第4話 仲直りの魔法

 ふわふわメレンゲは勇気の出る食べ物

 膨らむ時にたくさん頑張ったから メレンゲは勇気をあげられるんだ

 大丈夫だよ 僕がついてるよって

 元気と勇気がお腹の中で ふわふわって広がるから

 食べたら、ほら 自信が溢れてきたでしょう?


 満月の雫は恋のエッセンス

 ふわふわケーキに たっぷりシロップを染み込ませて

 ケンカをしているカップルに はいどうぞ!

 一口食べたら うふふ、不思議だね

 なんだか幸せな気持ちになって 自然に笑みがこぼれて

 いつの間にか仲直りしているから


 ――絵本「魔法使いのケーキ屋さん」より


 空が日一日と高くなって、空気がキリリと澄んできて、秋が冬に近付くのを感じながら、私が珪樹さんのお店に通うようになってもう二週間。

 シロップを作るコツも掴んできたから、私のお手伝いも開店時間よりだいぶ早く終わるようになり、余った時間は珪樹さんがケーキを作るところを見学させてくれた。

 珪樹さんが小麦粉をふるう、メレンゲを泡立てる、クリームでケーキにお化粧する。その動作のひとつひとつが本当に綺麗で、魔法なんて使っていないのに、本当に魔法みたいで。この人は、たとえ魔法使いじゃなかったとしても特別なパティシエなんだ、って思えた。きっとケーキの神様に愛された特別な人なんだって。

 私がパティシエを目指していると言ったからか、お店のケーキを作るお手伝いもさせてもらえるようになった。

 一番楽しかったのは、マカロンとギモーヴを教えてもらった時。デパートに入っているような大きな洋菓子店でしか取り扱っていないものだと思っていたから新鮮で、豊富な品揃えの〈Ange〉に改めて感心した。

 マカロンは、ほろほろと柔らかい生地にクリームやジュレを挟んだ、まあるくて小さなお菓子。最初に食べた時は、その意外な食感に感動したっけ。

 ギモーヴは凝縮した果汁を練りこんだ、フランスの伝統的な四角いマシュマロ。噛むと、じゅわっと果物の濃い味が染み出して、なめらかな口どけとその味に虜になってしまうの。両方口当たりが軽くてついつい食べすぎちゃうから注意。

 カラフルで、宝石みたいな小さなお菓子たちを自分の手で作るのは、宝石職人になったようなとても幸せな気持ちだった。

 教えてくれる時の珪樹さんは、天使でも悪魔でもなく真剣で、アドバイスは本当に的確で、私の腕も、珪樹さんに指導されるようになってからどんどん上達してきた。なんだか珪樹さんに弟子入りしたような気分。


 そして、珪樹さんのお店でお手伝いを始めてから、最初の実習の日。

 高校の調理室の倍以上ある、大きくて機能的な実習室で、グループごとにオリジナルケーキの試作。

 今日は、シフォンケーキがベースになったアレンジケーキを作る。

 いつも通りメレンゲを泡立てていると、同じグループの恵麻ちゃんが「ん?」と手を止めてこちらを見た。

「杏樹、なんだか手際、良くなってない?」

「えっ、そうかな?」

 うんうん、と頷く恵麻ちゃん。

「今までは危なっかしい感じがあったけど、なんだか今は落ち着いてるっていうか……、プロみたいな眼差しだった」

「ほんと?」

 珪樹さんに鬼のように鍛えられているからなのかな? 前の実習のときより、ひとつひとつの手順に、自信をもって動けているかも。


 焼きあがったシフォンケーキは、きめが細かいながらもしっかりしていて、時間がたってもしぼんでこなかった。

「杏樹! すごいじゃん!」

「すごい、空気の穴も一個もあいてないよ」

「えへへ、ありがとう」

 いくつか焼いたシフォンケーキに、それぞれちがうデコレーションをしていく。ココアシフォンは生クリームで表面にツノをたくさん立てて、アールグレイのシフォンには紅茶のクリームの上に、オランジェット――チョコレートをかけたオレンジを並べる。輪切りになったオレンジの模様が、とてもきれい。これは私の案で、オランジェットを食べながら紅茶を飲むのが好きだからなんだけど……おいしいといいな。

