第17話 お見舞い

 ドリームハンターから受け取った入構証を手に、気が付けば俺は病院の前まで来ていた。買い物をした後だったため、もう結構遅い時間だ。辺りは薄暗く、人の出入りもほとんどない。面会時間は過ぎており、どうせ入れないだろうと思いつつも、なぜか足が家へと向かなかった。せっかく来たのだからと言い訳しつつ、ダメもとで入口に立つ警備員に貰った入構証を見せると、あっさり中へと通してくれた。安堵と共に困惑する。今さら何をしようというのだろう。夢の中で委員長に言い負かされて会いに行くのが心苦しいから、せめて現実で無事を確かめようとでもいうのだろうか。いや、単に病室まで行けば番号を振られているので、何番目に委員長の夢が壊されてしまうのかを確かめるために来た。それでいい。それだけでいいんだ。何をするわけでもなく、ただお見舞いと称して様子を見に来ただけ。自分をなんとか納得させて、人気のない受付へとようやく向かう。ロビーでしばらく立ち尽くしていた俺に、警備員が不審な視線を向けていたが、何も言わずにいたところをみると、どうやらあいつからもらった入構証は想像以上に効果のある代物のようだ。受付で「すみません」と声をかけると、まだ残業かなにかで残っていたのか、年配の女性がいぶかしげに奥から現れた。委員長のお見舞いに来たことを話すと、ますます疑いの色が強くなったが、入構証を見せると快く応じてくれた。

「美澤優子さんの病室は……あら、二階ですよ。よかったですね」

 場所を確認した年配の女性は、なぜか顔を綻ばせる。俺は意味がわからず尋ねると、どうやら七階建てのこの施設では、上の階に行くほど治療順が遅い、もしくは重症の患者。下に行くほど、ドリームハンターによる治療が早く行われるらしい。一階は受付や外来患者の診察だけなので、二階に入院しているということは一番治療が早いらしい。だから、入院している階を見て、受付の女性はよかったねと俺に言ったのだ。もうすぐ目が覚めるから起きるのを待ちきれず、こんな時間に急にお見舞いに来たのだろうと勘違いした受付の女性は、ニコニコしたまま丁寧に委員長の病室までの道順を教えてくれた。お礼を言うと、教えられた通りに歩き始める。受付左にある通路を道なりに歩き、突き当りを右に曲がってまっすぐ進むと右手にエレベーター、左手に階段がある。たった一階上がるだけだったので階段を上ると、左にナースステーションがあったので、看護師の人に先ほどのように要件を伝えて入構証を見せると笑顔で答えてくれた。ただ、現在は治療に影響がないよう機械をつけて管理しているらしいので、廊下からガラス越しにしか様子を見ることができないらしい。それでも、様子を見るだけでも構わないのでというと、受付の女性のように「よかったですね」と最後に付け加えて通してくれた。ただ、一つだけ違ったことは笑顔ではあったが、どこか影のあるものだったということ。

 後はこの廊下の一番奥まで進むだけ。委員長の病室へと向かいながら考える。いったい何がよかったのだろうか。もうすぐ目覚めてまた現実で過ごせるようになるからよかったですね、という意味で二人が言ったのはわかる。夢の中で何が起きているか知らない人から見れば、当然の反応なのかもしれない。だからといって、俺も同じように素直に喜べるかと言われればそんなことはない。こういう場所で働いているなら、起きた後の人達がどうなるか少なからず知っているだろう。先ほどの看護師の人はきっとそれがわかっていたから、どこか影のある笑顔だったのかもしれない。だけど、それでも二人は「よかった」と言ったのだ。知っていても知らなくても、夢から目覚めることはよいことだと思っているのだ。確かに死ぬ可能性があると発表された今、ますます夢遊病は悪い病気だと認識されるようになった。メディアでは連日のように夢遊病がいかなるものか、どのように対処や予防、そして治療をすればいいのか取り上げ、眠気覚まし関連のアイテムはますます売り上げを伸ばした。そして、夢遊病にかかっている人達の一刻も早い治療を望む声が増えた――にも拘わらず、ついこの間夢遊病になった委員長が二階に入院している。この事実にあるはずのない、あってほしくない現実から目を背けるわけにはいかなかった。いくつかの病室の前を進み、そこで同じようにお見舞いに来ている人達の横を通り過ぎ、ようやく最後の部屋の前に辿り着く。ガラス張りで外から中の様子を覗けるようになっており、反対には座って休めるようソファが置かれている。名札を確認すると、残念なことに『美澤優子』と委員長の名前が書かれていた。だが、それ以上に名前の上に付けられた『一週間以内』というプレートに愕然となった。

