第2話 満月の雫は恋の媚薬
ねえ 知ってる?
満月にはね 秘密の力があるんだよ
まあるい月が綺麗な夜にはね
お月さまが 自分の涙を少し分けてくれるんだ
その雫をね クリスタルの瓶に集めると……
とっておきの 恋のエッセンスになるんだよ
――絵本「魔法使いのケーキ屋さん」より
私が魔法の扉を開けることになったのは、珪樹さんと再会した数日後の、満月の晩のことだった。
その日の深夜、うっかりトイレットペーパーを切らしているのに気付いて、自分を呪いつつ急いでコンビニに向かう羽目になった。
コンビニまでの道は歩いてほんの五分ほど。外に出てみて初めて、その明るさに「ああ、今日は満月なんだ」って気付いた。
私が一人暮らしするアパートの周りは、ひっそりとした住宅街で、満月で明るいと言っても人気がないから怖くて。
怖いっていうのは、もちろんお化けや幽霊もだけど、最近物騒な事件が多いということも思い出して、帰り道、早足になりながら、近道をしてしまおうと思い立った。
アパートとコンビニの間には、池や広場や遊具もある大きな公園がある。頂上が木の小屋のようになっている大きな滑り台や、赤や青のレトロな木馬もあって、昼間見るとお洒落な雰囲気。
アパートに帰るには、そこをぐるりと迂回しなければならない。公園の周りをほとんど一周するルートだから結構面倒。
いつもだったらおとなしく迂回するのだけど、早く家に帰りたいという気持ちからつい、公園を突っ切ってしまおうと考えてしまった。
思えばこれが、すべての始まりの選択だった。もしかして満月が気まぐれで起こした、イタズラだったのかな?
夜の公園は、子供たちで溢れた昼間のにぎやかな姿と違って、少し不気味で怖い。味方だと思っていた満月も、いつの間にかその姿を雲にほとんど隠されていた。
入り口から一歩踏み出した途端、後悔に襲われる。幽霊でも出そうなおどろおどろしさを感じ、寒気と共に背中にじっとりとした冷や汗が噴き出す。
は、走って、早く通り抜けちゃおう。
びくついてもつれ気味の脚を無理やり動かし、早足になった瞬間。公園の中央あたりの木の影に、ゆらりと揺れる人影があることに気付いた。
ふ、不審者……!?
ぎょっとして思わず近くの木の陰に身を隠す。そういえばこの公園、夜たまに不良が溜まってるって聞いたことがある……!
木に背中をつけて、ごくりと唾をのむ。私の正面にある池が、満月を映した黒々とした水をたたえて、ゆらゆらと水面を揺らしていた。
さーっと血の気が引いて、恐怖に心臓がバクバクと大きな音を立てる。幽霊に怯えている場合じゃなかった。最近聞いたばかりの物騒なニュースが頭をよぎる。
万が一、襲われることがあったら、どうしよう! 気付かれないように、入り口まで戻らなきゃ!
そう決めて、震える足で一歩を踏み出した瞬間、高くて少年のような、何となく生意気そうな声が聞こえてきた。
「珪樹、ほら、クリスタルの瓶」
ん? けいき……?
聞き覚えのある響きに一瞬足を止めたあと、それが〈Ange〉の店長さんの名前だったことに気付いた。続いて、よく通るアルトの声。
「ありがと」
変だな、人影は一人しか見えなかったんだけど。それにこの声、もしかして……?
耳を澄ますと、なおも二つの声の会話は続く。さっきと違って暑いくらいに体温は上昇したけれど、私の心臓はますますその音を大きくしていた。
「ね、今日は満月の雫、集まりそう?」
「どうかな。もう少し雲が晴れてくれればいいんだけど……、あ!」
その瞬間、その呼びかけに反応したかのように、満月を覆っていた雲がサーッと晴れた。そして、月の光がまるでスポットライトのように、二つの声の人影を照らし出した。そこにいたのは、
「やった! 珪樹、早く早く!」
「分かってるよ」
細長いダイアモンド型の透明な瓶を頭上にかざし、目を閉じて人差し指を口に当て、何か外国語のような言葉を、不思議なリズムと音程で呟いている珪樹さん――!! と、
「今日のは、ひときわ輝いているね」
例の生意気少年のような声と同時に、珪樹さんの首の後ろから肩にぴょこっと顔を出したのは、
リスぅぅぅ~!? 動物園でしか見たことがないけれど、明らかに、シマリス~! リスが、シマリスが、しゃべってるぅぅぅ~!!
