第13話 ドリームハンター

 名前も知らぬ少女に弔いの願いをしてから、俺の中で誰の夢に入っても本当にこれで夢の主達は幸せなのだろうかという疑念がついてまわった。女性に囲まれて楽しそうに笑う男性。愛する人と結ばれて結婚した女性。たくさんのゲームの中で常に遊んでいる子供。果たして彼ら彼女らは、最後には幸せな夢を失って死んでしまう可能性があることを、理解しているのだろうか。恐らく、知る由もないだろう。それこそ俺やドリームハンターのように他人の夢に入れる能力でもなければ。現実では夢遊病者は夢の中で遊んでいるだけという認識が強い。現実に負けたものが、夢に逃げたのだと批判する評論家もいる。夢遊病に罹った人の周囲には哀しみがついてまわるせいか、夢遊病になること=悪いことだという風潮がある。確かに事実だけを見ればいつ目覚めるかもわからない、もしくはもう二度と目覚めないかもしれない植物状態のようになってしまうのだから、よくないことなのかもしれない。ただ現実から逃げた先で、幸せを夢見ただけなのに。なぜ逃げることがいけないことなのか。幸せを求めることのなにがいけないのだろうか。考えようによっては人の夢を壊してまわるドリームハンターは、夢破れた夢遊病者だったと言うことができるかもしれない。自分が叶わなかった夢見ることを理由に、次々と他の人達を巻き込んでいく。まるで自分が起こされた恨みを晴らすかのように。今日も今日とて俺は他人の夢の中を彷徨う。アイドルとなって歓声を浴びる夢。飛行機のパイロットとなって空を飛びまわる夢。そして、たどり着いたのは音のない絵画の世界だった。

『この夢見たことあるな』

 デジャブを感じ、周囲を見渡す。壁に掛けられた絵画、ゆっくりと歩きながらそれらを観賞する人々。厳かな雰囲気が漂い、しゃべる人もいなければ音を立てるものもない。無音の状態の中、黙々と一枚の絵を見ては次を見る。延々とそれが繰り返されている。言葉すら発することのできない音のない世界。

『間違いない。これは夢遊病者の夢だ』

 音すらも拒絶する夢の主は、一体現実でどれだけの嫌なことがあったのだろうか。賞賛の言葉さえもいらない。ただ自分の描いた絵を黙って眺めてくれればいい。意志というか拒絶とでもいうのか、とにかく他者に対しての強い抵抗を感じ取れる。描かれている絵は素人の俺には、どれもよく描けているように思える。写真かと見紛うほどの絵の数々。これらのどこに、作者は不満があるのだろうか。なぜそこまで拒否感を示すのかがわからなかった。自分の夢の中なら、歓声も賞賛の言葉も思うがままなのに。いや、だからこその無音なのかもしれない。以前来たときは早く去りたいがため、特に注視することなく通り過ぎていたが、今回はあんなことがあった直後だったためか、普段は足早に立ち去る夢遊病者の夢を、じっくり見るためにゆっくりと歩みを進める。様々な絵画が飾られる中、他の人達と同じように観賞してまわる。

 いつも人の夢に入って自分勝手に振る舞っているわけではない。本来であれば、むしろ目立つような行動を起こすことはまずない。ただの登場人物の一人として、ふるまうよう心掛けている。他人の夢なのだから、わざわざ特別なことをする必要はない。何もしなければ、登場人物の一人としてどんな夢でも楽しむことができるし、夢の主は望んだ夢を見ていられる。お互いにとってそれが最善。どうにかしようと干渉した時点で、それはドリームハンターと変わりない。有象無象の一員として行動していた俺の目を引いたのは、一枚の絵だった。何も描かれていない白紙の絵。よくよく目を凝らせば、実際には女性の姿が描かれているのがわかるけれど、一見すると何もないように白一色に染めあげられたキャンバス。掛けられている壁が白いせいで周囲の色と同化し、余計わかりにくかった。確かに目の前に存在しているのに何もないように描かれている。まるで今のこの状況を表しているかのように。ここに絵があることに気付かないのか、夢の主が意図的に人が寄り付かないようにしているのか、誰もこの絵を見ようとしない。どの絵にも無数の人が群がるのに反して、ここだけはぽっかりと空間が空いていた。以前来た時に感じた違和感の正体はこれだった。あの時は遠目からだったので、絵の存在に気付かなかった。だがゆっくり見て回ったことで、ようやくここに絵が飾られていたことがわかった。誰もが避けて、もしくは素通りする絵を、俺だけが一人ぼんやりと眺め続ける。まるで、この絵に込められた作者の真意を測るように。

「ねぇ……この絵の意味がわかるの?」

 夢の主も夢の中に紛れ込んだ俺という異物に気付いたらしく、話しかけてくる。音がないはずの世界に彼女の声がいやに大きく響く。いつの間に隣に立っていたのだろう。黒い短髪をした、一見すると大人しそうな印象の女性。背は俺より少し低いくらいで年齢は俺と同じくらいに見えるが、芸術家であるせいだろうか、どこか不思議な雰囲気をまとっている。返答しようか迷うが、よくよく考えれば彼女は夢遊病者なのだから、現実の俺に何かしらの影響があるわけではない。彼女自身がここから出ることを望むか、この世界がドリームハンターの手によって崩壊でもしない限り、彼女が現実を変えることはない。例え何かの拍子に目覚めたとしても、どうせ夢でのことは何一つ覚えていない。どう振る舞おうと、現実は何も変わりはしないのだ。だったら、ここで彼女からの質問に返答しても何の問題もないだろう。