 プレーンシフォンは季節の果物で飾る。巨峰とピオーネをお花のように立体感を出して並べて、クリームは甘さ控えめに。

 できたシフォンケーキたちを並べると、圧巻だった。

「かわいい~! やっぱり違う生地三種類にして良かったね、それぞれ全然雰囲気違うし」

「見た目はばっちりだね。問題は、味だよね。あと、ふわふわ感」

 緊張しながら、みんなでいっせいに、フォークを口に運ぶ。その瞬間、こわばっていたみんなの顔が、ほどけたようにぱあっ、と花開いた。

「うわあ、すごくふわふわ! それでいて、しっとり~!」

「口の中で溶けるかんじ!」

「ちぎると、しゅわしゅわ音がする~!」

「特に杏樹が焼いた生地が最高! 杏樹、でかした~」

 一度食べ始めると、あとはもう、きゃあきゃあ言いながら手が止まらなくなる。

 グループのみんなに褒めてもらいながら、こんなに短期間で上達したのは珪樹さんのおかげだなあ、って改めて思った。鬼のようにダメ出しされるのは、お店に出すケーキにとても愛情を持っているからだって思っていたけれど、きっとそれだけじゃなくて。手伝わせてくれることそもそもが、珪樹さんの、好意だと思うから――。

 みんなで試食したシフォンケーキは、全部食べてしまいたいくらいおいしかったんだけど、珪樹さんにも食べて欲しくて、一ピースは包んで持って帰ることにした。


「杏樹ちゃん、恵麻ちゃん。こんにちは」

 実習のあとの講義が休講になったので、カフェテリアで恵麻ちゃんとお茶をしていると、塩沢くんに声をかけられた。私が大学に入ってすぐ好きになった人で、初めて告白した人で、初めて失恋した人。学部は違うのだけれど、入学してすぐのオリエンテーションで仲良くなって、ちょこちょこと話をするようになった。

 塩沢くんは、大人っぽくて落ち着いた雰囲気の男の子。まっすぐでさらさらした黒髪はやや長めで、長身痩躯で。いつも黒っぽいモノトーンの服を着ている。今日も、ブラックジーンズにグレーのストライプのシャツ、黒のムートンのジャケットを羽織っている。

 なんだか外見は珪樹さんと対照的。珪樹さんは、ベージュとかキャメルとか淡い色の服装が多いし。

 そして紳士的で、女の子にもさりげなく親切にできる人。そこに全く他意はないから、女の子の間でついたあだ名が、ジェントルマン塩沢。

 いつも穏やかな笑みを浮べていて、話し方も柔らかくて、すごくいい人だと思う。奥手な私が、初めて男の子にときめいちゃったくらいだから。

 私が塩沢くんに振られてからも、こうして普通に話しかけてくれる。最初は顔をみるたびに胸がズキズキ痛くなったけれど、うん、もう大丈夫。胸のズキズキは、甘いもので埋めたからかな? ちゃんと塩沢くんと遠距離の彼女さんのこと、応援できるよ。

「塩沢くん! こんにちは。塩沢くんも休講?」

「俺はもともとこの時間講義とってないから」

 言いながら、自然な動作で隣のテーブルに腰をおろす。

「塩沢くんは経済学部だよね? こっちのカフェテリアで会うの、めずらしいね」

 恵麻ちゃんが言う。大学には学食とカフェテリアがあって、学食のほうが経済学部の棟に近いので、カフェテリアではたしかにあまり会わないかも。

「学食は定食とか安くておいしいんだけど、カフェテリアのほうがスイーツとかドリンクとか豊富だから。お茶したいときにはたまに来るんだ」

「こっちの学部は女子学生多いからねえ。というか、塩沢くんて甘党だったんだ?」

「うん。姉がふたりいるから、よくスイーツビュッフェとかに連れて行かれて……。名前はしょっぱそうなのにってよく友達にからかわれるけど」

 大丈夫! 佐藤って名前なのにぜんぜん甘くない人、私知ってるから。

「塩沢くん、お姉ちゃんがいるの?」

「うん。二人とも社会人なんだけど、気が強くて派手好きな人たちでね……。買い物に行くと荷物持ちをさせられるし、彼氏がいないと俺を代わりにしてデートスポットに連れて行くものだから……。彼氏役というか、ほとんど執事だね。おかげですっかり、こんな性格になっちゃったよ」