ふらりと体が揺れる。信じがたい光景を目にしたせいで、混乱のあまり立ちくらみを起こし、うっかりガサっと物音を立ててしまった。
「――!?」
その音にハッとした珪樹さんが、勢いよくこちらを振り返った。視線と視線が交差する。
私は体が硬直して、隠れることもできずに、直立不動で珪樹さんの顔を見つめることしかできなかった。
そう、いつもは天使のような微笑みを浮かべている珪樹さんの顔が、般若の如く変わる、その瞬間を――!!
「君、杏樹ちゃん、だよね?」
振り向いた珪樹さんが、ゆっくりと口を開いた。
あ、あれ? 気のせいだったのかな。いつも通りの笑顔と口調だ。
「あ、ああああの、私……」
「君、いつからいたの?」
でも、でも、心なしかその笑顔の背後に、黒い影が見えるー!
「えっと、雲が晴れて、珪樹さんが何か掲げている、とこから……」
「へぇ、そうなの」
珪樹さんが、不吉な香りのする微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと私に近付いてくる。全身からゆらゆらと湧き上がってくるような暗黒オーラに、生命の危機を感じるほど恐ろしくなって、思わず後ずさってしまった。
「あっ、オマエっ、あぶなっ……!!」
珪樹さんがぎょっとした顔で急に足を速める。
あれ? と思った時には、もう遅かった。そうだ、私の背後には、池があったんだ――!
足が池の縁を滑り、ゆっくりと身体が浮くような感覚がして。視界が、硬直したような珪樹さんの表情から、満月が輝く夜空まで回転していくのがスローモーションで見えて。
落ちる――!
そう思った瞬間、私は、華奢だけれど意外に筋肉質な腕に支えられていた。そして。
――バシャーン!!
盛大な音を立てて池に落ちたのは私ではなく、私をかばってそのまま池に突っ込んでしまった、珪樹さんだった。
「……ぷはっ!」
池は意外なほど浅かったらしく、波紋を揺らす黒い水面は、座って胸のところまで来るくらい。
リスは落ちる前に肩から脱出したのか、私の足の周りでチョロっと動いて珪樹さんを見ている。珪樹さんは手で顔を乱暴に拭って、
「…………」
もの凄い形相で、こっちを睨んでいる!
「あああっ、珪樹さん、ごめんなさいっ……!」
私、パニックになって、珪樹さんを助けようと、池に入ろうとしてしまう。
「バカっ! 助けてやったのに、オマエが入るなよ!」
「ででで、でも……」
「いいから。すぐ上がるから」
そう言って立ち上がった珪樹さんの全身は、びっしょり。ベージュのパンツも、茶系のチェックのシャツも、ミルクティー色のムートンダッフルも、見ていても重たいのが分かるくらい水を吸って、ぽたぽた滴をたらしている。
あっ、パリの学生みたいなファッションでセンスいいな。可愛くって珪樹さんに似合っている。って、そんな場合じゃなくて!
「……うう、さむ」
池から上がった珪樹さんは、腕で体を抱くようにしてぶるっと全身を震わせた。
「あのっ、これ、着てください!」
着ていた厚手のジャケットを差し出す。中には薄手のニットワンピース一枚。
「は? オマエが震えてるじゃん」
「だ、だだだ、大丈夫ですから」
「そんな、歯の根をガチガチさせて言われてもね」
「いいんです、私は! 珪樹さんが風邪ひいちゃいます!」
馬鹿は風邪ひかないって言うし。特に、こんな失態を犯す私みたいな馬鹿は絶対。助けてくれた珪樹さんに風邪を引かせるわけにはいかない。
はぁ、とため息をついて、珪樹さんがジャケットを突き返す。
「いいよ。僕は、風邪は引かないから」
「え?」
「寒いのは、なんとでもできるんだよね」
「どういう、意味ですか?」
まさか、実は変温動物だとか言うんじゃないよね?
