第1話 出会いのモンブランは恋の味?
寒い夜には シナモン入りのミルクティーをどうぞ
キミの体が暖まって 心も温かくなるように
たくさんの魔法をかけておいたよ
紅茶の香りにはね 元気の出る魔法
少しスパイシーなその香りをかぐと 体がぽかぽかしてこない?
シナモンはね 魅力を出すスパイスだから
早く可愛い笑顔を見せてねって
ミルクはぐっすり眠れる魔法
家に帰っても星と月の光が味方をして きっといい夢が見られるから
心と体が寒い日には お店の扉を叩いてね
寒がりやのウサギさんを ケーキ屋さんは放っておけないはずだから
――絵本「魔法使いのケーキ屋さん」より
「お、おいしー……っっ」
私の目の前にいる親友の
「でしょ? でしょ?」
私、嬉しくなって、つい笑顔で自慢しちゃう。
「うん、こんなに美味しいケーキ、初めて食べた!」
私の言葉に頷いて、恵麻ちゃんはほっぺたを押さえながら夢見るような笑顔を咲かせた。
私たちのテーブルには、半分が口の中に消えてしまったモンブランがひとつ。
大学の放課後、私は、同じ学部で親友の恵麻ちゃんと、学校の近くのケーキ屋さんに来ていた。
ケーキ屋さんの名前は〈Ange〉。お店の中には、売っているケーキを食べられて、お茶も飲める喫茶スペースがある。お店の半分に小さな喫茶店がくっついている感じ。
今、私と恵麻ちゃんは、その一番奥、窓際の一席に座っている。
「よくこんなお店見つけたね。
「えへへ」
白い丸テーブルから、恵麻ちゃんが興奮気味に身を乗り出す。
「お店の内装も可愛いし、なんだかおとぎ話に出てきそうだよね」
恵麻ちゃんの言葉に、ぐるりと店内を見渡す。
私のもたれかかっている椅子も、テーブルとおそろいのすべすべとした象牙のような白木で、脚も背もたれも緩やかにカーブを描いている。
ところどころに花模様の彫刻が施されている、アンティーク調の家具で統一された店内は、ケーキ屋さんというより、フランスの邸宅のティールームみたい。ドレスを着た金髪縦ロールのお嬢様が紅茶を飲んでいても、違和感がない雰囲気。
貴婦人のドレスの裾のようなドレープが、たっぷりと取られた薔薇模様のカーテン。白枠の窓からは、エッフェル塔が見えそう。
思わず夢見心地で窓の外に目を向けるけど、そこには車と人が行き交う通り沿いの風景が広がっていた。
エッフェル塔じゃなくて電信柱、凱旋門じゃなくて陸橋の、いつもの風景。
「どうしたの、杏樹」
「……ううん、何でもない」
私は、少し夢見がちで子供っぽい以外は、ごくごく普通の大学一年生。
このお店を見つけたのは、ほんの偶然。秋も深まりかけた十月――。一ヶ月前のことだった。
その日私は、大学に入学してからずっと好きだった同級生の塩沢くんに、勇気を出して告白したけど、
「大学進学で、遠距離恋愛になった彼女がいて……、ごめん」
と、あっけなく振られた。そう告げた塩沢くんの表情は、地平線近くまで落ちた太陽の逆光がまぶしくて、そして、顔を上げたら涙が零れてしまいそうで、見ることができなかった。
夕焼け空が、学部棟から中庭に濃く長い影を落としていて、その影の中に立った私たちの影が重なることはなかった。
茜色に滲んだ景色に響く、つばめの羽ばたきとチャイムのハーモニーがやけに美しく、さびしく聴こえた、放課後のことだった。
その下校途中に、いきなりの通り雨に遭遇した。
泣きじゃくりながら下を向いて歩いていたため、いつもの帰り道とは一本違う通りに入ってしまっていて、方向音痴の私は不安になり、寒さと悲しさと惨めさと、いろんな気持ちがごちゃまぜになって、ただ雨に打たれながら走ることもできずに、びしょ濡れで途方にくれていた。
人生初めての告白で、人生初めての失恋だった。それなのに空にも降られちゃった。
涙をぬぐっているのか、顔に落ちた雨をぬぐっているのか、どっちなのか、もう分からない。
そんな時に目に入ったのが一軒のケーキ屋さん。迷うのが嫌で毎日同じ道しか通っていなかったから、こんなところにケーキ屋さんがあるなんて私は知らずにいた。