 なるほど、塩沢くんが女性に優しくて紳士的なのって、お姉さんたちの英才教育のたまものだったんだ。なんだかすごく納得。

「杏樹ちゃん、その箱ってもしかして、ケーキ?」

 実習で包んだケーキの箱に気付いて、塩沢くんが問う。

「うん。今日の実習で作ったんだよ」

「そうそう、今日の実習で杏樹、大活躍だったんだから!」

 恵麻ちゃんがテンション高めに、実習での様子を塩沢くんに話してくれた。

「へえ……。落ち着いて手際がいい杏樹ちゃん、あんまり想像できないけど」

「ううっ」

「塩沢くん、はっきり言いすぎ! 確かに私もびっくりしたけれど」

 ごめんごめん、と笑いながら塩沢くんが頭をぽん、となでてくれた。

「俺は、ふだんのぽわっとしている杏樹ちゃんのほうが、らしくていいと思うよ」

「そうかな……?」

 塩沢くん、こんなことをさらっとできる人だから、私も毎回ドキドキしちゃっていたんだよなあ……。もう、塩沢くんが優しいのはただ紳士的なだけ、って分かったけれど、今のは少しドキっとしちゃったな。

「あー分かった! 塩沢くん、そのお姉さんたちが気が強いから、杏樹みたいなぽわっとした子に癒される、とか?」

「恵麻ちゃん、鋭いな」

「ふ、ふたりとも、からかわないで」

 恵麻ちゃんは私がまだ塩沢くんを好きだと思って、協力してくれているのだろう。塩沢くんは、優しいから否定できないだけ……だよね?

「ね、そのケーキ、余ってるなら俺も食べたいな」

 私が椅子の上に大事においた箱に目をやって、塩沢くんがにこっと微笑んだ。

「えっ」

「それとも、誰かにあげる予定だった?」

 珪樹さんの顔がちらりと浮かぶ。このケーキ見せたら、なんて言ってくれたかな。上達したな、って褒めてくれたかな。それとも、「まだまだだな」なんて言いながら、でもケーキは残さずしっかり食べてくれたり、するのかな。

 でも――、せっかく食べたいって言ってくれたのに、断ったら失礼だよね。

「えーっと、そんなことないよ! 塩沢くんに食べてもらえるなら嬉しいな……。ちょっと緊張するけど」

 珪樹さんにあげるつもりだったことは隠して、箱をテーブルの上に載せる。塩沢くんが隣のテーブルから椅子だけ移動してやってきたので、「じゃーん」と小声でいいながら、おそるおそる箱を開けた。

「わあ、すごい、おいしそう。売り物みたいだよ」

「そりゃあ、将来はプロですから。ね、杏樹」

「そうだったね。お見それしました」

 おどけたように頭を下げて、塩沢くんが立ち上がる。

「俺、スプーンもらってくるね。ついでにコーヒーも注文してくる」

「あ、私も飲み物なくなっちゃったから、一緒に行くよ」

 私がお財布を持って塩沢くんの隣に立つと、なんだか塩沢くんはあったかい目で微笑んで、私を見下ろしていた。

「塩沢くん……? コーヒー、いいの?」

「あ、うん。行こうか」

 こうして並んで歩くと、塩沢くんの彼女になりたいな、って思ったあの日の気持ちがよみがえる。はじめての恋に一喜一憂して、キャンパスでそのうしろ姿を見つけるだけでドキドキして。大人っぽいメイクに挑戦しようとして、失敗したこともあったっけ。あの雨の日は、告白したことを後悔したけれど、でも今は――。