「な、なんで……」

 病室の前でくずおれる。意図せず漏れた呟きは、動揺のせいか震えている。

「なんで……こんなに早いんだよっ」

 せっかく、委員長は幸せな夢を見ることができたのに。その終わりは驚くほど早かった。ドリームハンターの需要が増した近年、患者の割合に対して治療者の割合が圧倒的に少ないため、数ヶ月待ちなんてざらにある。最悪、年単位で待たされることもあるというのに。ついこの間夢遊病になったばかりの委員長が、一週間以内に治療されるのは驚くべき早さだった。だから、あいつは俺にお見舞いに行くなら早めに行けと促したのだ。もちろんそれは、もうすぐ目覚めることを知らせようという優しさからではない。夢の中で何が起き、そしてどうなるか知っている俺に対するあいつなりの復讐。自分の親しい人がどういう状態にあり、その後どうなってしまうのか痛感させるための手段だった。「あいつの夢を壊さなければよかった」そう思わずにはいられなかった。

「ちょっと、あなた大丈夫?」

 顔を上げると、そこには先ほどナースステーションで話をした看護師がいた。恐らく、お見舞いに来ていた誰かが、俺の様子を気遣って呼んでくれたのだろう。心配そうな面持ちで意識はあるか、自分が今いる場所がどこかわかるか、などの質問をしてくる。俺がその一つ一つに正確に答えると、問題ないと判断したようで息を吐いている。お見舞いに来た人が、眠り続ける親しい人の姿にショックを受けて、夢遊病になったという話もあるらしい。きっと俺がそうなっていないか、気にしていたのだろう。安堵した様子で俺を病室前のソファに座らせると、励まそうとしたのか、委員長の治療が早まった経緯を説明してくれた。

「この子は大丈夫よ。本当ならは治療まで数ヶ月待ちなんだけど、夢遊病の研究で有名な小貫夫妻がいるでしょ?」

 内容的に他の人に知られるとまずいらしく、俺にだけ聞こえるよう声のボリュームを抑えている。いくら世情に疎い俺でも、流石に両親のことは知っている。ここで自分がその子供だということを話しても仕方ないので黙って頷く。

「どうやら、その二人のお子さんの友達らしくてね。お子さんのために、優先的に治療をしてくれるようドリームハンターの人達に頭を下げていたの。で、一人のドリームハンターが快く引き受けてくれて、こんなに早い治療が決まったのよ」

 明るい顔の看護師とは対照的に、話が進むごとに俺の気持ちはどんどん沈んでいった。 もしかして、委員長の治療が早く行われる原因って、俺のせい……なのか?

 思い返してみて心当たりに行きつく、数日前の電話で両親に委員長が夢遊病になったと話したことを。

「研究ばかりで、あまりかまってあげられなかったお子さんの数少ないお友達らしくてね。これはそれに対する罪滅ぼしらしいわ。職権を乱用して治療の順番を早めたのは褒められる方法ではないけれど、家族のために何かをしたいというお二人の気持ちは素晴らしいと思うわ」