『全然』

 答えようとして音がないことを思い出す。口にしたはずの言葉は声にならなかった。わけがわからないというように一回首を傾げた絵画の少女だったが、俺の表情から意図を読み取ったらしい。

「そういえば音がないままにしていたのよね。戻すわ」

 呟いた瞬間、ガヤガヤと周囲が騒がしくなる。さすがこの夢の主であり彼女自身の願望の塊である。たった一言で望んだ通りのことが現実になってしまう。いや、ここは夢の中なのだから、夢実とでも言ったほうがいいのか。なんであれ、夢の中で実際に起こっているということに変わりない。起こってしまえば、もうここではそれは本物と同じということ。夢の中で水に触れたとき冷たいと思ったり、落ちていく時に体が浮くような感覚を体験したことがある人は少なくないだろう。本来あるはずのないものを、夢の中にいるときは本当に味わっている。夢は情報を整理するために脳が見せているということだから、脳がそう思ったのならここでは全てが現実になる。いや、全てが現実にならざる得ない。だから、夢の主が音を望まなければ何も聞こえないし、必要であると思えば無いものでも存在する。例えそれが、もうすでに亡くなっている人達だとしても。

「……」

 どうやら自分が思っていた以上に、女の子のことを気に病んでいるようだ。夢の中で少女の今際の際を見届けたからだろうか。助けることができなかったからだろうか。それとも、幸せな夢を見たまま死ねないことを知ってしまったからだろうか。もう女の子はいないのに。どうすることもできないのに。過ぎてしまった結果でしかないのに。なぜ他人の夢にまできて思い出しているのだろうか。

「実に見事だっ! 完璧な構図、繊細なタッチ、鮮やかな色彩、どれをとっても一級品だ。さすが稀代の天才画家と言われる絵だけある」

 急に耳に入ってきた声に意識を戻される。聞こえてくる声は、どれも絵が素晴らしいとほめたたえる言葉ばかり。創作をしているものなら、誰もが一度は望む願い『自分が作り上げたものを評価してもらいたい』という欲求。

「いい加減にしてほしいわ。こっちはほめられるのはもう飽き飽きしているってのに」

 だが、夢の主の示した反応は逆だった。賞賛を表す周囲の反応にさもうんざりといった様子。

 自分の作品が好評価を得ているのだから、ここは喜ぶところではないのだろうか?

 表情から俺の胸の内を察したらしく、抱いた疑問に答えを返してくれる。

「作者の思いが伝わらない作品に何の価値があるの」

 絵描きだから、秘められたものを読み取る能力に長けているのだろうか。いや、単に今までも自分の望んだ評価が得られていなかったのかもしれない。だからこその無音なのだろう。ただの賛辞が嫌なら、自分が望むまま言わせておけばよいのではないかと思うが、その疑問すらも彼女からすれば、

「絵描きが作り出したものなのだから、しっかりと正当な評価は受け入れなければいけない」

 ということらしい。だからといってそれが自分の望んだ言葉とは限らないけどねと付け加えて苦笑している。ようするに今まで現実で受けてきた評価は、彼女の望むものではなかったということだろう。だから夢遊病になった。テレビで解説しているような奴らは「そんな理由で?」と思うかもしれないが、当人にとっては現実から逃げたくなるほど重要なことなのだ。

 そもそも彼女は先ほどなんて言っていた?

 正当な評価は受けないといけないということは、今観賞している人物達の言葉は彼女が実際に現実で言われたことということじゃないか。彼女自身に尋ねてみると「ええ、そうよ」と事もなげに頷いた。

「もしかして、結構有名だったりするのか?」

「有名かどうかは知らないけど、取材をよく受けていたからテレビには映っていたと思うわよ。絵描きのこと知らない?」

「絵描き?」

「ああ、ごめんなさい。『私』みたいなものよ」

 なるほど、一人称の『私』代わりに『絵描き』を使っているのか。彼女は絵を描くことによほど誇りを持っているのだろう。

「悪いけど、テレビはあまり見ないんだ」

 頭をかきながら目を逸らしていては、なんのフォローにもならないだろう。正直そんな時間があれば、とにかく睡眠にあてていた。自分は有名だと思っていた、もしくは知られていたと思っていたのに、俺が覚えていなくてガッカリさせる、という体験させてしまったことが何度かあるので申し訳ない気持ちになる。ひどい時には隣の席に座っている奴の名前すら、一緒のクラスになって学年が変わる頃になっても知らなかったくらいだ。それだけ、俺は人との交流時間を睡眠にあてていた。

「じゃあ、絵描きを知らないのにその絵に興味を持ったんだ」

 申し訳なく思っている俺の心情とは裏腹に、彼女はなぜか嬉しそうだった。

「これだけすごい絵が展示してある中に真っ白な絵がかざってあれば、誰の目にも留まるだろう?」

「違うっ!」

 彼女の強い思いがこもった否定の言葉に驚く。まるで自分の作品へこめたメッセージが伝わって欲しいと願うかのような祈りにも似た思い。この瞬間俺は理解した。彼女の求めた幸せは、自分の作品をわかってくれる人が現れることだったのだと。そして同時に夢遊病になった理由も。結局、望んだ人物が現実にいなかったのだと。