一目で洋菓子店と分かるようなトリコロールのフランス国旗と、一見洋菓子店だとは分からないような瀟洒な西洋風の建物。
イングリッシュガーデンに囲まれ、緑の植物に守られるようにして、ひっそりと息をするようにそのお店は佇んでいた。
まるで時を止めたようなその外見は、建物の周りだけ時間がゆっくり流れていて、降り注ぐ雨さえスローモーションで見えるような、落ちてゆく雨の粒さえ丸く光って見えるような、そんな錯覚すらした。
都会的な町並みの中で、そこだけ絵本の中から出てきたような雰囲気があって、でもずっと昔からこの場所にあったような、ずっと前からこの景色を知っていたような不思議な感覚がした。
入り口のアーチには蔦が絡みつき、蔓薔薇と思われる枝も伸びていた。初夏だったら、きっと薔薇のアーチが見られたのかな。今が秋なのが残念だな。
クリーム色の壁に白枠の窓。白い籐でできたテーブルと椅子が置かれた、雨に濡れたテラス。建物をとり囲むようにぐるりと走った淡いオレンジ色のレンガの小路に、ハーブの花壇、木のドア。
昔読んだ童話の記憶を呼び覚ますような暖かみのある外観に、私は吸い寄せられるような気持ちになって、そのお店に向かっていた。
アーチをくぐってお店の敷地に足を踏み入れると、ドアの前は緩やかで小さな丸い階段になっていた。玄関部分をすっぽりと覆う、ひさしのような屋根もついている。
雨から守ってくれたドアの前で、ひざを抱えてしゃがみ込む。寒さと震えと、涙で、まともに立ってはいられなかった。
その時、お店はすでに閉店時間だったようで、店内の明かりも消えており、とっぷりと日の暮れた町並みには人通りもなかった。オレンジ色の街灯だけが寂しく光る。アスファルトの水たまりが灰色の雨空を映して、景色がいつもよりも暗くつめたく感じる。
……もう、歩けないや。ごめんなさい。雨が、止むまで。涙が、止まるまで。しばらくこの場所で、雨宿りさせてください――。
そう思った時だった。私が背中を向けて座っていたお店のドアが、急にキイィと音を立てた。そして、
「君、どうしたの?」
低すぎず、高すぎず。澄んでいて、どこか甘い。少年のような、青年のような、そんな不思議な魅力の声が上から降ってきた。
驚いて振り向くと、開かれたドアの向こうに、白いコックコートを着た天使のような美少年が立っていた。
「ご、ごめんなさい! あの……!」
慌てて立ち上がると、その男の子は、私の姿を見て目を丸くした。
「どうしたの!? 君、びしょ濡れじゃない!」
そして私の泣き腫らした目を見て、ハッとした顔になった。
「……中に入って? このままじゃ風邪をひいちゃうよ」
そう言って微笑み、私の手を引いて、お店の中に招き入れてくれた。
私は、頭の回転がついていかず、されるがまま、ただぼうっと、その天使のような姿を見つめることしかできなかった。
ただ、触れたその手があたたかくて、とてもホッとしたのを覚えている――。
お店の中も、外見から予想した通りの外国の童話みたいな可愛い内装で、小さな喫茶スペースの椅子に私を座らせてくれた。
「待ってて。今、タオル持って来るからね」
そう言って男の子が奥に行ってしまうと、ボーっとしていた頭が急にはっきりと動き始めてきた。
――あれ? これって、どういうことなのかな? もしかして、助けてくれたのかな? というかあの男の子、すっごい美少年!!
ど、どうしよう。半分夢を見ているような急な展開に混乱してしまい、頭がくらくらしてきた。
「お待たせ」
「ぴぎゃっ!」
戻ってきた男の子に後ろから声をかけられると、驚いて思わず飛び上がってしまった。
しまった! と思って振り向くと、男の子は体を曲げて、堪えるようにくすくす笑っている。
「そ、そんな漫画みたいな驚き声、初めて聞いた……」
震える声でそう言われると、恥ずかしさで顔が真っ赤になる。
私、もうちょっとまともな驚き声出そうよぉ……。もう、泣きそう。どこかに穴はありませんか。
「はい。とりあえず体を早く拭いて」
「ありがとうございます……」
ふかふかでホカホカのタオルを受け取って、濡れた髪と体を拭く。もしかして、わざわざタオルをあたためてきてくれたのかな?