「杏樹ちゃん?」

「あ、熱っ!」

 ぼうっとしていたら、カフェテリアの人が差し出してくれたミルクティを受け取り損ねて、思いっきり手にかかってしまった。

「大丈夫!?」

「う、うん……」

「ちょっと見せて。……赤くなってる。すぐ冷やさないと」

 塩沢くんは焦ったようにそう言うと、ミルクティがかかっていないほうの私の手を引いた。

「えっ、えっ!?」

「早く水道に行こう」


 ザアア……と音を立てる冷水にしばらく当てていると、じんじんしたような手の痛みはすぐにおさまってきた。

「ふう……びっくりした」

「ごめんね、塩沢くん……。すぐに連れてきてくれて、どうもありがとう」

「ううん、大事な手なんでしょ? やけど、ひどくなさそうで良かったよ」

 大事な手、って思ってくれたことが嬉しかった。その反面、自分の情けなさが嫌になる。自分でちゃんと、気を付けなければいけないことなのに。

「ううう……本当に、ドジすぎる……」

「杏樹ちゃん……」

 塩沢くんが、急につらそうな顔になって、くしゃっと髪の毛をかき上げた。

「俺のせい……だったり、するのかな」

「え?」

「杏樹ちゃん、気を使って、俺と今まで通り接してくれているけど……、本当はあんまり話したくないんじゃないかって」

「どうして? そんなことないよ!」

 塩沢くんが――例えば、告白されたことが迷惑で、私のことを避けるなら分かるけれど、私が塩沢くんを嫌がる理由が見当たらない。むしろ今まで通り接してくれて、とても感謝しているくらいなのに。

「良かった。俺……杏樹ちゃんが嫌なら、話しかけないでおこうとも考えたんだけど……。俺が、このまま杏樹ちゃんと疎遠になっちゃうの、嫌だなと思って」

 壁に背を預けて、塩沢くん、ほっとしたように息をつく。私も水道の水を止めて、頭いっこぶん以上ちがう塩沢くんの顔を、まっすぐ見つめた。

「うん、私もだよ。せっかく仲良くなれたんだもの」

 塩沢くんもようやく、いつもの微笑みを見せてくれた。そして、

「あ、あとね」

 と言うと、膝を折り、目線の高さを合わせてくれたあと――私の瞳をのぞきこむようにして、イタズラっぽく笑った。

「さっき恵麻ちゃんに、杏樹ちゃんに癒されてるって言ったの、本当だから」

「癒されるの? 私に? イライラする、の間違いじゃなくて?」

「うん。ウサギさんみたいで」

 塩沢くんにウサギ、って呼ばれて、顔が少しこわばってしまった。私のことをウサギって呼ぶのは、珪樹さんだけだった、はずなのに。なんだかへんな、気分。

「杏樹ちゃんにイライラするような人は、優しい杏樹ちゃんとはもともと合わないような人だから、あまり関わらなくていいんじゃないかな」

「そう……かな?」

 塩沢くんの言葉が、胸にチクッと刺さった。珪樹さんは、私がトロいせいで迷惑をかけてしまっても、言葉とはウラハラにちゃんとフォローしてくれる。からかわれながら、でもなんだかちょっとずつ距離が近づいていくような時間が、今では心地よく感じていたのだけど、珪樹さんは、そうじゃないのかな……?

「そういえば、急に上達したのって、何か理由があるの?」

「うーん、実はね」

 知り合いのお店で朝だけアルバイトをすることになった、ということをかいつまんで話す。

「<Ange>って、あの、大学の裏通りの?」

「うん、塩沢くん、知ってるの?」

「母と姉が好きで、たまにおつかいに行かされてるんだ。あそこの店長さんって、たしか、若い男性だったよね?」

「そうだよ。あっでも、見た目が若く見えるだけでちゃんと大人の人だよ」

「うん、分かってる。若い男っていうのはそういう意味じゃなくて……。うーん、朝のアルバイトって、他の従業員の人も来るの?」

「ううん、店長さんだけだよ」

「……そうなの」

 塩沢くんのおうちでもよく買っているなんて、やっぱり珪樹さんのケーキは評判なんだなあ、とほくほくした気持ちになりつつ。


 カフェテリアに戻ると、恵麻ちゃんに「遅い! 心配したんだから」と二人で怒られ、やけどのことを言うと、「もぉ~」と抱き締められ。

「私がいないときは、塩沢くんがちゃんと見ててくれないと、ダメなんだからねっ! この子あぶなっかしいんだから!」

 なぜか塩沢くんが怒られていた。

「うん、ほんと、よく分かった」

 塩沢くんも神妙に、頷いているし。

 恵麻ちゃんは満足そうにうんうんと頷くと、塩沢くんと戦友のように目を見合わせた。今ここに、苦労を共にしたもの同士の、奇妙な二人の友情が成立したのだった――。

 ――って!