「絵描きを知っている人達はこれを見ても、なんでこんな絵を描いたんだと首をひねるばかりだった。誰も絵描きの絵を見てくれなかった」

 理解されることのなかった自分の作品。向けている目には落胆といった感情や、やっぱり望む評価を得られなかったか、といった諦念がうかがえた。俺も同じように改めて彼女の作品を眺めてみる。一見すると何も描かれていない白一色の絵。だけど、彼女が現れたおかげで、ようやくこれが何を描いたものか理解できた。これは白一色で描かれた自画像だったのだ。本来であれば、なにかしら色があるはずなのに何もない。だからこそ俺は、この絵に惹かれたのかもしれない。

「今までの奴らにどうか評価されてきたか知らないけど、俺はこの絵が一番好きだな」

「……え?」

「できれば、この絵を部屋に飾って眺めたいくらいだよ」

 何もしてこなかった俺に、何も描かれていないようにしか見えない絵。まさにピッタリじゃないか。幼馴夢を目覚めさせることができない現実に常にいる自分。絵を見たものに幸せを与えることができない現実に常にある絵。作者は自身の心情を表現しただけなのかもしれないが、彼女以上にこの絵には自分があてはまる気がした。

「ほっ……本当に?」

 必死に我慢しているつもりらしいが、態度や表情から嬉しさが滲み出ている。

「あぁ。まあ、有名な画家なら値段もそれなりにするだろうし、学生である俺にはこんな高そうな絵を買うなんて土台無理な話だよ。未だに親から小遣い貰ってる身だしな」

 暇さえあれば寝ていたので、もちろんバイトなんてしたことがない。たぶん俺は、現実で体験すべきものをことごとくやってこなかった。放課後友達と遊んだり、部活に汗を流したり、将来を見据えて勉強をする、その全てが俺にとって睡眠時間だった。ただ、夢の中でなら色んなことをしてきた。冒険、観光、スポーツ、それこそ現実ではできないようなことを数多く体験してきた。現実をないがしろにして、後ろめたい気持ちもある。このままの生活を続けて、将来どうなるのかと時々不安を抱いたりもする。だけど、幼馴夢が夢の中にいたままじゃ、心の底から楽しめなかった。あんなことをしておいて、自分だけが現実を満喫することに心が耐えられなかった。だから現実にもいられず、かといって夢の中にも居場所がない。そう俺は中途半端なんだ。童話の卑怯なコウモリのような存在。鳥達には自分は羽があるから鳥だと主張し、獣達にはネズミのような灰色の毛皮と牙があるから獣だと吹聴する。どちらにもいい顔をして、結局どちらからも受け入れてもらえなかった存在。現実にも夢にも居場所のない自分。どちらの世界にあっても認めてもらえない絵。睡眠以外の欲求が皆無とっていっていいほどない俺が、心の底から欲しいと思った。過去、例え興味を持ったとしても安眠グッズを買うような俺が。この絵を手に入れることで、少しでも救われるような気がした。救済を受けるのは俺か、絵か、はたまた夢の主なのかはわからない。もしかしたら、何も救われないかもしれない。絵に対する単なる同情ようなものなのかもしれない。だけど、俺は確かにこの絵が気に入ったのだ。

「あげるわ」

「え?」

 どれだけの時間眺めていただろう。とても長い時間だったような気もするし、一瞬だったような気もする。彼女が側にいることも忘れて、絵に見入っていた。夢にいるから時間の感覚なんてただでさえないのだが、我を忘れるくらいこの絵に惹かれていた。

「けど、ただじゃない。これからする質問に、あなたが絵描きの満足する答えを返せたらよ」

 突然の提案に面食らってしまったが、彼女なりに俺を気遣ってのものなのか、もしくは単なる建て前か。どちらにせよ、この気まぐれに付き合ってみようと思った。ここは夢の中なのにどうやって渡すのかとか、この絵はこの世界を構成している核だからこれがなくなったらこの夢自体がなくなってしまうとか、色々な考えが脳裏をよぎるが、それらを置いておいて、今回は彼女の提案に乗ってみようと思った。結局、どうすることもできないありえない選択だったが、これから長い時間ここに留まるであろう彼女に、ほんの一時でも戯れに付き合ってもいいかと思えた。この茶番で、彼女の心を少しでも軽くできればよかった。

「わかった」

 俺の意志を確認すると、彼女はしゃべり始める。

「これはね……絵描きが夢遊病になる前に現実で描いた最後の作品……」

 白一色のキャンバスに思いの全てを込めたのだという。

「だけど、誰もこの絵を評価してくれる人はいなかった。だから、そんな現実が嫌になって夢を見た」

 自分で望めば叶うのに、そうしなかったということは、願うことを心のどこかで拒んでいたのだろう。評価してくれる人を心から望んでいても、自分の願った結果として評価されるのは嫌だった。評価を望んでいても、心のどこかで評価されないことを望んでいた。だからこそ、この絵の前には誰もいないし、見向きもされない。本当の誰かに自分の真意をわかってもらうために。たまたまこの夢に来たのが俺で、たまたますぐに他の夢に移動することなく、たまたまこの絵の前で足を止めた。これが俺ではなくドリームハンターであったなら、ただ破壊されて終わりだった。来るはずのない人物を、彼女はずっと待ち続けていた。