「オマエ、見ていたんだろ? さっきの」
私、ぶんぶんと頷く。
「コイツがしゃべるのも、どうせ聞いたんだろ?」
いつの間にか、リスが珪樹さんの肩に戻って、賢そうな大きい瞳で私を見ている。
戸惑いながらコクッと頷いた私に珪樹さんが告げた言葉は、今までの人生の中で一番、腰が抜けるくらい、満月がホットケーキになるくらい驚くものだった。
「隠していたってしょうがないな。僕、魔法使いなんだよ」
私は一瞬その言葉を理解できずに、ポカンと口を開いた。
「まほう……つかい」
カタコトの人形みたいに繰り返す。
「そう」
「呪文みたい、なのも。リスが、しゃべるのも」
「そう。僕が魔法使いだから」
私、珪樹さんの口調が今までと違うのも、私の呼び方が、君からオマエになっているのも、そして、珪樹さんの天使みたいな微笑が、悪魔みたいな妖しい笑顔になっているのも、全部忘れて、
「……す」
「す?」
「すごーーーーい!!」
興奮して、叫んでいた。
「本当に、本当にいたんだー! 魔法使いのケーキ屋さん!!」
「……なに、それ」
いぶかしんだ表情で、珪樹さんが聞いてくる。
「昔、大好きだったんです、魔法使いのケーキ屋さんの出てくる絵本! 私、小さい頃それを読んで、パティシエになりたいって思ったんです!」
「…………」
珪樹さん、あっけにとられて言葉を失っている。
「オマエ、まさかそれ、ずっと信じていたの?」
「もちろんです!」
「バカじゃないの? 大学生にもなって」
「でも、本当にいたじゃないですか!」
「まあ、それはそうだけど」
珪樹さんが気まずそうに視線を逸らす。
「そういえば、リス、全然喋りませんね」
リスに微笑みかけると、プイっと顔を背けられ、珪樹さんの首の後ろに隠れられた。がーん! 嫌われてる?
「他人の前では喋らない決まりになっているから」
「そうなんだー! そういえば、さっきは何をしていたんですか? 満月がどうとかって……」
珪樹さん、私の言葉にハッとして、コートのポケットの中を探っている。
「あっ、ああーーっ!!」
ポケットの中から出てきたのは、細長いダイヤのような形をしたクリスタルの小瓶。そして、三日月型のクリスタルがついた蓋らしきもの。
「くそっ、蓋閉めてなかった……! 池の水が入って、中身、全部ダメになっている」
そう叫んで肩を落として呆然とした後、ゆっくりとこっちを振り向き、何かに気付いたようにニヤリと笑った。
「ななな、何ですか」
私の目を見据えたまま触れられるくらいに近寄ってくるから、珪樹さんが距離をつめてくるのと同時に私も後ずさる。肉食動物に襲われた時みたいに目線を外せない。
「いたっ」
すぐに背中にざらざらとした堅いものが当たって、それ以上後退できなくなる。目線だけ横に逸らすと、私の体の幅より太い木の幹だった。つうっと背筋に嫌な汗が流れる。
追い詰められた……!?
「バカだね、ほんとに」
ギョッとする私の顔の横に両手を置き、逃げられないようにしてから、その妖しい笑みを浮べた顔を近付け、耳の側で吐息まじりに囁いた。
「どうしてくれる? オマエのせいだよな?」
耳を撫でるような温かい吐息と共に入ってきた、いつもより低音のその声に、思わずゾクッと全身の皮膚が粟立つ。
このひと、このひと、やっぱり二重人格だ――!! モンブランだと思っていたのに、中からマロングラッセじゃなくて爆弾が出てきた気分――!