 言葉のない俺は、ただただ下を向いてうなだれていた。自分のしてしまったことの重大さにようやく気付き、震えが止まらなかった。看護師はどうやらそれを嬉しさに身を震わせていると思ったらしく、「いいご両親ね」と肩に手を置いて言う。どうやら俺がその夫妻の子供だと感づいたらしい。最後に「これを私が話したことは内緒ね」とウインクしながら口に指を立て、まだ仕事があるからと去って行った。一人残された俺は、途方にくれるしかなかった。両親に対して、怒りだとか憎しみだとかいう感情は湧かなかった。かといって、感謝の気持ちが湧いてくるわけでもなかった。ただ、なんであのとき委員長が夢遊病になったことを話してしまったんだという後悔で、すでに胸の中がいっぱいだった。職権を乱用してまで委員長を治そうとしてくれた両親に、今更治療をやめてくれというわけにもいかない。両親はドリームハンターが、夢の中でどのようなことをしているか知っているが、眠ったままの状態でいるよりも、起こしてあげたほうが俺にとっても良いと考えているだろう。何より俺に恨みのあるドリームハンターが、この機会を逃すはずがない。結局委員長の夢が壊されてしまうまで待つか、俺がたった一人で壊されないように守るしかないのだ。このまま放っておいても目覚めるが、きっとそのとき委員長は幼馴染と一緒に過ごすという夢を持っていない。かといって守り続けても、いずれ夢が現実を上回った時に夢破れて死を迎える。どうしようもなかった。今の自分にできることは何もなかった。

「……帰ろう」

 ドリームハンターの目論み通り、突きつけられた現実に打ちのめされた俺は、逃げ帰る道を選ぶ。もうこの場所に足を運ぶことは、二度とないだろう。現実を受け止めきれる自信がないから。せめて最後に、夢がなくなる前の委員長の姿を一目見ようとソファから立ち上がると、ゆっくりと病室の中が見える位置へと移動する。透明ガラスなので本来であれば、立ち上がればここからでも中を覗き込むことができるのだが、どうしても頭が上がらなかった。あまりにも早い夢の終わりとなる原因を作ってしまったことと、現実に目を向けたくないという恐怖心からくる見っともない抵抗だった。病室から漏れる明かりを頼りに、誘蛾灯に群がる蛾のようにフラフラと、おぼつかない足取りで進んでいく。ガラスの前に立つと、委員長が横になっているであろうベッドの端が視界に入るが、彼女自身の姿はギリギリのとこで見えなかった。だから、もう下げたままの頭を上げるしかない。覚悟を決めると恐る恐る、ゆっくりとだが顔を上げていく。

 今現在の委員長の姿を視界におさめた俺は、しばらく動くことができなかった。部屋には青い病衣に着替えさせられた委員長が、ベッドの上に横たわっていた。まだ夢遊病になって間もないので、話に聞くような枝のように細い手足になっていたり、髪が伸びてぼさぼさになっていたりはしなかった。けれども、腕から延びる点滴や頭に付けられたよくわからない機械、周囲に置かれたモニター類の数々は、否が応でも委員長が夢遊病になったのだという現実を主張する。まるで秒針を刻むかのように、規則正しく委員長の心臓が動いていることをモニターが伝えてくれる。だが、もう彼女の時間は進むことはない。いや、正確には一週間以内に再び現実で時を刻み始めるが、もうその頃には彼女は夢を持っていない。ただ、生きるだけの人形に成り下がるのだ。そうなってしまえば、幼馴夢の夢も潰えたも同じ。例え目覚めたとしても、もう二度と委員長と元の時間を過ごすことはできないのだ。『夢だったら全てうまくいくのに』そう思わずにはいられない。現実の厳しさと、夢の優しさを目の当たりにした俺は、堪え切れずにとうとう逃げ出した。といっても、病院内を走ったりしては迷惑になるので、一度も振り返ることなく委員長の病室の前から足早に離れただけだ。こんな時でさえ、理性の働く自分が嫌になった。以前のクラスメイトのようにただただ泣き崩れたり、悪い冗談だと現実を否定したりできればどれだけよかったか。冷静に分析するだけの余裕が、委員長が夢遊病になった今も俺の心の中にはあるのだ。なんて薄情なやつなんだろう、と自分でも思う。これなら人への迷惑も考えずに、叫びながら病院内を走って逃げ出したほうがまだましだった。まるで、委員長が夢遊病になったことにショックを受けているように見えるはずだから。