「そして、ようやくこの絵を見てくれる人が現れた」

 夢の中だけどね、と自嘲気味に笑う。

「ねぇ、どう思った?」

 物珍しさに立ち止っただけの俺の意見を彼女は求めた。期待半分、諦め半分といったような表情で、俺の答えを待っている。ただ単に刺激が欲しかっただけかもしれない。自ら望みながらも延々と繰り返されるこの世界で、唯一違う行動を起こした俺に興味を引かれただけなのだろう。それはまるで人通りのない道を歩いていたとき、向こう側から歩いてくる人物に視線を向けただけのようなもの。誰かと歩いていれば、もしくは周囲に何十人も歩いていれば、見向きもしない気にも留めない存在を、置かれた状況からたまたま認識の対象にしてしまっただけ。俺の言葉はなんの価値も無いし、なんの価値も与えない。彼女は期待するだけ無駄というものだ。委員長の心さえ動かせなかった俺に、絵画の少女は何を期待しているというのだろうか。だから自分の思ったままを口にした。取り繕うでも、偽るでもなく、最初に抱いた思いを言葉で伝えた。

「ただ、この世界みたいだなと思っただけさ」

 そこに存在しているはずなのに存在しない世界。夢遊病者の見ているものは、全てそういうものなんじゃないかと思う。誰にもわからない誰にも理解されない自分だけの世界。どっかの誰かが現実だけでなく、夢にまで引きこもりが出始めたと皮肉で言っていたが、案外間違っていないのかもしれない。

「確かにその通りかもしれないわね。色のない賞賛の言葉。その中心で、それらの言葉を受けて、白に染まっていく色のない自分を表現した。この絵は絵描きの現実で最後の作品であり、生涯最も苦労した絵。キャンバスをただ白く塗りつぶしたものにしか見えないけれど、だからこそ最も難しく、最も時間を要した」

 傍目にはあまり変わらないが、視線と態度でこの絵には彼女の並々ならぬ思いが込められているということだけはわかった。彼女はまだ夢遊病になっただけで生きているのに「生涯最も苦労した絵」と表現しているが、まさに最後の覚悟で完成させ、夢遊病になったのだろう。

「だからこそ……見てもらえないのが悲しかった」

 俺は彼女の望む答えを与えられたのだろうか?

 なにも与えられない、なにもできることはない、と自分で思っていたはずなのについそんなことを考えてしまう。単に慰めたかったからじゃない。なんだか望んでいるはずの現実を得ることができない彼女と、自分がどこか重なっているように思えたから。自分の最後の作品を寂しそうな瞳で、じっと眺めている彼女の横顔からは、その心情はうかがえない。

「ねえ……あなたは何者? ここは絵描きの世界なんだから、絵描きの予想もしていない答えをするあなたは、この世界の登場人物じゃないわよね。じゃあ、人の夢に出入りできて自分の意志のままに動けるってことは……ドリームハンター?」

「……」

 すぐに返答することができない。彼女の言い分からすれば、俺はドリームハンターに近いのかもしれない。けれど、一緒のくくりにされるのだけは嫌だった。だってあいつらは多くの人の幸せを奪い、憎悪で増えていく夢を狩るものだから。世間では救世主だなんだともてはしているが、実際はそんなものじゃない。忘れることのできない過去が脳裏によみがえり、思わずこぶしを強く握りしめる。

「どうかしたの?」

 様子の変化に気付いたらしく、彼女が声をかけてくる。

「いや、なんでもない。そうだな……俺は、なんなんだろうな」

 誰かの夢を壊そうなどと考えたことは一度もない。だけどそれは、夢遊病者を起こさずに放置しておくことと同義だ。救えるのに救えない。怪我を負っている患者が目の前にいるのに医者が見捨てることに等しい。以前はそれでいいと思っていた。見ている人にとって、最も幸せなことなのだと考えていた。そう信じていたのに……あの少女の夢に行ってから、ずっと心が揺らいでいる。どうすればいいのか迷っている。ドリームハンターにもなれなければ、単なる夢の登場人物でもない。答えを求めて旅に出る若者のように、いくつもの夢を行き来している彷徨い人。他人の夢を見せられて迷惑しているなんて言っておきながら、きっと俺は自分の夢を見ることができていてもいずれ、同じように他の夢を渡り歩いていただろう。今の自分を表すなら、放浪者という言葉が最もピッタリくるかもしれない。夢でも現実でも求めている幸せを実現することができず、方法さえも分からず、本当に求めるべきなのか戸惑い、ずっと逡巡している。