「濡れた上着も乾かしておくから貸して? 乾くまで、代わりにこの上着を羽織っていて。僕のだから、ちょっと大きいかもしれないけれど」
「ええっ!?」
「ほら、早く」
せかされて、言われるがまま着ていたジャケットを渡し、暖かそうなクリーム色のニットのカーディガンを受け取った。
羽織るとふんわりとやわらかくて、なんだか甘い匂いがした。
うわぁ、いい匂い……。バニラみたいな、美味しそうな甘い香りがする。
あたたかいタオルと、やわらかいニットのおかげで、徐々に体の震えが治まってくる。
コトッという硬質な音がしてテーブルの上を見ると、湯気のたつティーカップとモンブランが置かれていた。
「えっ、これ?」
「僕からのサービス。体が暖まるから、どうぞ」
「でも……」
「ケーキはお店の売れ残りだから、気にしないで。処分するより君に食べてもらったほうが、このモンブランも嬉しいと思うよ」
「ええと、あの、私、」
初対面の相手に、こんなに親切にしてもらっちゃっていいのかな? 事情くらいは話してからのほうが、いいのかな? 申し訳ない気持ちになって男の子の顔を仰ぐけれど、
「うん。話なら、落ち着いたら聞くから。とりあえずあったかいうちに、飲んで?」
なんだか、この屈託のない笑顔には逆らえない。お言葉に、甘えちゃおうかな。
「はい……。いただきます」
カップの中身はミルクティーだった。ふぅふぅと息を吹きかけて、コクンとひとくち飲む。
すると、お砂糖の甘みと、牛乳のコクと、紅茶の薫りが口いっぱいに広がって……。
「おいしい!」
私は、自然と満面の笑顔になっていた。
「良かった」
向かいの椅子に座った男の子も、嬉しそうに微笑んでくれる。
そのまま、コクコクと半分くらい飲み干してやっと、ふぅーっと息を吐いて、カップをテーブルのソーサーの上に戻した。思わず無心になって飲んじゃった。そして、ペコンと頭を下げ、改めてお礼を言う。
「あの、本当に、ありがとうございました!」
「ううん。目を真っ赤にしていたウサギを、放ってはおけなかったから」
「ウ、ウサ、ギ……!?」
頬杖をついて、にっこりと微笑みながら言われたその台詞に、顔がカーッと熱くなってしまう。今、絶対、耳まで真っ赤になっているはずだよ。どうしよう。
「ちょうど店のドアを閉めようと思ったら、君がうずくまっているのが見えたから……。びっくりしてつい、声をかけちゃった」
「お店の方なんですか?」
「一応ね」
男の子は、どう考えても高校生くらいにしか見えなくて。でも、アルバイトなのにお店の戸締りを任せられるくらいなんだから、きっと大学生くらいなのかな。
改めて男の子の顔を見た。ふわふわ柔らかそうな、上品なウエーブがかかったミルクティー色の髪。まるでマロングラッセみたいな美味しそうな色の、アーモンド形のぱっちりした瞳。
肌も白くて透き通っていて、陶器みたいって、こんな肌を言うんだろうな。栗色のまつ毛はマッチ棒が何本も乗りそうなほど濃く長くて、伏し目がちになると、濃い影を彫刻みたいな顔に落としている。背はそんなに高くなくって、体型も華奢。
明らかに日本人離れしているから、ハーフなのかな。ううん、それよりも、人っていうより天使みたいだよ。
「ケーキも、良かったら食べて」
その言葉に、はっと我に返る。いけない、うっかり、魔法にかかったみたいにぼうっと見とれちゃった。背中に羽があっても違和感がないくらい、現実離れした美少年なんだもの。
「あ、はい! いただきます」
お皿の上に載ったモンブランにフォークを入れる。山の形に搾り出されたマロンクリームは、見ただけでも分かるくらい栗のつぶつぶが大きい。てっぺんには、澄ました顔してちょこんと鎮座したマロングラッセ。フォークに手ごたえを感じ、クリームの下の生地が堅いなと思ったら、スポンジケーキと焼いたメレンゲの二層になっていた。
土台にメレンゲを使うなんて、すごく珍しいな。どんな味がするのかドキドキしながら、フォークを口に運ぶ。
「うわあ、このモンブランも、すっごく美味しい!」