「わ、私ぬきで、へんな同盟組むの、やめてよっ!」

 塩沢くんは、すっかり忘れてぬるくなったコーヒーをひとくちも飲まずに、ケーキを最後のかけらまで、お腹におさめてくれました。


 そんなことがあってから、さらに一週間。

「杏樹、今日の帰り、暇?」

 毎朝のアルバイトにもすっかり慣れて、満月の日に近付いていくのが寂しく感じてきた、ある日の放課後。最後の講義のあと教室で、恵麻ちゃんに声をかけられた。

「暇だよ。恵麻ちゃんは、アルバイトは?」

「今日はお休みなんだ。だから杏樹と一緒に甘いものを食べにいきたいなって思って」

「ダイエットは、もういいの?」

 おそるおそる尋ねてみると、満面の笑みで、

「うん!」

 という返事。こんなにご機嫌ってことは、この間のことはマスターと仲直りできたんだなぁ。良かった、良かった。

 これだけ仲良しなんだから、もう付き合っちゃえばいいのになぁ。恵麻ちゃんは何も言わないけれど、マスターのことを男の人として特別に意識している気がする。マスターも、恵麻ちゃんを遠くから見ているまなざしがいつもより優しくて、愛情に満ちていて……。なんだか二人を見ていると、ほほえましい反面じれったくなる時もある。

「うん、じゃあ何食べよっか」

「そんなの珪樹さんのお店でケーキに決まってるじゃん! 杏樹ばっかり、毎朝ケーキのつまみ食いできてズルイ」

 つ、つまみ食いって。そりゃバイト中、ちょっとは試食させてもらえるけれど、ロールケーキのはじっことか、切り落とした分のスポンジとか、膨らまなかったシュークリームとか、そんな感じだよ?

 恵麻ちゃんには、珪樹さんのところで短期のバイトをすることになった、とだけ言ってある。魔法使いとか、二重人格とか、もしそんなことをバラしたら……! うぅ、恐ろしくて考えたくもない。話しても誰も信じないとは思うけど。

 水筒に入ったあったかいジャスミンティーを半分こして飲みながら、〈Ange〉への道を二人で歩く。恵麻ちゃんは家庭的で、手作りのお弁当と水筒を毎日持参している。

 つめたい木枯らしが髪をばさばさと揺らして、くしゅん、とくしゃみが出る。鼻をすすっていると、恵麻ちゃんは自分のマフラーを私に巻いてくれた。恵麻ちゃんは優しいお姉さんみたい。私は頼りない妹なのかなぁ、やっぱり。

