第18話 再び夢へ

 病院から帰宅した俺は悩んでいた。以前、両親は自分のことを心配してくれているかなとつぶやいていた幼馴夢に、先ほどのことを伝えてあげるべきではないのかと。なにより、数日であれ彼女を夢に一人にしてしまっていることが心配でならなかった。迷ったあげく、覚悟のできぬままベッドに入る。悶々とした気持ちを抱えたまま何度か寝返りをうっていると、いつしか眠気が襲ってきて気が付けば眠りに落ちていた。寝る直前まで幼馴夢のことを考えていたからだろう。俺はいつの間にか、普段待ち合わせ場所としている教室の前にいた。顔を合わせづらかったこともあり、もしかしたらいないかもしれないけど確認のために、覗くだけ覗いてみようと後ろ向きな気持ちで扉に手をかける。ゆっくり扉を開いていくと、やっぱり彼女はそこで待っていた。

「遅かったね、夢遊病の人の夢に言ってたの?」

 元気そうで安心した反面、何と答えればいいかわからず困惑した思いが、胸の内を駆け巡る。優しい微笑を浮かべて尋ねてくる彼女に「ああ」と短く答える。俺は委員長とは違って几帳面じゃないから、ここに来る時間は常にバラバラだ。だが、彼女はどのくらいの間隔で来るのか把握しているらしく、それを超えるとこのような質問をしてくる。ただし、理由を聞いてくることはあっても、遅くなったことを責めるようなことは一度だってなかった。恐らく、これまでで一番長い時間ここに来なかったにも拘わらず、彼女の様子は普段となんら変わりない。ただ、いつもと同じように温和に微笑んでいるだけだった。

「……一つ聞いてもいいか?」

 普段ならここで見てきた夢を俺が話し始めるのだが、現実での彼女の姿を見てきた今、同じように過ごすことなんてできなかった。これまで姿を見せなかった俺に普段通り振る舞おうとするのは、彼女なりの優しさだったのかもしれない。それでも俺は、それを壊さずにはいられなかった。何かを感じ取ったらしい幼馴夢は静かに頷いて、じっと次の言葉を待ってくれている。決して焦らせるようなことはしない。単に時間が有り余っているせいで焦る必要がないだけかもしれないが、それでも彼女の優しさがなせるわざだと思った。この話題だけはしないようにしてきた。過去に対する負い目もある。責められても仕方がないことだということも理解している。実際に責められるのが嫌だったから、話題にしなかったというのもある。俺がこの質問をしたことは、彼女がここから出られなくなってから一度もない。だけど、気持ちだけは知っている。偶然、彼女の呟きを知ってしまったときから、本当は胸に秘めている思いを分かっていた。夢の世界から現実に戻りたいのだということを。それを、彼女の口から実際に面と向かって受け取ろうとするのは、初めてだった。

「……現実に戻りたいか?」

 三年かかった。この問いを彼女に投げかけるのに、実にそれだけの時間を費やした。今この時になって、俺が口にするとは思わなかったのだろう。彼女の瞳は驚きで大きく見開かれる。何かを迷うように一瞬目を逸らすが、それでも寂しそうな笑顔を浮かべると、

「うん」

 はっきりと一言だけ意思を示した。いつも優しそうな笑み浮かべている彼女の表情が曇ってしまったのは、紛れもなく俺のせい。雲に隠れた月を直視できず目を伏せる。罪悪感で頭が上がらなかった。また、目に涙がにじんでいるのを見られたくなかった。綺麗な月を雲で隠してしまった俺が、雨を降らせるわけにはいかなかった。

「り、理由を聞いてもいいか?」

 必死で我慢したが、自分でもわかるほどに声は震えていた。恐らく泣く寸前であることが、彼女にもわかってしまったかもしれない。だが、気付いた素振りも見せずに幼馴夢は話を続ける。

「だって……ここにはないんだもん」

「え?」

 言葉の意味がわからず、間抜けな声をあげてしまう。思わずあがった視線は、彼女の未だに曇ったままの顔にくぎ付けになる。

「ここには探せば優子も信士もいる……だけど二人はここにいない。二人がいるのは現実であって夢の中ではないから……だから、わたしは現実に帰りたいの。二人と一緒に現実で過ごしたいの。それがわたしの今の夢であり、望む幸せ」