甘さ控えめの、栗そのものの味が口いっぱいに広がったあとに、メレンゲが舌の上でふわっと溶けて、やさしい甘さで包んでくれる。
「本当? 嬉しいな」
「はい! こんな美味しいモンブラン、初めて食べた……」
そのモンブランは、本当に夢みたいに美味しくって、一口食べただけで元気になっちゃう、そんな味だった。
「僕も大好きなんだ、モンブラン」
にこにこしながら夢中でフォークを口に運ぶ私を、嬉しそうに見ている。
どうして泣いていたの? とか、なんでびしょ濡れだったの? とか、余計なことは全然聞いてこない。なのに何だか、穏やかに細められた瞳に見つめられると、全部分かってくれているような、そんな不思議な気分になる。
言わなくても分かってるよ。だから安心して? って、そんなふうに言われているみたいな、優しく手当てしてもらっているような、あったかい気持ちに。
私はいつの間にか、悲しい気持ちだったことなんて忘れて、美味しいケーキと優しい空気に、笑顔にさせられてしまっていたんだ――。
そして、お金は払いますと言う私を、売れ残りだからと言って制して、男の子は乾かしたジャケットを着せてくれた。何回も何回もお礼を言うと、今度は買いに来てくれればいいよと笑ってくれた。
ドアを開けて見送ってくれた時、私は彼の名前をまだ聞いていないことに気付いた。
「あの、名前を聞いてもいいですか?」
「え、僕の、名前?」
すると男の子は、引きつったような笑顔になって口をつぐんだ。
「……?」
そして拗ねたような口調で、ぼそっとつぶやいた。
「……佐藤、
「ええっ、砂糖、ケーキ!?」
いくらケーキ屋だと言っても、まるでダジャレみたいな、取ってつけたようなそのフルネームに思わず目を丸くして声をあげると、顔を真っ赤にして怒られた。
「言うなって!」
「ご、ごめんなさい、つい」
「いいよ、もう……。慣れてるからさ」
ふぅ~っと肩でため息をつくその姿には、かなり哀愁が漂っていて、気の毒な気持ちになってしまった。でも、さとうけいきって、雰囲気にぴったりなすごく可愛い名前だと思うけど。
「それより、君の名前は?」
「あ、栗原杏樹、です」
「へえ。うちの店と同じだ」
ね? と、ドアにかかっていたお店の看板を指差す。そこには、〈西洋洋菓子店 Ange《あんじゅ》〉と書かれていた。
これが私とこのお店、そして珪樹さんとの出会いだった――。
その後、夢じゃなかったのを確かめたくて、何度かこのお店にケーキを買いに来ていた。だけど、もう一度会えるかもという期待とは裏腹に、珪樹さんに会えたことはない。ショーケースに入ったケーキを販売してくれるのは、ウエイトレス風の制服を着たアルバイトの人だし。
珪樹さんはあの日コックコートを着ていたから、厨房にいるのかもしれない。そんなことを考えながらぼうっとしていると、
「杏樹、杏樹~?」
恵麻ちゃんが心配そうな顔で覗き込みながら、私の目の前で手をひらひら振っている。
「あっ、ごめんねっ!」
「フォーク持ったまま、あからさまにポヤーっとしてたけど、大丈夫?」
「え、そんなに?」
「うん。あ、もしかして、例の天使風美少年のこと、考えてたんでしょ~!」
「ううっ」
あの次の日、私は興奮して、その夢のような出来事を報告した。目をキラキラさせて(恵麻ちゃん談)話す私を見て、恵麻ちゃんは最初はあっけにとられていたのだけれど、
「メールで塩沢くんのこと聞いて心配してたんだけど、元気になって良かった」
と、優しい声でポツリと言ったのだった。
本当に、自分でも不思議なのだけど、また会えるかな? ってわくわくして毎日過ごしていると、失恋の痛みを忘れられたの。
「私も見てみたいな~、そんな美少年なら。ね、今日は、いないのかな」
そう言って落ち着きなく店内を見回す恵麻ちゃんの目も、あからさまに輝いている。恵麻ちゃんは結構ミーハーで、私も見てみたいから一緒に行く! と、今日は一緒にお茶をしに来たんだ。
「髪がミルクティー色でね、瞳は栗色で……。このモンブランみたいに素敵な人だったんだぁ」
あの日と同じモンブランを頼んだ私。その味も記憶の中の美味しさと同じで、「ああ、夢じゃなかったんだ」ってほっとしたけれど、幸せな気持ちだけ足りないように感じるのは、あの日は珪樹さんの笑顔があったからなのかな。