 今日は何のケーキにしようかな、なんて相談している時に、恵麻ちゃんの携帯が鳴った。

「あ、電話だ。ん、マスター? 杏樹、ちょっとごめんね」

「うん、大丈夫だよ」

 電話は短くて、すぐ終わった。携帯を切った恵麻ちゃんは申し訳なさそうな顔をしていた。

「ごめんね杏樹、今日シフト入っていたバイトの人がね、インフルエンザになっちゃってしばらく来れないんだって」

「えっ、本当に? じゃあマスター、大変じゃないの?」

「うん。私、代打で行かなきゃいけなくなっちゃった。せっかく久しぶりに杏樹と遊べると思ったんだけど……」

 恵麻ちゃん、残念そう。でも、マスターが困っているから放っておけないんだろうなあ。恵麻ちゃんのそういうところ、すごく好き。

「いいよいいよ、気にしないで行って来て!」

「自分から誘っておいて、ごめんね」

「全然へーき! 大丈夫だから、早くマスターのところに行ってあげて」

「うん、また今度埋め合わせするから!」

 そう言いながら手を振って、恵麻ちゃんはマスターのお店のほうに走って行った。〈Ange〉とは逆方向だけど、マスターのお店も〈Ange〉も大学の近く。

「うーん、どうしようかなあ」

 恵麻ちゃんに返しそびれたマフラーを巻き直しながら、しばらく考え込む。

 もう、すっかり口の中がケーキの味になっちゃったよ。このままアパートに帰って、夕食を作って一人で食べても、きっとひもじい思いをするだろうな。

「よしっ」

 私は、アパートのほうへと向けていた足を、くるりと方向転換した。

 一人でも、行っちゃおう! そして、久しぶりにお客さんとして珪樹さんのケーキと紅茶を食べるんだ。

 本当は、一人でカフェやレストランに入るのは苦手。珪樹さんのお店にも、一人でケーキを買いに行ったことは何度もあるけれど、一人でお茶をしに行ったことは今までない。女子大生のイメージ的に、自分も大学生になったら一人カフェができるようになるのかなと思ったけれど、今まで実家にいて孤食に慣れていないせいか、落ち着かない。一人でいるならどこでも一緒かもしれないのだけれど、賑やかな空間で一人でいるっていうのが寂しいのかも。そういう時は大抵、家で作ったりコンビニで済ませてしまうくらいだけど、あのあったかい空間なら、一人でも大丈夫だよね、きっと。


 今は蔦だけのアーチをくぐって、久しぶりに正面入り口からお店に足を踏み入れる。

〈Ange〉の玄関の外には黒板が置いてあって、季節の新作や今日のおすすめメニューが書いてある。ところどころフランス語が混じっていて……これ、珪樹さんの字かなあ?  少し丸みがあって、キレイに整っているアルファベット。やっぱりパティシエになるには、フランス語もできないとダメだよね。山のように覚えなければいけない製菓用語はだいたいフランス語だし、いつかは本場に行ってみたいもの。

 近くには、石でできたリスの置物も置いてある。置物というより石像かな。かなり大きくて、八十センチくらいありそう。最初は何とも思わなかったけれど、これ、きっとビスくんだ! そっくりだもの。自分だけしか気付かないであろうその秘密に、なんだか嬉しくなって、ふふふと笑みが漏れてしまう。

 真鍮製のノブを回して、厚みのある扉を開く。

「いらっしゃいませー」

 と、ちょうどお店の中から声をかけてくれたのは、珪樹さん。珍しく厨房の外に出て接客している。

「あれ、珍しいね、帰りに来るなんて。今日は一人なの?」

 微笑みながら、席までエスコートしてくれる。うわあ、久しぶりの天使バージョンだ! でも凄いなあ、この演技力。声のトーンまで違うよ。珪樹さんの接客が受けられるとは思わなかったから、いつもとの豹変ぶりに面食らいつつコックコートのその背中を追う。

「ウサギ。なに、急にケーキが食べたくなったの? 朝は何も言ってなかっただろ」

 席に着くと、イタズラっぽい笑みを浮かべて、珪樹さんがこそっと耳打ちしてくる。周囲の目がなければ、いつもの珪樹さんだ。

 でも、あれ? 私、珪樹さんの小悪魔バージョンが最初は怖かったはずなのに、どうして今は、こっちに戻ってくれたほうが安心しているんだろう。

「本当は友達も一緒のはずだったんですけど、急用が入って来れなくなってしまって。でも、もう口の中が珪樹さんのケーキになっちゃっていて、我慢できなくて」

「ふうん」

「私、一人でカフェとか入るの苦手なんですけど、ここなら大丈夫かなって思ったから」

「落ち着く? この店」

「はい。……あ、もしかして?」

 よく気付いたね、という感じでニヤッと笑う。

「そ。気分を落ち着ける効果のあるポプリを置いたり、インテリアの色や照明にもそういう効果があるんだよ」

「そうだったんだぁ……」

「どんなお客様でも落ち着いてもらえる空間にしたかったから」

 男でも女でも、子供でも大人でも? ううん、きっとそういう意味だけじゃなくて、どんな気持ちの時でも。そう、失恋して悲しい気持ちの時でも、雨に濡れて震えている時でも、一人で寂しい気持ちの時でも。

