている瞳は、どこまでも透明なサファイアブルー。
なんて綺麗な鳥なんだろう。しばし呆然と見とれてしまう。
「わあっ、ビスくん、何やってるの!?」
倒れている小鳥を、ビスくんがゆすっている。すると小鳥は、羽をゆっくり、バサッバサッと動かしてみせた。
飛べないのかな? どこか、怪我でもしているのかな?
ビスくん、私のほうを見て、くいっくいっと顔を小鳥のほうに振る。
「うん。分かっているよ、ビスくん」
何とかしてやれ、ということなんだろう。
「ごめんね小鳥さん。ちょっと失礼するね」
しゃがんで恐る恐る、小鳥を膝の上に抱き上げた。
「怪我をしている様子はない……よね。まさか病気とか……!?」
小鳥は、私が抱き上げてもぴくりとも動かず、寒いのか小刻みに震えている。
「どうしよう。とりあえず、場所を移動しないと」
ここだと自転車で通る人もいて危険だ。でもどうしよう。動物病院に連れていっても診てもらえるんだろうか。野生動物だと難しいかもしれない。
悩んでいるとまた、ビスくんがすったかたーと走り出す。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
ビスくんは歩道の途中で止まって、「早くしろ」とでも言いたげにこちらを見ている。
私は首に巻いていたマフラーを外し、小鳥を丁寧にくるむと、胸に抱いてゆっくりと立ち上がった。
とっとこ走るビスくんの後を、早歩きくらいの速度でついていく。なるべく上半身は動かさないように注意して歩いた。ちょっとの振動でも、小鳥さんの具合を悪くしてしまうかもしれないから。
「どこに行くの? あ……」
私は気付いた。私たちが歩いている方角は、今日のそもそもの目的だった場所、つまり〈Ange〉に向かっているということに。
〈Ange〉に着くと、ビスくんは正面入り口ではなく、アルバイトの時に使った裏口のほうに向かった。薔薇のアーチがある玄関のちょうど真裏にあたり、従業員以外の出入りはない。
小鳥を抱いたまま、注意深く裏口の下の石段に腰掛ける。ドアに背を預ける格好だから、誰かが出てきたらすぐ気付く。
「珪樹さんを待てってことだよね」
ビスくんに問いかけるとも、独り言ともとれずにつぶやく。
そうだ。珪樹さんなら、こういう時の方法を知っているかもしれない。動物の言葉が分かるって言っていたし、きっと助けてくれるはず。
でも、今は夕方。お店が閉店するまで、あと数時間はある。それまでに、この小鳥さんの具合が悪化したら……。
今、私の腕の中でトクトクと鼓動を伝えてくるこの小さな温もりが、消えて冷たくなってしまうことを想像すると、急にぞっとして私は身震いした。
どうしよう。何とかしないと……!
「……そうだ!」
うんうんと頭をひねっていると、昔なにかの本で、弱っている動物はとりあえず暖めることが重要だと読んだことを思い出した。
「ビスくん、ちょっとの間よろしくね」
小鳥を、ドアが開いても危なくない位置にそっと下ろし、私は近くの自動販売機に急いだ。温かいペットボトルを数本、腕に抱えて戻る。
小鳥を再びそっと抱え、腰を下ろして膝に乗せる。コートを脱ぎ、マフラーにくるんだ小鳥をさらにコートで包む。そして、コートとマフラーの間にペットボトルを挟んで小鳥を暖める。
これで、暖まりますように。あとは、水分も必要だよね。
鞄から、運良くミネラルウォーターが入っていた水筒を出し、蓋のコップ部分に水を入れ、小鳥が飲めるように頭の近くに固定した。
つめたい木枯らしから小鳥を守るように、風上を背にして抱いていると、ビスくんが視界の端でなにやらちょこちょこと動いているように気付いた。
「ビスくん、何やってるの?」
見ると、地面に落ちた胡桃を拾って口の中に詰めているようだ。そして口の中がパンパンになると、その胡桃を――地面に埋めていた!
聞いたことがある。リスは冬が近付くと、木の実を埋める習性があると。でも埋めたことをそのまま忘れてしまうと……。
「ま、まさか……」
この、店の裏に鬱蒼と茂る小さな胡桃の森は、まさかビスくんが……!?