「夢の旅人って言葉が一番しっくりくるかな」

「夢を追い求めて旅をするなら、ドリームハンターとどう違うのよ?」

 違うさ。月とすっぽん、いや夢と現実くらい違う。

「じゃあ、ドリームハンターをどう思う?」

「夢遊病者を起こしてくれるいい人じゃないの」

 一般的には彼女の認識は正しい。現実にいる誰もが、ドリームハンターとは夢遊病になっている患者を治療できる唯一の方法であり、最初で最後の手段。これで目覚めなければ、現状もう打つ手がない。だからこそ幼馴夢は未だに特に何をするでもなく、現実で放置されている。けれど、彼女が夢に来てしまった今、その考えは間違っていた。

「そんな生易しいものじゃない。ドリームハンターが夢遊病者を起こす時に、何をしているか知らないからそんなことが言えるんだよ」

 夢の中に入れるのは、今のところ俺のようなイレギュラーを除いてドリームハンターだけ。だから、あいつらのほとんどは人目がないことをいいことに好き勝手やっている。夢で好きなように暴れ、現実では感謝され、金ももらえる。あいつらがやっていることは、夢遊病者を起こすのではなく壊すことだ。ただ夢を行き来する俺と違って、あいつらは行った夢に干渉し、夢遊病者を夢にいられなくする。結果的にそれが夢遊病者を目覚めさせる方法だと認識しているものが多い。目覚めた人達が現実でどうなるかも知らずに。ただ欲望のままに壊し、嫌がる夢遊病者に恐怖を与え、暴力をふるい、世界を壊してしまう。中にはいくつの夢を壊せたか競うものまでいる。

 果たしてドリームハンター達は理解しているのだろうか?

 公にはされていないが、夢遊病の研究をしている両親から、以前教えてもらったことがある。夢を壊されて目覚めた夢遊病患者が、少なからず自殺していることを。現実に戻って理解するのは楽しい夢を見ていたという記憶と、自分の周囲に誰もいない何もないという夢の中とはかけ離れた現実。時折、夢の中で見ていたことを覚えているものもいるというが、多くの人達は「ずっと夢を見ていたかった」と目覚めた現実に愕然とする。いつ目覚めるかもわからない人の席を残しておく会社はないらしく、仕事は実質解雇となる。ずっとただ眠っているだけの夢遊病者を待ち続けられる家族も少ないらしく、大抵が同じように夢遊病になるか、見捨てて新しい生活を得るかするらしい。夢の核とはその人の生きる源。いわゆる生きるための気力だ。夢を壊されて目覚めた人達は、強い虚無感に苛まれる。大切な何かを失ったという思いが常にあり、心に穴がぽっかりと空いたような感覚に苦しめられ、夢想する。仕事も家族も失い、夢さえも見れなくなった元夢遊病者は自然と自らの命を絶つという選択をとる。もし、この事実を知っていながら夢を壊し続けているのなら、それは人を殺すことと同じだ。

「まさか、そんな……」

「事実だ。現に俺は、あいつらが夢を壊すところを目撃している。それで不幸になった人も」

 けど、俺には全てのドリームハンターを責めることができない。あいつらの中には被害者も交じっているのだから。夢から目覚めたものがドリームハンターになる負の連鎖は、これからも被害者を作り続けるだろう。けれど、この先は悲しい結果にしかならないような気がしてならなかった。

「なんとかする方法はないの?」

「ある」

 ようするに夢を壊される前に逃げてしまえばいい。だが、逃げるといっても夢ではなく現実に。壊す夢がなくては、ドリームハンターは手も足も出ない。ただし、もう二度と幸せなだけの夢が見れなくてもいいという覚悟があればの話だ。夢遊病から目覚めたものが夢遊病になることはない。現実と同じようにどんなに望んでも、楽しかったあの頃に戻ることはできないのだ。その点で言えば、現実と夢は一緒かもしれない。だから夢に想いをはせて、命を絶つ理由も分からなくはない。実際俺も心の支えがなければ、同じ道を辿っていたかもしれない。現実から逃げて夢遊病になったのに、夢さえも見られなくなったなら、どちらにせよ地獄でしかない。

「じゃあ、ドリームハンターに目をつけられたら終わりなんだ……」

 終わりと表現するということは、彼女は自らの意志で現実に戻るという選択をするつもりはないのだろう。当然の結果だと思う。誰だって幸せな夢と厳しい現実、どちらを選ぶのか迫られたら、幸せなほうを選ぶに決まっている。例えそれが死に向かっているのだとしても。得られるかどうかもわからない幸せより、手に入る偽りの幸せ。

「教えてくれてありがとう。お礼に……そうね、この絵をあげるわ」

 笑顔で感謝の意を示してくれるが、なぜだろう?

 まるで何かを諦めて受け入れた末期のような表情だった。

「大切なものだろ? そんなのもらえないよ」

 現実では力作、夢では核となっている二つの意味をこめて断った。夢遊病を構成している元となっているのは間違いなく、あの桜の絵とこの白い絵だ。である以上、それをここから動かしてしまえば、この世界はなくなってしまうので無理なこと。現実に戻るという選択を取らないことに決めた彼女が目覚めることはないので、現実で受け取ることも不可能。もし目覚めたとしても起きるのは死ぬ間際だろうから、夢であっても現実であっても受け取ることはできないだろう。どう考えても、どうすることもできないことだった。

「それでも渡すわ。……必ず」

「希望を抱かずに待ってるよ」

 俺はこの日絵画の少女と約束をした。叶えられることのない約束を。夢の中で約束をしたのは幼馴夢との『今度は現実で遊ぼうね』という約束以来初めてだった。どうしてこう、俺がする約束ってのは叶えられないものばかりなのだろう。結局、幼馴夢との約束は彼女が夢から出られなくなったことで、叶えられることはなかった。そして恐らく、今回の約束も叶うことはないだろう。

「じゃあ、そろそろ帰るよ」

「帰るって、どこに?」

「現実に……」

 なんて辛い言葉だろう。本来戻るべき場所であり、間違っていないはずなのに、なんでこんなに暗い気持ちになってしまうのだろう。

 俺は今も、心のどこかで夢遊病になることを期待しているのだろうか?