 ナースステーションを通り過ぎる際に、中で作業をしていた看護師が俺に気付き「また来てあげてね」と声をかけられたが、返事はできなかった。もう自分は二度と、ここには来ないとわかっていたから。例え、委員長が目覚めたと聞いても、足を運ぶようなことはない。だって、目覚めた委員長はもう以前までの委員長ではなくなっているはずだから。幼馴夢と現実で過ごしたいと夢見ていた委員長はきっといない。その現実を受け止めることは決して俺にはできないだろう。階段を下り、人気のない廊下まできてようやく俺は足を止める。周囲を見回し、人がいないことを確認すると壁にもたれかかり、長い息を吐き出した。ベッドに横たわる委員長の姿が目に焼き付いて離れない。頭は冷静なはずなのに、心臓はまるで長距離を走ってきたかのように激しく脈打っていた。心臓が早く動くせいか、徐々に息苦しくなり、酸素を求めて自然と呼吸が荒くなる。めまいを覚え、廊下の明かりがチラついて見える。光がチラつく度に、ベッドに横たわる委員長の姿が思い出され、ますます息苦しさとめまいが悪化し、とうとう立っていられなくなり壁を背にズルズルと座り込む。「落ち着け、落ち着くんだ」と必死に心の中で自分に呼びかける。周囲の迷惑を考えるくらい冷静なはずなのに、体調は悪くなる一方だった。時間の間隔もなくなり、五分だったのか五十分だったのか、どれだけの時間うずくまっていたのかわからないが、気が付くといつの間にか目の前に誰かが立っていた。

「大丈夫?」

 どこか聞いたことのある女性の声だった。特に何かをされたわけでもないのに、不思議と気分が落ち着いてくる。

「誰か呼びましょうか?」

 先ほどまで立っていられないほど酷かった動悸もめまいも息切れも、声を聞くたびに徐々に収まり、今ではほぼ正常に戻りつつあった。

「ハァ、ハァ、ハァ……だ、大丈夫です」

「よかった」

「ご迷惑をおかけしてすみません。ありがとうござ――」

 安堵した様子の女性に対するお礼の言葉は、最後まで続かなかった。女性の顔を見た途端、驚いて声も出なかった。幼馴夢が年を取って大人になると、まさにこんな感じになるであろうという姿そのままだった。

「気をつけて帰ってね。じゃあ、私はこれで」

 花束を抱えて歩いていく女性の後ろ姿を、しばし呆然と見守る。幼馴夢が現実で過ごすはずの未来の姿が、突然目の前に現れたのだ。驚くのも無理はないだろう。ショックから立ち直れないままだったが、俺の足はまるで引き寄せられるように、女性の後ろ姿を追っていく。一緒のエレベーターに乗り込むと、女性の押した最上階に上がっていく。自分と同じように誰かのお見舞いだと思ったのだろう。こちらを見てほほ笑んで会釈しただけで、特に何も言わなかった。エレベーターが上がっていくうちに、徐々に落ち着きを取り戻していった。女性は病院の最上階で降りると、奥へ奥へと進んで行き、一つの病室の前で立ち止り、扉を開けて中へと入っていった。恐らく毎日のように通っているのだろう。まるで勝手知ったる我が家のように、進む足取りに迷いがない。たまにすれ違う患者や看護師に挨拶をしており、この場所で馴染みの人物だということが一目でわかった。もう俺は女性が誰だか理解していた。していたにも拘わらず、確かめずにはいられなかった。委員長が毎週お見舞いに行っていたので、彼女がここに入院していることは知っていた。ただ病室までは知らなかったので、ここに来てもたどり着けるとは思っていなかったし、行こうとも思っていなかった。まだ俺には現実を受け止める勇気がなかった。だからこの三年間、一度も幼馴夢の住まいがある場所や実際に入院している病院を外から眺めてはみても、近づこうとはしなかった。いや、近づけなかった。何度か足を運んだことはあったが、目の前にすると心臓がうるさいくらいに動きだし、呼吸が乱れ、どうしてもあと一歩が踏み出せなかった。せいぜい表札を確認するのが精一杯だった。なのに、委員長の様子だけ見に来てそのまま帰ろうとする俺を、まるで引き留めるかのように現れた女性。相手には何の意図もないのはわかっている。けれどもここで、このタイミングで現れた幼馴夢に似た女性に運命を感じずにはいられなかった。委員長の時とは比べ物にならないほど、緊張しているのがわかる。今にも倒れてしまいそうなほど足は震えているが、「病室の前……病室の前まで……」と自分の心を必死に落ち着かせながら、ゆっくりと歩みを進める。ほんの五メートルの距離が非常に長く感じた。まるで水の中を動いているかのように、体全身に抵抗があって思うように前に進めない。息切れを起こさぬよう、必死で酸素を取り込み、体内に送り込む。辿り着くまでに何度も、すぐにでも後ろを振り返って走り出したい衝動にかられる。だが、それを必死でこらえて、目的地まで辿り着くと女性の入っていった病室の名札を見た。