「どんな時でも私、このお店にいると落ち着けました。珪樹さん、凄いです。でも、それだけじゃないと思います」

「え?」

「珪樹さんの笑顔があるから。例え珪樹さんがホールに出ていなくても、従業員さんみんなが凄く朗らかな笑顔なんです。それで、珪樹さんがホールに出てくると、従業員さんもお客さんも、空気がほわってほぐれるの。それって、珪樹さんがいつでも笑顔でお仕事しているからなんだなって思ったんです」

 それは紅茶にお砂糖が入るような、ちいさな変化かもしれない。外から見ただけじゃ分からない。でも、飲んでみて分かるんだよ。

 お客さんとしてお店に来るだけじゃ見えなかったかもしれない。でも、いろんな角度からお店と珪樹さんを知ってみて、分かったの。

 つい夢中になって語ってしまった。返事のない珪樹さんを不安になって見上げると、手で口元をちょっと押さえていて、少し見える目の下がほんのり紅くなっていて。

 えっ、困ってる? じゃなくて、もしかして、照れてる? うわぁ、どうしよう。なんだかちょっと恥ずかしくて、そして嬉しい。こんな珪樹さん、初めて見る。珪樹さんの表情がすごく可愛くて、心臓がどきどきする……。

「何でオマエが赤くなってんの、ウサギ」

 いつにも増してぶっきらぼうな口調なのは、照れ隠し?

「そ、それより、飲み物はミルクティーでお願いします」

 指摘されて、私のほうがどもってしまったよ。

「ケーキは?」

「うーん」

 迷うなあ。初めてのものを試したいけれど、季節限定は除いて定番のケーキは大抵食べてしまった気がする。

「じゃ、これは?」

「苺のショート?」

 定番中の定番だけど、ここでは一度も食べたことがなかった。他のカラフルできらびやかなケーキに目を奪われて。でも苺ショートは、子供の頃から一番好きなケーキ。

「オマエに似ているから。苺ショート」

「な、なんでですか」

「ほわーんってしていて、生クリームもスポンジも甘くて、性格そのものじゃん。ほら、苺も赤くてウサギの目にそっくり」

「いつもは赤くないですっ!」

 喜んでいいのか、何なのか。でも、好きなケーキに似ているって言われたのは嬉しいな。

 最初は〈Ange〉にショートケーキがあるのは意外だった。ショートケーキは日本にしかない独自のもので、本格的な洋菓子店には置いていないことも多いから。

 一度そのことを珪樹さんに聞いてみたら、こう答えたんだ。

「子供の頃、初めてケーキの幸せを知ったのって、だいたい苺のショートケーキじゃない? 苺ショートはケーキへの入り口だと思うんだ。僕の苺ショートが誰かの入り口になってくれたら嬉しいから」

 確かに、私の一番最初の幸せなケーキの記憶も、子供の頃お誕生日に両親がお祝いしてくれた、ホールのショートケーキだった。珪樹さんの話を聞いてから、小さい子供連れのお母さんがホールケーキを買っていくのを見るだけで、その子の嬉しそうな笑顔を見て、自分の小さい頃の記憶を思い出して、胸がじーんとするような幸せな気持ちになっていたんだ。

 バースデーケーキ。クリスマスケーキ。ウエディングケーキ。これから成長していくにつれて、たくさんの幸せな思い出が増えていくんだね。ケーキがくれるのは確かに、ちいさなきっかけかもしれないけれど、それはなんて素敵なことなんだろう。

「それを言うなら、珪樹さんはモンブランです」

 苺ショートを頼んだあと、伝票に注文を書き込んでいる珪樹さんに向き直って声をかける。

「そんなこと、初めて言われたよ。なにが基準なの?」

「私、ケーキに例えるの得意だから。例えば恵麻ちゃんはチーズケーキって気がしませんか?」

「この前の友達? ああ、凄くそんな感じする」

「でしょ? だから珪樹さんは絶対モンブランです」

 そんな会話をしていると、他の席のベルが鳴り、珪樹さんは行ってしまった。店内の雰囲気に合わせているのか、〈Ange〉にあるのはインターフォン型のベルではなくて、執事を呼ぶようなハンドベル。