「杏樹っ、そうやって何でも食べ物に例えるのやめてっ!」
「ええっ、何で?」
気持ちや人などを何でも、ついケーキやお菓子に例えてしまうのは、昔からの私の癖。
「お腹すくんだもん。今、我慢してダイエットしてるんだから!」
恵麻ちゃんの前には、湯気をたてる紅茶のカップだけ。色とりどりのケーキを前にして、修行僧のような苦悶の表情で「アールグレイ……だけで」と注文していた恵麻ちゃん。一人だけぱくぱくとモンブランを口に運ぶ私を、あまりにも恨めしそうな顔で見るから、さっきはつい一口あげてしまったのだけれど。
「だから食べなよって言ったのに。恵麻ちゃん、ダイエットの必要ないじゃん!」
恵麻ちゃんは、サラサラの黒髪が似合う健康的でキュートな女の子。全然太っていないし、無理してダイエットなんて恵麻ちゃんらしくないなと不思議に思う。
「だって、マスターが」
憎々しげな表情で恵麻ちゃんが呟く。マスターというのは、恵麻ちゃんがアルバイトしている喫茶店の店長さんのこと。年上だけど、雰囲気があったかくて柔らかくて、恵麻ちゃんとは夫婦漫才みたいに仲がいい。
「マスターに何か言われたの?」
「この前お店にいる時、今やっている産婦人科のドラマの話になって」
「うん」
「出産って痛そうだよね、できればしたくないなあ、って言ったら」
「うん」
「大丈夫だよ、恵麻ちゃんは安産型だから……あっ! って。あっ、って何よ、あっ、って! いかにも、失言しちゃってごめんなさい、みたいな反応しちゃって!」
くぅう~っと悔しそうに唇を噛み、握った拳はぷるぷると震えている。
「そ、それで恵麻ちゃん、マスターに何て答えたの?」
全身から怒りのオーラを滲ませている恵麻ちゃんに怯えながら聞くと、ふふふ、という妖しい笑みだけが返ってきた。こ、怖い……。
マスターに悪意はないと思うけれど、安産型って、女の子にとってはほめ言葉じゃないよ。恵麻ちゃんのただならぬ雰囲気に身をすくませたその時、
「大丈夫ですよ。うちのケーキは、カロリー控えめに作っていますから」
よく通るアルトの、あの日の声が響いた。
振り向くとそこには、白いコックコートをさらっと着こなして、紅茶のポットとケーキの載ったトレイを持った、珪樹さんの姿。
「えっ、そ、そうなんですか?」
急に現れた美少年に、びっくりして口調がカミカミになっている恵麻ちゃん。
「はい。若い女性の方にもカロリーを気にせず召し上がって欲しくて、糖分や脂肪分は、なるべく控えめにしているんです」
「へえ~、そうなんですか!」
今度はうきうきとした声を出す恵麻ちゃんとは対照的に、私はポカンと珪樹さんを見つめることしかできない。
「特にこのあたりのタルトは生クリームも使っていませんし、果物のシンプルなものになっていますが、どうでしょう」
ケーキが一ピースずつ何種類も載ったトレイを差し出し、いくつか指差して見せてくれる。
焼き目がついたシンプルなベイクドチーズケーキ。紫色のクリームとスポンジのぐるぐるが、棒付きキャンディーみたいに色鮮やかなブルーベリーのロールケーキ。濃厚なチョコレートムースでコーティングされたチョコレートケーキは、つやつやと漆黒の光沢を放っていて悪魔的な魅力がある。
定番の苺タルトや季節の果物のタルトは、珪樹さんの言う通りタルト生地と果物だけのシンプルなものだった。シンプルなのに見た目はちっとも地味じゃなくて、果物に薄くかかっている透明なゼリーが、巨峰や苺をアメジストやガーネットみたいに輝かせている。
「えっじゃあ、食べちゃおうかなあ」
「はい、あまり気にしすぎて好きなものを我慢するのは良くないですよ。今のままで充分可愛いのに」
「かっ、可愛い!?」
ぼっと頬を赤く染める恵麻ちゃんと、それを見つめる珪樹さんを目にすると、なぜだか胸がズキンと痛くなる。あれ、おかしいな、せっかく会えたはずなのに。
「勉強をすると糖分も消費しますし、何より甘いものは人を幸せにしますから」
そう言って今度は、私のほうを振り返って微笑んだ。