『咲野恵』

 予想通り、そこは俺が三年前に夢に閉じ込めてしまった幼馴夢の入院してる部屋だった。先ほどの女性が幼馴夢に似ていて当然だ。むしろ逆で、幼馴夢が先ほどの女性に似ているのだ。なぜなら女性は幼馴夢の母親なのだから。

「また、痩せた? もう、もともと小柄なんだからそれ以上痩せたら大変じゃない」

 中から母親の話声が聞こえてくる。その声に対する返答は当然ない。けれども、漏れ聞こえてくる女性の声は、楽しそうに嬉しそうに、そして気丈に話し続けていた。一人だけの会話、空しく響く笑い声、時々生まれる静寂に心が締め付けられる。胸を押さえて必死に痛みを我慢する。いつまでそうしていただろうか、急に病室の扉が開いた。

「あら、あなたはさっきの……」

 幼馴夢の母親の手には花束と花瓶が抱えられていた。どうやら持ってきた花に取り換えるため、廊下に出ようとしたところだったらしい。

「えっと、あの、どうも」

 突然のことに動揺してしまい、それだけしか言うことができなかった。本来であれば、さっき廊下で声をかけた見知らぬ人間が自分の娘の病室前に突っ立ているのだから、不審者扱いされてもおかしくはない。お見舞いに来たわけでもないので、すぐさま立ち去るべきだった。ましてや、三年も経ってからお見舞いに来ただなんて、いかにも怪しい。自分が同じ立場であったなら、きっと人を呼んでいただろう。どちらにせよ、不審者扱いされてもおかしくない状況だったので、今後のことを考えるならすぐにでも離れるべきだったのに、動揺からかそれとも後ろめたさからかどうしても足が動かなかった。だが、予想に反して幼馴夢の母親の反応は違った。

「もしかして、うちの娘のお見舞いに来てくれたの?」

 一瞬驚いた様子だった表情が、パッと笑みに変わる。そんなつもりがないにも拘らず女性の笑顔が幼馴夢の笑顔と重なり、否定することができなかった。

「嬉しいわ~。最近、優子ちゃんがお見舞いに来ないから困ってたの。一人じゃ中々会話が続かなくて。今花を取り換えてくるから入って入って」

 といって、俺の横を過ぎて後ろに回り込むと、背中を押して半ば強引に病室の中へと押し込む。されるがままに足を踏み入れると、ベッドに横たわる幼馴夢の姿があった。幼馴夢の母親は俺を中まで入れると、自分は花を取り換えに廊下へと出てしまった。心の準備もできぬまま、思いがけず現実の幼馴夢の姿を見ることになる。委員長と同じようにベッドに寝ているが、彼女とは違い、頭に機械が付いておらずモニターの数も少なかった。何よりも決定的な違いは、腰くらいまで伸びた髪、痩せこけた顔、まるで枝のような手足。この状態のまま彼女が三年の月日を過ごしてきたことを表していた。だが、今まで見たり聞いたりしてきた他の夢遊病患者とは異なり、髪は伸びていたが枝毛もないくらい綺麗に整えられており、爪も切りそろえられ、入浴できない状態にも拘わらず、顔も手足も肌は清潔に保たれていた。三年も経過していながら、こんなにも綺麗な様子をした夢遊病患者を俺は見たことがなかった。母親に大事にされてきたことが、幼馴夢の状態から一目で理解できた。実際に彼女の姿を見た瞬間、倒れてしまうのではないかと思っていたが、予想に反してそんなことはなかった。動くことも考えることもできなかった。茫然自失となりながらも、彼女から目を離すことができなかった。まるで人を魅了してやまない魔力でもあるかのように、目が釘付けになったまま微動だにできなかった。ただただ、まるで彼女の今の姿を脳裏に刻み込むかのように、自分の犯してしまったことの重大さを胸に刻み込むかのように見入っていた。