 お仕事中におしゃべりで引きとめて、悪いことしちゃったなぁ。これからは気をつけなきゃ。

 しばらくすると、苺ショートとミルクティーを珪樹さんが運んできてくれた。今度はお礼だけ言って食べ始めようとすると、それを遮るようにそっと耳打ちされる。

「窓際の席のカップル、そっと見てみて」

 言われたように、さりげなく横目で、少し離れた窓際の席を見てみる。

「……なんか険悪な雰囲気ですね。ケンカしているのかな」

 制服を着た、高校生の男の子と女の子が向かい合って座っていた。距離感が近いから、おそらくカップル。雰囲気を別にすればお似合いの可愛らしいカップルなんだけど、女の子のほうがご立腹に見える。上目使いのじと目で男の子を睨みながら、黙って紅茶をすすっている。

 男の子のほうは一応謝ってはいるけれど、終始ヘラヘラしているし、なんだかあまり危機感がないみたい。

 一体、何が原因なんだろう。きっと最初はささいなケンカだったんだろうだけど、男の子の真剣みが足りない態度に女の子が怒っちゃったのかな。

「オマエの作ったシロップ、効き目見たくない?」

 珪樹さんがもう一つのトレイに載せて運んできたのは、あのカップルの注文と思われる、シロップがたっぷりと染み込んだ林檎のシブースト!

 今月の新作で、試作段階で私も試食させてもらったけど、爽やかな林檎の酸味と林檎を煮たシロップの甘さ、林檎のシャリシャリとした小気味いい食感とムースの柔らかい食感のハーモニーが、秋の調べを奏でるようなケーキだった。

 食べた瞬間、耳の側で秋の妖精のトランペットがファンファーレを奏でるのが聞こえるくらい。この美味しさは私も保証できるよ。

 私、ぶんぶんと頭を縦に振る。

「じゃ、見てなよ」

 珪樹さん、ウインクしてカップルの席に行っちゃった。ウインクした時、星が散った気がするんだけど、気のせい? なんだか目の前、チカチカするんだけど。

 カップルの席までケーキを持って行った珪樹さん、ふたつのシブーストをそれぞれの前に置いたあと、ケーキの説明をしている。

 そのあと多分「ごゆっくりどうぞ」と言って頭を下げて、私の席に戻ってきた。

 テーブルの端に手をついて軽くもたれかかり、カップルのほうを見ている。

「さぁ、どうかな」

 挑むようないたずらっぽい口調だけど、見守るような優しい目でカップルを見ている。

ケーキが置かれても、しばらくは手をつけないで微妙なムードが漂っていたけれど、男の子のほうが「食べよう」って言ったみたいで、二人ともフォークを手に取った。

 重い空気のまま、二人が同時にフォークを口に運ぶ。すると、

「……美味しい」

 女の子がハッとした声を出し、顔を上げた。

「ほんと、美味しいね」

 男の子も、にこにこしながら嬉しそうにパクパク食べている。

「もう。こぼれてるし、口についてるよ」

 男の子の口の端にクリームが付いていたみたいで、女の子が呆れながらも指ですくって取ってあげてた。男の子は女の子の手首を掴んで引き止めると、その指をなんと、自分の口に含んでしまった――!

 女の子は固まった顔のまま真っ赤になっていて、でもなんだか嬉しそう。

 男の子も、愛しそうに女の子に笑いかけていて、さっきまでとは違い、もう二人の雰囲気は幸せなカップルそのものだった。

「すごい……。ほんと、仲直りできて良かったぁ……」

 凄く幸せな気持ちをカップルからもらった気分で、私はほうっと息をついた。

「オマエが幸せなことを考えて、頑張ってくれたからだよ」

 珪樹さんが優しく笑ってそう言ってくれる。

 心がほかほかとあたたかくなって、瞳はじんわりしたのに顔はほころんでしまって、私は何も言えなくなって、ただ満面の笑顔を珪樹さんに返す。

 この人は本当に、人を幸せにする魔法使いのケーキ屋さんなんだって、心から実感した。

 今、あのカップルだけじゃなくて、私のことも幸せにしてくれたんだよ。

 その優しさと笑顔で。

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