「ぶふーっ!」
思わず吹き出してしまった。わ、笑いが……。
私が体を震わせながら笑いを堪えていると、小鳥が「どうしたの?」という瞳で見上げてきた。
さっきまで、目を開けているのがやっと、って感じだったのに!
そっと身体を撫でてみると、さっきまでよりも体温が上がっている気がする。震えも止まって、呼吸も穏やかに安定している。
もちろん、まだ弱々しいから油断はできないけれど、応急処置が効果あったってことだよね?
「良かったあ……」
背中を曲げ、小鳥に頬ずりしそうな近さに顔を近付けて、はーっと息を吐くと、小鳥は可愛らしく首をかしげた。
本当に、愛らしくて綺麗な小鳥さん。まるで神様からの使いみたい。天から降りてきたんだ、って言われても信じちゃうよ。
こんなことを考えちゃうから、大学生になっても「杏樹は夢見がちすぎる」って周りに言われちゃうんだろうなあ。
そんなことを考えていると、瞼がだんだん下がってきて。あれ、何だか、ホッとして眠くなっちゃったみたい……。
うとうと。ふわふわ。気持ちいい……。
夢の中で、私はなぜか珪樹さんと雲の上にいて、なぜか魔法使いの格好をした神様に、「この小鳥は天からの使いじゃ。助けてくれたお礼に、ここにある雲を好きなだけ食べてもよいぞ」と言われ。綿菓子の雲を、珪樹さんとお腹いっぱい食べていた――。
…………ゴッ!!
いきなり頭に衝撃と痛みが走って、私は綿菓子の夢から目を覚ました。
「――いたあああい!!」
「うわっ!」
私が叫ぶのと同時に、私の背後からも驚いた声がした。
「なんで、こんなところにいるんだよ……!」
ぐらんぐらんする頭で振り向くと、今まさに私のもたれかかっていたドアを開けて、驚きと呆れが混じった顔で私を見下ろす、珪樹さんがいた。コックコートは脱いだ私服姿で、ムートンダッフルのコートとチェックのマフラーで完全防寒。これから外に出かけるつもりだったのかな?
「あー、お仕事終わったんですねー。お疲れさまですー」
呂律の回らない口で挨拶して、頭を下げる。
「オマエ、よだれ垂れてるんだけど。それより頭、大丈夫?」
「失礼ですね、頭は正常ですよ!」
「そっちの頭じゃないよ! オマエ、寝ぼけてるだろ!」
あーもう、と珪樹さんは頭を抱えて、私の隣に腰を下ろした。
「ちょっと、じっとしていて」
そう言うと、珪樹さんは痛む私の後頭部に手を当てて、優しく撫でた。
「えっ、ええっ?」
急に頭を撫でられてびっくりしたけれど、珪樹さんが触れたら、頭の痛みはすぅーっと消えていった。
「すごい……。これも魔法ですか?」
「違うよ。昔からある民間療法」
「民間療法?」
「痛いの痛いの飛んでいけーってやつ」
「ええっ、本当に!?」
「信じるなよ……。それよりなんで、こんなところで寝ていたの?」
「あ……実は、この小鳥が」
大事に抱えていた小鳥を見せると、珪樹さんの瞳が戸惑いに揺れたような気がした。
「今日、うちの大学にビスくんが来ちゃって、先生たちが困っていたから、飼い主と知り合いだから送り届けますって言って、ビスくんとお店に向かっていたんです」
「そうだったのか。ビスが見当たらないから……これから近くを探しに行こうとしていたんだ」
だから厚着していたんだ。きっと夜遅くまで探すことを想定して……。きっとすごく心配したんだろうな。
「ビスくん、もう珪樹さんに心配かけちゃダメだよ」
珪樹さんの肩の定位置に戻って、のん気にしっぽの毛づくろいをしているビスくんに声をかける。