 幸せな夢を見たまま過ごす日々を望んでいるのだろうか?

 幼馴夢も委員長もいない現実に戻るのはなんて辛いんだろう。だけど帰らないわけにはいかない。二人と違って俺にそんな資格はないし、叶うはずのないことだから。彼女の前で急に消えるのも失礼な気がしたので、出入り口となっているこの世界の扉へゆっくりとだが、着実に歩みを進める。気が向いたらまた様子を見に来てもいいかもしれない。どうせ彼女はずっとここにいるのだろうから。扉を通って夢から出ようとしたところで、誰かが入ってきた。

「ようやく会えた」

 どうせこの夢の登場人物の一人だろうと思い、特に気にせず通り過ぎようとしていた足が止まる。肩くらいまで伸びた茶色い髪に、俺よりも10cm近く低い身長。年齢は同じか少し上くらいの女性で、顔立ちが整っており一見すると心奪われそうになる。しかし、まるで獲物を狙う狩人のように、ギラギラとした危ない光を発する目が、否応なしに心の内の不安をあおる。声に反応したのか顔を認識したのかどちらにせよ、俺の動きを止めるには十分だった。だってこいつは、俺が夢の中でもっとも会いたくない人物、ドリームハンターの萩野未希はぎの みきだったのだから。現実で唯一会うと安心する相手。それは喜びからではない。こいつがドリームハンターだからこそ、壊れることのない現実の方がどちらかといえば安堵する。ただ、それだけ。実際のところはもっとも会いたくない相手だった。例えそれが夢であっても現実であっても。

「まったく、今までどこに行ってたのよ。それこそ夢の中を探し歩いたわ」

 夢遊病者を起こしながらねと、にやけた顔で言っているのは夢を壊すのを楽しんでいるからなのか、俺に会えたことに対する喜びなのかわからなかった。ただ一つわかっていることは、お互いが相手に嫌悪感を抱いているということ。こいつは俺が夢の中を行き来できるくせに誰も起こそうとしないのを嫌っているし、俺は夢を壊すという行為を相手が楽しんでいるのが我慢できなかった。

「お前がいないところだよ」

「まったく、こっちの気も知らないで。あなたに会うためにこっちは一日の大半を睡眠に費やしてるのよ。おかげで使いすぎて枕が頭の形にへこんじゃったわ」

 枕を変えたせいで、ここまで来るのに時間がかかったとドリームハンターがぼやく。

「だから代わりのものを使っているけど、枕が変わるとあたし眠れないのよね」

 新しいのを買わなくちゃと、ブツブツと独り言をいっている。

「だけど、それでも無理して眠ってよかったわ。あなたに会えたんだもの」

「できることなら俺は二度と夢で会いたくなかったよ」

「そう言わないでよ。あたしを夢から起こした張本人のくせに」

「……」

 黙っていることしかできなかった。違うと否定したかったが、結果的にそうなってしまったのだから何も言い返せない。ただ俺は自分の意志で行ったものではない、と言い訳をしたかった。

「どういうこと?」

 ドリームハンターに答えたのは俺ではなく別の声だった。

「あなたがこの夢の主ね……」

 質問には答えず、値踏みするように上から下へと絵画の少女を眺めるドリームハンター。横柄な態度に夢の主もムッとした表情をしている。一通りねめつけると、ようやくドリームハンターは質問に答えた。

「言葉通りよ。こいつのせいであたしは夢遊病から目覚めたの」

「じゃあ、あなたは夢を壊したの?」

 責めるような眼差し。あれだけのことを言っておいて、結局は自分も同じ行為をしてきたのかと問うように。

「いや」

 先ほどとは違い、すぐに返事をすることができた。もしかしたら、少し声が震えていたかもしれない。だが、はっきりと否定する。目の前のドリームハンターを目覚めさせてしまったのは確かに俺だが、決してそれはお互いに望んだものではなかった。結局夢から目覚めたドリームハンターは俺を憎むしかなかったし、俺自身どうすればいいかわからず逃げるしかなかった。当初は仕返しに俺の夢を壊そうと、やっきになっていたドリームハンターだったが、俺が人から人の夢へ行き来しているだけで、自分の夢を見ないことを知ると、行く先々の人の夢を壊すようになった。