「また会ったね、杏樹ちゃん」
名前、覚えていてくれたんだ。初めて呼んでくれたその響きに、聞き慣れた自分の名前が、聞き慣れない素敵な言葉に聞こえて、心臓がドキドキする。
「あっ、あの時は、ありがとうございました! あの後、何回か買いに来たんですけど、会えなくて」
「そうだったんだ? ごめんね。普段は厨房にこもってて、手があいた時しか出て来れないから」
珪樹さん、申し訳ない顔をしながら、持っていた小皿とトングで恵麻ちゃんに巨峰タルトを取り分けている。
「いえ! 今日は会えて良かったです。それにしても珪樹さん、すごく詳しいんですね」
「何が?」
「え、ケーキについて」
「まぁ、一応店長だから」
「えええええ!?」
驚きの声が恵麻ちゃんとハモる。何でもないことのように言う珪樹さんの言葉に、二人同時に目を見開く。
「な、何でそんなに驚くの?」
「だ、だって私、大学生くらいかと思った」
と、恵麻ちゃん。
「ご、ごめんなさい、私は最初、高校生かと……」
と、私。珪樹さん、あからさまにショックな顔をしている。
「いっつも若く見られるんだよなぁ~。僕、もう二十八歳なのに」
また二人で仰天。十歳も上には絶対見えない! よ、妖精ですか……?
「杏樹ちゃんは、高校生でしょ?」
何の疑いもないような、屈託のない笑顔でそう聞く。
「大学生、です」
今度は、私ががっくりと肩を落とす。
「ええっ!? 見えない。下手したら、中学生くらいかと」
「はっきり言いすぎですから! 気にしているんですよ~、この子」
私は、背が低いことと童顔、天然パーマの栗色の髪が悩み。ポヤっとしている性格も手伝って、絶対に大学生に見られないから。
目を丸くして驚く珪樹さんに、恵麻ちゃんがウケつつもフォローしてくれる。うぅ、でも、いくら何でも中学生って……。
「まぁいいじゃない。お互い若く見えるってことで」
ね、って笑って目配せされると、まぁいいかぁ、と思ってしまう私は単純でしょうか。
「じゃ、お店のケーキは珪樹さんが作っているんですか?」
「うん、そう。全部僕が作っているよ」
「パティシエかあ……!」
私たちが近くの大学の食品衛生科の学生で、パティシエを目指している話をすると、へぇって感心してくれた。
「僕に何かアドバイスできるようなことがあったら、いつでも言ってね。役に立てるかは分からないけれど」
珪樹さんは謙遜するような口調だったけれど、珪樹さんみたいな人に弟子入りできたら幸せだろうなあ、と私はぽうっと夢見る。
そして、もっと話したいんだけど仕事に戻らなきゃって告げて、厨房に戻っていった。
最後に、私のカップに紅茶のおかわりを注いで。
「はぁ~、本当にカッコいい人だったねえ! ……杏樹?」
キャッキャと弾んだ声をあげた恵麻ちゃんが、カップの中身を凝視している私を不審な目で見る。
「恵麻ちゃん。この紅茶、さっきと同じ銘柄だよねえ……?」
「え、そうだと思うけど。どうかした?」
「おかしいの、美味しすぎる……!」
「は!?」
真剣に訴える私を、恵麻ちゃんはしばらくポカンと見つめたあと、笑い出した。
「も~、珪樹さんに淹れてもらったから、美味しく感じるんでしょ!」
「ち、違うの、本当に、」
二の句も次げないうちに、はいはい、と軽くあしらわれてしまう。
……本当なのに。最初アルバイトの人が注いでくれた紅茶と全然違う。それも、美味しいってだけじゃなくて、急に元気が出てきたような、自分に自信が湧いたような、不思議な気持ち。
何でだろう。何でだろう?
そういえばあの時のミルクティーも、不思議に元気になったっけ。そして、このケーキも?
私は目の前のモンブランをじっと見つめて、小さい頃大好きだった絵本を思い出した。
「……まさか、ね」
この歳になってもこんな空想しちゃうなんて、自分でも笑ってしまう。
でも、私はまだこの時、自分がこれから予想もしなかった不思議な世界に巻き込まれることになるなんて、考えてもいなかった――。
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