 未来だけでなく、彼女の夢も奪ってしまったことに、胸が押しつぶされそうになる。だが、泣き出すわけにはいかない。そんな資格は俺になんてない。必死で奥歯をかみしめ、我慢する。

「たまにね、思うんだ。わたしと信士がここにいるんだから、これで優子が夢遊病だったら、三人一緒に過ごせるのになって」

 一番大事な現実ってところは叶わないけどね、と苦笑している。俺はというと、胸が詰まって声が出ないでいた。驚きのあまり滲んでいた涙は消え失せ、彼女が口にした言葉になんの返事もできないでいた。このまま真実を語ってしまおうかという考えが、一瞬脳裏をよぎる。だが、ただでさえ苦しめている彼女に、これ以上重荷を背負わせるわけにはいかない。優しい彼女のことだ。委員長が夢遊病になったと聞いたら、先ほど言った冗談が叶ったと喜ぶようなことはないだろう。むしろ、自分のせいで親友が夢遊病になったのではないかと落ち込むはずだ。しかも、唯一ここにいる俺にさえ心の内を知られぬよう、きっといなくなってから、ここで一人途方にくれるに違いない。だから、心苦しくても真実を語るわけにはいかないのだ。

「……どうしたの?」

「なんでもないよ」

 見え透いた嘘をついた。優しい彼女が心配しないわけがない。案の定彼女にしては珍しく、詳しい内容を尋ねてくる。

「だって、これまでそんなこと聞いてきたことなかったのに……現実でなにか辛いことでもあった?」

 そして彼女はどこまでも優しかった。俺が本心を吐露させたにも拘わらず、決して自分のことばかりを優先したりしない。常にこちらを気遣ってくれている。今の俺には、彼女の優しさが嬉しかった。強さが羨ましかった。反対に俺は気丈に振る舞うこともできず、うまい嘘もつけなかった。

「……」

 しばし無言を貫くと、結局彼女の問いには答えず、ごまかすように他の質問をする。

「どうして、いつも俺を待ってくれているんだ?」

 ここに来た際に、彼女がいなかったことなど一度たりともない。たまに姿が見えないときもあったが、すぐに教室の扉を開けて中へとやってきた。まるで俺が来るのを心待ちにしていたかのように、ここにいてもいいとでもいうかのように。夢に閉じ込められる原因を作った俺を、彼女は受け入れてくれたのだ。普段話を聞いていることの多い彼女だが、この時に限っては逆だった。質問に答えることのない俺に、幼馴夢は気を悪くしたような素振りも見せずに語ってくれる。

「全てが夢の中で、信士だけは本物だから……だからいつも信士を待っているの。信士が体験してきたことは現実で、信士の言葉は真実で、信士の思いは誠実。この夢の中で唯一、信じられるもの。見つけてくれるって言ってくれたから、今でも信士を待ってるの」

 柔らかな微笑を浮かべて語られる内容に、過大評価だと思った。幼馴夢の笑顔は底抜けに明るい太陽とは違い、まるで月のようにただそこにひっそりと存在する儚く淡い光。なのに俺には、彼女の笑みが眩しくて仕方がなかった。出られなくなって落ち込む彼女に、確かに自分が見つけ出すと口にした。だが、それは罪悪感から出た言葉だった。それを今でも彼女は信じて待ってくれていたのだ。自分さえ信じていなかったものを、幼馴夢だけは心の支えに待ちわびていたのだ。唯一本物である俺が口にした言葉だからこそ、きっとそれだけが彼女にとって希望だったのだろう。今更ながら、罪悪感からいい加減な約束をしたことに後悔する。

「遅くなってごめん。必ず……絶対に恵の夢を見つけるから……待っていてくれ」

「うん、信じてるよ」

 だから俺は誓いなおした。彼女が信じてくれていたから、謝罪と共に思いを口にした。恵は今も、俺や委員長と現実で過ごす未来を心待ちにしてくれている。だが、状況は悪くなる一方だった。未だに夢がどこにあるのかなんの手がかりも得られず、委員長は夢遊病になり、夢遊病は死に至る可能性のある病と化した。今の俺にはどうすればいいのかわからなかったが、密かにもう一度委員長の夢へ行くことを決意した。

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