 正直これはこたえた。こんなことをされるのなら、自分の夢を壊されるほうがましだとさえ思った。なすすべなく夢を破壊される人達が、自分に救いを求めてくる。それはそうだ。ドリームハンターが手を下すことができるのは虚偽のものだけ。夢の中にあっても、本物である夢の主本人には傷一つ作ることさえできない。だから幸福の塊である居場所を奪うのだ。偽物が消えていき、結局残るのは夢の主とドリームハンター、そして俺の三人だけ。俺も本物だから危害を加えられることはないし、消えることもない。だが、残った中で夢の主が救いを求めるとしたら、当然俺しかいない。けど俺にできることなんて、何一つない。夢を見ているのは当人なので、部外者の俺には直すことなんてできないし、かといってドリームハンターを止めても、一時しのぎにしかならない。現実に帰る方法だけは知っていたので、助けるために夢の主を連れ出したこともある。結局現実で幸せになれず、救うことはできなかったが。だから俺は夢遊病者の夢に行っても、何もしないという選択をした。どちらにせよ、救うことなんてできないから。

「あなたはいつも逃げ出してばかりね。せいぜい今日も見殺しにしていけばいいわ」

 久しぶりに俺に会い、憎しみをぶつけることができると喜んでいるドリームハンターに、彼女を見逃すという選択肢はないのだろう。おもむろに一枚の絵を持ったかと思うと、床にたたきつけた。

「なっ!?」

 驚く絵画の少女を無視して絵を踏みつけ、無残にも森の風景画に穴があく。

「なんてことするのよ!」

 彼女の叫びに聞く耳を持たず、観賞していた人々をなぐりつけ、壁に穴をあけ、絵を破いていく。ドリームハンターによる夢の終わりの始まりだった。

 ああ、またこの構図だ。力あるものによる、一方的な破壊行為。必死に止めようとする夢の主と、抵抗のかいなく進む破壊。それも当然の結果だ。お互いに相手に触れることができないのでは、抵抗にもならない。夢の主はドリームハンターに触れることができないので、見ているしかない。何度か見てきた光景に、目を覆って逃げ出したくなる。ただ毎回逃げ回っていたわけじゃない。ドリームハンターの行動を阻止しようとしたこともあり、実際退けたこともあったが結局守り切れなかった。

 だからここで俺が止めに入っても、絵画の少女の夢が壊れることに変わりはない。頭では分かっていても、心が納得できない。いつもと同じように目を背けて逃げてしまおうか、という考えが脳裏をよぎる。だが、例え叶うことのない約束であっても、その相手をこのまま見殺しにしてしまってもよいのだろうか。またあの時と同じように、後悔するのではないか。逃げ出したい気持ちと助けたい気持ちに板挟みとなり、結局身動きの取れないまま立ち尽くしてしまう。破壊行為は動くことのできない俺とは反対に、よどみなく続いていく。だが、幸いなことに白い絵に危害を加えようとする様子は今のところなかった。あえてわざと残しているのだろうかとも考えたが、手当たり次第目についた絵を壊している様子からしてどうやら違うようだ。白い絵はドリームハンターからすると、今のところ絵として認識されていないだけ。色彩の無い絵は、絵としての存在価値を認められていなかった。だからこそ今のところは無傷で飾られているが、それも時間の問題。いつドリームハンターが気付き、破壊されてもおかしくはない。何とかしなければ、だが夢の主の抵抗は無意味。だとすると、俺が何かしらの関与をするしかない。この場で彼女を救うことができるのは、自分しかいないのだ……なんてことを以前までの自分なら考えていた。今はそれが、どれほど無意味なものか痛感している。

「やめて……やめてよっ!」

 だから俺はこれまで見なかったことにして逃げ続けていたし、救おうとすらしなかった。このままここにいても辛い思いをするだけで、できることなんて何一つない。なにより絵画の少女自身がそれを望んでいない。できることなんてないのだから、目を背けて現実へと戻るべきだった。どうするべきかわかっているのに、足が動かなかった。

「さっさと目覚めなさい。現実であなたの作品を待っている人がいるわ」

「誰が待っていようと関係ないっ! 絵描きはここにいたいの」

 破壊行為を進めるドリームハンターが持った一つの絵に目が釘付けになる。もちろん他の飾られている絵と同じく、描いたものの熱意が伝わってくる描き込まれた綺麗なしだれ桜の絵だというのも理由の一つだが。それ以上に彼女の望む世界を構成している白紙の絵と対をなす夢の核の片割れだとわかっていたからだった。あれだけは壊されてはいけないと声を出そうとした時、ドリームハンターがこちらに目を向ける。「これか」とでも言いたげにドリームハンターの顔が狂喜にゆがむ。

「それだけはやめてっ!」

 絵画の少女の叫びも空しく、ドリームハンターは高々と絵を掲げると、壁に思い切り打ち付けた。ベキッという音とともに、中央部から折り曲がったかと思うと、絵はガラスが砕け散るような音をあたりに響かせ、霧のように消滅した。

「あと一つ」

 まさに獲物を狙う狩人のように目をぎらつかせ、最後の核を探すドリームハンター。文字通り夢を狩る姿は、とてもじゃないが、世間でいうよな夢遊病者の救世主には見えなかった。

「もしかして――」

 とうとう、絵画の少女のもう一つの夢の核である白紙の絵が、ドリームハンターの目に留まる。気付かれてしまった。夢遊病であり続けるために必要なものには、過去の夢と未来の夢と呼んでいる核となるものが二つある。幸せな夢を見るためには、過去も未来もなくてはならない。片方だけなら、まだ時間が経てばいずれ直る。過去の積み重ねがあるから未来があり、未来を見るには過去が必要。だが二つとも壊されてしまえば、夢を見ることはできない。それは夢でも現実でも同じことだ。