「あら、座っていてくれてよかったのよ」

 花を換えて戻ってきた幼馴夢の母親に声をかけられて、ようやく意識を取り戻す。

「ハァ、ハァ、ハァ」

 まるでこれまで呼吸を忘れていたかのように、肺に空気を送り込む。長時間の潜水から海面に顔を出した直後のように、酸素を欲する体に答えるよう必死に呼吸を繰り返す。しかし、どれだけやっても息苦しさが改善されることがなく焦ってくる。「苦しい」「息ができない」「死んでしまう」この三つの思いが頭の中を駆け巡る。胸が痛み、手がしびれ、意識が朦朧としてくる。もしかして、俺がしてしまったことに対する幼馴夢からの罰なんじゃないか、という考えが一瞬頭をよぎる。それなら受け入れるべきなのかもしれない。幼馴夢も委員長もいない寂しい世界で生きるくらいなら、ここで罰を受け入れるほうが楽なのではないかとさえ思えてきた。だが、幼馴夢に似た声が俺を現実に引き戻した。

「大丈夫? そこにある椅子を使って」

 俺はすすめられた椅子に倒れこむように腰を下ろす。座ってみてようやく気付いたが、いつの間にか足がガクガク震えていた。立とうとしても、まったく力が入らなかった。

「焦らなくていいのよ。ゆっくり息を吸ってみて――そう。そしたらすぐに息を吐かずに一旦止めて――今度はゆっくり吐いて。それを繰り返して」

 声のとおりに従ってみると、あれほど苦しかった呼吸が不思議なほど楽になった。

 なにか魔法でも使ったのだろうか?

 それとも幼馴夢の母親だから彼女と同じように人を安心させる力でもあるのだろうか? 驚きを隠せないまま幼馴夢の母親に視線を向けていると、安心するような笑顔を浮かべて答えてくれた。

「ここによくお見舞いに来てくれていた優子ちゃんって子が、似たようなことになったことがよくあったの」

 その時も同じようにして対処していたらしい。そうか、俺だけでなく委員長も同じだったのか。夢遊病にならなかっただけで、親友が目覚めない現実で平気なわけがなかったんだな。

「体調はまだ悪い?」

「す、少し」

 なぜか幼馴夢と似た母親の声を聞くと、不思議と気持ちが落ち着いた。足はまだ震えているが、座りなおすくらいのことはできるようになった。

「看護師の方をよびましょうか?」

 心配そうに覗き込んでくる幼馴夢の母親に、精一杯の笑顔を作り答える。

「いえ、しばらく休めば大丈夫です」

「よかった。体調を悪くしてまで、わざわざお見舞いに来てくれてありがとう」

 やっぱり、この人は幼馴夢の母親なのだと確信する。なんだか安心する声、穏やかな笑顔、そして常に相手の心配ばかりしている。俺は迷惑ばかりかけて、感謝されるようなことはなにもしていない。むしろ責められるべきだった。幼馴夢の母親からすれば、大事な娘をこんな目にあわせてしまった張本人なのだから。ここで真実を語ってしまうべきかどうか迷うが、そんな話をしても混乱させてしまうだけで、決して信じてはもらえないだろう。全く見ず知らずの人間が、三年後にのこのこお見舞いに現れて「あなたの娘が目覚めなくなった原因は自分です」と言ったところで、ただの悪質な嫌がらせでしかない。だからこの秘密は幼馴夢を無事に夢から目覚めさせてから改めて謝罪するか、死ぬまで話してはいけないものだった。