「本当だよ、まったく……。で、この小鳥はどうしたの?」
「お店に向かう途中でビスくんが見つけて……この子が倒れていたんです。暖めはしたんですけど、まだ弱っているみたいなんです。珪樹さんなら、もしかして治せるかもって思ったのですが……」
「……オマエいつも、そんなに無責任に動物助けるの?」
眉をしかめた珪樹さんが厳しい口調で問う。
「だって、放ってはおけないじゃないですか」
「犬でも猫でも、助けるの?」
「犬でも猫でも、助けると思います。人でも」
無責任だって言われても、目の前で苦しんでいる人や動物がいたら助けちゃうよ。それは頭で考えることじゃなくて、きっと反射的にやってしまうと思う。
珪樹さんはそう言うけれど、きっと珪樹さんでも同じことをしていたと思うよ。珪樹さんはそういう人でしょう? あの日雨に打たれて泣いていたウサギを助けてくれたのも、あなただったんだよ。
珪樹さんは、目を伏せて小さなため息をつき、私の手に触れた。
「身体、冷えているじゃないか」
コートを脱いで薄着のままだった私を眺める。
「本当に、なんというか」
「……すみません。でも、私にできることだったら何でもしますから! 寝ないでずっと看病しますから」
珪樹さん、小鳥を受け取り、コートとマフラーを私の肩にかけてくれた。そして、小鳥の目をじっと見つめる。その珪樹さんの眼差しは、歪んで悲しそうに見えた。えっ、まさか、すごく重症なの……!?
「あの、珪樹さん、もしかして」
「この小鳥は、大丈夫だよ」
「本当ですか!?」
「ああ。一晩預からせてもらえれば」
「ありがとうございます!」
「なんで、オマエがお礼を言うの」
「だって、嬉しいから! じゃあ、私も一緒に看病します!」
珪樹さんは、顔をしかめて面倒くさそうな声を出す。
「部屋には入れないって言っただろ? それにオマエ、夜に男の部屋に泊まるって意味、分かってる?」
「えっ? ……ああっ!?」
すみません、全然分かっていませんでした。赤面して、頭を抱えたままうつむく。ああもう、恥ずかしい。
「とにかく、僕ならなんとかできるから。オマエはもう、帰りな。今日は送っていけない、ごめん」
「はい……。分かりました」
私が肩を落としたまま立ち上がり、水筒をバックに詰めてとぼとぼと帰ろうとすると、
「……明日の朝、おいで。元気になった鳥、見たいでしょ?」
と、そっけなく言ってくれた。
私、元気よく振り返って「はい!」と返事をし、よろしくお願いします、と頭を下げて、珪樹さんに背を向けて歩き出そうとした。すると、
「……ビスのこと、ありがとう」
優しくて深い、珪樹さんの声が後ろから降ってきた。
振り向くと、もう珪樹さんは後ろを向いて扉に体を滑り込ませているところだった。
なんだか今日の珪樹さん、元気がないように見えた。私との間に、一枚壁を作っているみたいだった。
やっぱり、昨日の台詞のせいなの? 私はもっと、珪樹さんが昨日言った言葉の意味を、ちゃんと考えなければいけないのかもしれない。
帰り道、決心をしながら月を見上げた。
満月に近付いた今日の月は、なんだか悲しそうに見えた。
次の日の朝、まだ景色が白く霞む時間に、私は〈Ange〉へ向かった。
お店に近付くと、すでに入り口の近くに珪樹さんが立っているのが見えた。
そして、珪樹さんの周りをバタバタと一周して、珪樹さんの腕に止まっているのは、昨日の小鳥!