 夢にいたいと願う絵画の少女の姿が、以前の幼馴夢の姿とどこか重なる。もう耐えられなかった。彼女の姿は俺自身の姿でもあったのだから。本当はなんとか三人で過ごす夢を守りたかった。だが、あの時はどのようにすればいいのかその術を知らなかった。だけど、今は違う。壊されたくない夢があり、俺は守る方法を知っている。過去の俺のようにやめるよう叫ぶだけで、どうすることもできない絵画の少女を救うことができるのだ。夢の核が一つ壊された今なら、彼女も心変わりしたかもしれない。ここにいればどのような結果になるかわかったはずだ。ドリームハンターから逃げるために、夢を守るために、二度とあんな思いをしないために、彼女には現実に帰る道を選んで欲しかった。

「現実へ戻りたいと心から願うんだっ! そうすれば夢は壊されない」

 気が付けば逃げ出さないどころか、絵画の少女を逃がそうと叫んでいた。ただ三年前救えなかった夢を助けたかった。

「いいの」

 だが、彼女は拒んだ。夢見たいと願いながらも、現実で夢見ることを拒絶した。

「あ……」

 差し伸べた手は優しく、それでいて頑なに振り払われた。嫌悪や取り乱しての行為ではないぶん、余計心が痛んだ。そして白紙の絵は無残にも破壊され、絵画の少女の夢は終わりを迎えた。大事な核を失った夢は、幸せな世界を維持することができなくなり、ひび割れていく。ビシッビシッと無数の亀裂が上下左右様々な場所に走り、もう崩壊寸前だった。最期を悟った絵画の少女と目が合う。彼女の姿が薄れていく。けど、死ぬわけではない。ただ、目が覚めるのだ。それがこんなにも悲しく、こんなにも恐ろしい。彼女は果たして、現実で生き続けられるだろうか。粉々になり消滅する夢の中「あの絵は……必ず渡すから」という言葉を最後に、彼女の姿はスーっと薄れて消え、現実へと帰っていった。目覚めた彼女を襲うのは、どうしようもない喪失感だろう。今までの楽しかった夢を忘れたまま、思い出せないことに苦しむのだろう。例え夢での出来事を全て忘れてしまっても、俺は覚えているから、俺だけはみんなの願いを、望んだ幸せを忘れないから。だから安心して現実へ戻ってくれ。そして、どうか死なないでくれ。涙を流すことはなかったが、決して気分は晴れなかった。

「あはははははははははははははははははっ」

 対照的に晴れ晴れとした表情で、笑い続けているドリームハンター。もう狂っているようにしか見えない。実際どこかおかしいのだろう。俺があいつの夢を壊してしまった時に、壊れてしまったのだ。その結果が今に繋がっている。

「ざまぁみろっ! おまえのせいでこの夢は壊れたんだ!」

 夢が無くなったことで、ドリームハンターも留まることができず、絵画の少女のように姿が薄れていく。それは俺も同様だろう。ニタリという擬音がピッタリの満足そうな笑顔と、耳障りな高笑いを残して、ドリームハンターは現実へと戻っていった。


 まるで悪夢でも見ていたかのように、ハッとベッドの上で目が覚める。カーテンの隙間から差し込む朝日で、結構長い時間彼女の夢にいたことに気付く。まさに悪夢だった。これが現実であったことなら、どんなによかったか。だが、背中にびっしょりとかいた汗と乱れた呼吸、小刻みに震える体が、先ほどのことが夢であったことを証明している。夢である以上、絵画の少女が目を覚ましたことに変わりなかった。起きて以降、彼女の安否が気になったが、思いのほか簡単に絵画の少女の様子を知ることができた。その日、夢の中での会話を思い出し、テレビをつけてみるとワイドショーで大々的に放送されていたのだ。どうやら彼女の夢にドリームハンターが行ったことを、どこからかマスコミが嗅ぎつけたらしい。カメラを持った大勢の記者と、レポーターが彼女のいる病院に押し掛けていたのだ。押し寄せるテレビ関係者の姿に、最悪な目覚めをしたばかりの彼女を不憫に思う。だが、そのおかげで彼女の様子をすぐさま知ることができたのだから、俺としては複雑な気持ちだった。テレビの映像に元気な姿はなかった。目覚めてすぐ、絵画の少女は「自分の描いた白紙の絵を見たい」と一言いったらしい。焦点の定まらない目で、黙ったまま自分が最後に描いた絵を見つめている。

『ただ黙って自分の絵を見て欲しい』

 彼女の望んだ願いは、現実での自分を写したものとなってしまった。まるで魂が抜けたような瞳で、自分の作品を無言で眺めている。何度か同じような状態になった人を見たことがある。現実で生きる希望を失い、自らの手で生涯に幕を下ろしてしまった夢遊病者と同じ目だった。別れを告げるようにテレビの電源を消す。

「あの約束が叶うことはないんだな」

 決して叶うことのない夢。果たされることのない約束を憂いながら、俺は日々の日常へと戻って行った。

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