「娘は幸せね」

 むしろ不幸だと思った。俺とさえ会わなければ、今も幸せな夢を見続けるか、夢を失ってしまっても、現実で両親と会うことはできたはずなのに。だが、俺の気持ちとは裏腹に幼馴夢の母親は、自分の娘が誰かに思われていることをただ喜んでくれた。

「目が覚めなくなってから三年も経つのに、未だにお見舞いに来てくれる人がいる。だから早く起きなくちゃね」

 自らの意志でお見舞いに来たわけではない。言い訳ばかりを並び立てて、委員長の元になし崩し的に訪れ、きっとこの場所には運命の悪戯で辿り着いてしまった。なんの覚悟も意志もない俺に、今ここでできることは何一つない。できることといえば、見守ることだけ。自分のせいでこの三年間どれだけの人が不幸になったのか、現実を目の当たりにすることだけだった。俺が黙っている間も、幼馴夢の母親は娘に語り掛ける。他愛もない会話から過去の思い出まで、きっとこの三年間いつか目覚めると信じて、ずっと繰り返してきたのだろう。一人で話し続けているにも関わらず、話題の順番や語り聞かせる言葉に淀みがない。幼馴夢の母親は俺の体調を気遣ってか、決して無理に話を聞き出したりしようとはせず、時々話題のタネに俺を出したり、相槌を求めたりする程度だった。だから俺は、しゃべらずに首を動かすだけでよかった。建前上、お見舞いに来ているにも拘わらず、ただ座っているだけ。ある程度娘と話をすると、幼馴夢の母親は俺に一つだけ質問をしてきた。

「あなた優子ちゃんのこと知ってる?」

 ドクンと心臓が跳ねる。一瞬白を切ろうかと思ったが、三年間眠り続けている幼馴夢のことを知るには委員長を経由するしかない。では「どこで娘がここに入院していることを知ったのか」と聞かれたら、答えることができないので正直に頷いておく。

「最近来ないけど優子ちゃんは元気にしてる?」

 まっすぐ向けられた視線。一瞬嘘をつこうか真実を言おうか悩み、目を伏せる。だが、結局同じ病院に入院しているのだ。きっと、嘘をついてもいつかばれてしまう。なら、正直に話してしまったほうがいい。

「あ、あいつは……」

 多くを語らずとも伝わったらしい。寂しそうな目をすると、一言「……そう」とだけ呟いた。何を言ったらいいかわからない俺は、ただただその場で一人だけの会話、時々聞こえてくる笑い声に、心が締め付けられながらも座っていることしかできなかった。


 病院を出た俺は最後に一度だけ、委員長と幼馴夢が入院している病室のあたりに目を向ける。

「今日はあなたが来てくれてよかったわ。また娘のお見舞いに来てね」

 病室を出る際、幼馴夢の母親にかけられた言葉が、今も耳の中で反響している。

「また……か」

 幼馴夢に語りかける母親と、幼馴夢の現在の姿が脳裏に焼き付いて離れない。夢遊病になることなく、三年もあんなふうに待ち続けていた。最近までは委員長が同じように待ってくれていた。だが、委員長はいつ夢遊病になってもおかしくなかった。これは当然の結果、仕方のないことなんだ。もう幼馴夢を一緒に待つ委員長はいない。だけど、きっと幼馴夢の母親は、これからも同じ様に待ち続けるだろう。現実では幼馴夢が一人にならないように、委員長と母親が頑張ってくれていた。なのに俺は、ここ数日彼女のいる場所に足を運んでいなかった。

「みんな強いな。強すぎるよ」

 現実で頑張り続けた人、現実で頑張り続ける人、罪を犯しながらも現実から逃げ続ける自分と比較して、たまらくなり全力で走り出す。道行く人に何度もぶつかり、何度もつまずいて転びそうになるが、それでも走り続ける。どれくらい走っただろうか。部活や運動をせず、体力のない俺はいくらも進まぬうちに、疲れから足がもつれて転んでしまった。だが俺にはもう走る気力もなかった。ただ、拳を握りしめて地面におでこをこすりつけながら、涙するしかなかった。

「なんで、俺だけ眠れないんだよ!」

 幼馴夢も委員長もいない世界で、一人生きていくのは辛かった。

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