珪樹さんが腕を振ると、また低く飛び、肘を曲げた腕に着地する。
すごい、あんなに元気になったんだ! 良かったあ。
十二月上旬の朝は寒い。手がかじかんで、むき出しの耳が痛い。白い息を吐きながら、珪樹さんのもとに走り寄った。
「おはよう」
控えめに笑いながら、珪樹さんが挨拶してくれる。
「おはようございます。すみません、寒いのに外で待たせてしまいましたか?」
「いや、さっき羽の様子を見ようと思って出てきたばかりだから」
「それなら良かったです。小鳥さん、元気になったんですね」
「うん」
また嬉しそうに、珪樹さんの頭上に円を描いて飛ぶ。今度は、私の肩に止まってくれた。
「わっ! 嬉しーいっ!」
鳥が肩に止まってくれるなんて、テレビでしか見たことがない体験に、興奮しちゃう。
「ずいぶん人懐っこい小鳥さんですね。よく訓練されているみたいだし、もしかしてどこかで飼っている鳥なのでしょうか?」
「そうかもしれない。飼い主が探しているかもしれないから、早く放してあげよう。ここだと飛ばすのに危ないから、公園まで行って」
「そうですね! あの公園なら開けた広場もあるし、ちょうどぴったりですね」
きっと珪樹さん、私にそれを見せようとしてくれて、お店まで来いって行ってくれたんだ。そして朝寒い中、外で待っていてくれたんだ。
公園に着くと、朝露に昇り始めた陽の光が反射して、木の葉っぱも、遊具も、きらきら宝石箱みたいに輝いていた。
綺麗……。光の粒が、空気まで金色に染めているような気がした。
肩に小鳥を止まらせている、珪樹さんの横顔をちらりと見る。陽の光が、珪樹さんの髪の毛を金色に透かして、横顔に繊細な陰影を作り出して、まるで一枚の絵画のように綺麗だと思った。
公園の広場の中ほどまで進む。
「このへんでいいかな」
珪樹さんは、そう呟くと足を止めた。
「ウサギ、最後にお別れの挨拶でもしたら?」
「はい!」
またね、元気でね、って言いながら、小鳥の喉を撫でてあげる。目を細めて、気持ちよさそうに撫でさせてくれた。
「じゃあ、行きな」
珪樹さんが小鳥にそう声をかけ、羽を広げて飛び立とうとしたその瞬間、バサバサッと大きな音が頭上から響いてきた。
驚いて上空を見上げると、公園にいたたくさんの鳥たちが集まってきて、私たちの頭上を飛び始めた――。
白い小鳥もその中に混じって、みんなで私たちの頭上を旋回している。
凄い……。
その光景に圧倒されて、なんだか胸がいっぱいになり、私はただひたすら頭上を見上げ、その光景を目に焼き付けていた。
鳥が代わる代わる珪樹さんの側に近寄って、珪樹さんの差し出している手に止まったり、珪樹さんの周りを旋回したりしている。
金色の光の中、たくさんの鳥たちに包まれている珪樹さんは、本当に優しい目をしていて、慈しむような眼差しを鳥たちに向けていた。
それは宗教画の天使のように、尊くて美しい光景だと思った。私はなぜだか胸から切ないものが込み上げてきて、なんだか胸が苦しくなって、涙が溢れてきた。
人は本当にきれいなものを見たときには、自然に涙を流すの? 本当にやさしいものに触れたときには、胸が切なくなるの?
ねえ、小鳥さん。私は珪樹さんの本当の姿に、心の内側の大切な部分に、今、触れているんだよね?
だからこんなにも切なくて、胸がキュンとして、私もあの眼差しを向けられたいって、泣きたいくらいに、叫びたいくらいに願うんだよね。
私はずっと、素の珪樹さんを見たい、珪樹さんのいろんな一面をもっと見たいって思っていた。
でも今は、そんなこと願っていないことに気付いた。だって、私は――。
ねえ、小鳥さん。私、大切な気持ち、本当の気持ち、見つけたよ。
鳥たちは、その神秘的な光景をしばらく私に見せたあと、一斉に、遠く遠くの空に飛び立って行った。
羽ばたきが遠ざかり、空と空気が静まりかえったあとも、まだ夢を見ているような気分でぼうっと立ちつくす。
「ウサギは、これから学校でしょ?」
珪樹さんの声が鼓膜を震わせる。止まっていた時間が動き出す。急に世界に音が戻ってきた。きっと運命の歯車も、この時に音を立てて回り始めたんだ。
「あっ、はい。そうです」
「じゃ、僕はこのまま店に戻るから、ここで。……あ、そうだ、週明け」
「月曜日が定休日ですよね、分かってます。朝のいつもの時間に行きますから、ケーキの指導、よろしくお願いします」
「……もちろん」
私はある決心をした。大学に向かう途中の道で、携帯電話の通話ボタンを押す。
そしてその人に、はやる胸を押さえながら、約束の言葉を口にした――。
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