でも、鳥肌が立ったのは恐怖のせいだけじゃない。間近で見たびっくりするほど綺麗な顔と甘い吐息に、禁じられた魔法にかかったように魅了されてしまっている。まるで悪い夢を見ているみたい。美しい悪魔に会った人はこんな気分なのかな。
「なんだよ。腰が抜けて、声も出ないのか……?」
涙目になった瞳を見開いて細かく震えている私を見下ろし、珪樹さんは愉快そうにクックッと笑う。無慈悲なその声は、地獄に響く悪魔の笑い声のように現実感がなく、一瞬意識が飛びかける。
「あと、僕が魔法使いだっていう秘密、絶対言うんじゃないよ? どうなっても知らないから」
「け、いきさんて、こんな人、だったんですか……?」
「そうだよ。僕は本当は、こういう性格だよ。普段は、そのほうが便利だから演技しているだけだ」
「でもっ……!」
「おおかた、魔法使いはみんな優しくていい人だ、なんて思っていたんだろ?」
図星だ。確かに、昔読んだ絵本の中には悪い魔女だっていたけれど、私がずっと信じていたのはそんなんじゃ、そんなんじゃなくて。
でも今の珪樹さんは、前の天使みたいな美少年じゃない。むしろその微笑には悪魔みたいな迫力がある。白い天使の翼が一瞬にして、蝙蝠みたいな黒い翼に姿を変えてしまった。
でも、でも、私……!
「弁償しまーーすっ!!」
いきなり大声で叫んだ私に驚いて、珪樹さんが手を離す。
「はぁ? 弁償って、オマエこれが何だか分かってる?」
目を閉じ、すうっと息を吸って落ち着かせ、再び目を開けた時には、私は優しい記憶に包まれていた。不思議なくらい冷静になっている。懐かしい記憶の泉から湧いてきたその単語を、一語ずつ区切るようにゆっくりと告げる。
「満月の、雫……ですよね」
珪樹さん、目を見開いて驚いている。
「月の涙を集めると、恋に効くエッセンスになる。特に満月の時のそれは、満月の雫と呼ばれ媚薬ほどの効果がある」
すらすらとそう説明する私に、驚いた顔で珪樹さんが言う。
「なんで、それを……」
「言ったじゃないですか。昔、そういう本を読んだって」
言葉を失った珪樹さんが私を凝視している。で、でも当たった私もちょっとびっくり。
「満月の雫は作れるんですよね? 自分でも。私、何でも手伝いますから!」
確か、絵本にもそういう記述があった。
しばらく無言で黙っていた珪樹さんが口を開き、静かな声で言った。
「毎朝、開店二時間前に僕の店へ来て。次の満月まで毎日、本当にできる?」
「はいっ! 頑張ります!」
握りこぶしを作って頬を上気させて叫んだ私を、珪樹さんはまるでおかしな生き物を観察するみたいな目で見ている。そしてしばらくした後、くるりと後ろを向いて公園の入り口に向かって歩き出した。
「今夜は帰るよ、ウサギ」
「ウ、ウサギって……」
「最初に会った時、目、真っ赤にしてただろ」
振り返り、からかうように言って笑ったその言葉に顔がカーッと熱くなる。
「今日は、泣いてないもん!」
「へえ、さっき目にいっぱい涙をためていたの、誰だっけ?」
「っ!」
「それに、そのふたつにくくった髪の毛、ふわふわしててぴょこぴょこ揺れて、ウサギの耳みたいでウザイんだよ」
「う、ウザイって……」
揺れないように髪の毛を耳のそばでぎゅっと握り締める。うう、また泣きたくなる。
「いいから、早く来なよ」
すでに歩き出している珪樹さんが、泣かないように下を向いて唇を噛んでいる私に呼びかける。髪を握ったまま小走りにその後を追いかけると、
「もう、深夜だから。家まで送る」
そうして、すぐ後ろまで来た私の腕をぐいっと引いて耳元で、
「……さっきは、悪かったよ」
と、囁いた。
その台詞はぶっきらぼうだったけれど、声は驚くほど優しくて、私の胸はあったかい風に吹かれたみたいに、ふわりと浮く。
珪樹さんは意地悪な部分が本当の自分だと言うけれど、本当にそうなのかな?
私は、「魔法使いのケーキ屋さん」の絵本も、あの日私にミルクティーを淹れてくれた珪樹さんも、嘘なんかじゃないって思うのに。
だって、珪樹さんの紅茶もケーキも思わず笑顔になっちゃうくらい美味しくて、すごくホッとして、あの味は優しい人にしか出せないって、そう思うから――。
その日、アパートまで珪樹さんと一緒に帰って見た満月は、なんだか今まで見たお月さまの中でいちばん、綺麗だと思いました。
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