第12話 夢遊病の最期

 夢に着くと、目に入った光景は、何の変哲もないどこにでもある二階建ての白い一軒家だった。小さな庭があり、犬がいて、友達がいて、両親がいる。恐らく夢の主は、中心でそれらに囲まれて笑っている、あの小学校低学年くらいの女の子だろう。左目の下にある泣きぼくろが可愛らしかった。そばにはおそらく妹と思われる、顔つきの似た彼女より少し幼い感じの女の子がいた。ただ、姉とは違い右目の下に泣きぼくろがあるのが印象的だった。犬とじゃれ合い、友達と遊び、父親と自転車の練習をし、母親は焼いたお菓子をトレイにのせて持ってくる。なんてことない、ごくごく普通の幸せな家庭。ある意味最も幸せな光景を、俺は遠巻きに眺めていた。こういう夢にわざわざ介入する必要はない。あらぬ誤解や争いが起きるのが目に見えているからだ。恐らく出て行っても、夢の主は自分の世界の登場人物と考え、受け入れてはくれるだろう。だが、こういう幸せな輪の中に、見知らぬ人間がいきなり入ってきたら誰だって警戒する。親しい人達と幸せを享受している時に、水を差されて良い顔をする人間はいないだろう。だから俺が取った選択としてはこれが正しい。正しかったはずだ。普段なら、すぐに立ち去っていた夢を、俺はジッと眺めていた。あの年でこんな夢を望むなんて、まるで『あいつ』みたいだった。

 違和感に気付いたのはすぐだった。先ほどとは違い、何かが欠けているような気がしたのだ。夢の主である少女自身は気付いていないようだが、外から眺めているからこそ俺には何かが足りないのがわかった。そして、違和感に気付く。あそこにあったのはなんだっただろう。しばし考え、ようやくあの子の母親がお菓子を乗せてきたトレイが無くなっていることがわかった。別にただ単に俺が視線を外した隙に、見えないところに置いたのかもしれない。だが、女の子の母親は先ほどからずっとこの場にいて、それをずっと眺めていたのだ、何か動きがあったら気付かないはずがない。

 それともただの気のせいだろうか?

 実際はトレイにのせてきたのではなく、皿ごと持ってきていたのだろうか?

 女の子自身が今は必要ない者として夢から消したのだろうか?

 なんとなく心にしこりが残った俺は、しばらく注意して見てみる。そして今度はハッキリと目撃する。先ほど女の子が父親と共に練習していた自転車が消える瞬間を。まるで霞となって景色に溶け込むように、段々と色が薄くなり静かに夢の世界から姿を消した。こんなにも露骨に消えてしまうものだろうか。

 人の夢は十人十色、女の子の夢が場面転換する際に、元からこのように物が無くなるのなら問題ないが、果たして女の子自身は気が付いているのだろうか?

 音もなく消えた自転車に気が付いた様子もなく、女の子は今も家族、友人と過ごしている。その間にも徐々に霧散していくものは増えるばかりだった。お菓子を乗せていた皿が消え、遊び道具が消え、犬小屋が消え、犬が消えたところで女の子も違和感に気付いた。「……ライアは?」

 恐らく犬の名前だろう。辺りを見渡し、先ほどまで犬小屋と犬が存在したところを凝視して周囲に尋ねる。

「どうしたんだい? 犬なんて飼っていなかったじゃないか」

 返答する父親の声音は優しかったが、内容は残酷だった。

「ねぇねぇ、それよりつぎはなにしてあそぶ?」

 先ほどまで、一緒に過ごしていたはずの犬が消えたというのに、周囲はお構いなしだった。

「なに……いってるの? いたよ! さっきまでライアはあそこにいたよ!」

 声を荒げる少女。しかし、周囲はつい先ほどまで同じ時間を共有していたにも拘わらず、いなかったものとして扱っている。少女が感情を露わにしているのに他のことを薦めたり、違う遊びに誘ったり、と明らかに女の子を取り巻く人々はおかしかった。一人で抗議している最中、ついに夢の主は決定的瞬間を目撃してしまう。一つずつ自分の周囲のものが消滅し始めたのだ。

「なんで……なんでなんでなんで! きえないでよ!」

 願いは届くことなく徐々に、しかし確実に無くなっていく夢の世界。先ほどまで声をかけていた人達も、取り乱す女の子の側に寄り添いながらその光景をただ黙って見ていた。家も庭も遊び道具も消え、残るは女の子の周囲にいる人間だけになった。先ほどまで明るかった太陽も空も雲も、消えて辺り一面真っ白になる。そして白一色だった空間が段々と黒く染まり始め、しまいにはまるで瞳を閉じたかのように真っ暗になった。ただ一つ違うのは、女の子の周囲だけがぼんやりと光を放っているため、闇に紛れて俺の姿が向こう見えなくなったこととは反対に、こちらからは向こうの姿がはっきりと見えていた。これまでいくつもの他人の夢に入ってきたが、こんな出来事に遭遇するのは初めてだった。どのような行動をすればいいのか見当もつかず、ただ事の成り行きを眺めるしかない。

「どうして……どうしてきえちゃうの……きえてほしくなんてなかったのに……」

 願いも虚しく本来あるはずだったものを失い、呆然自失といった様子で女の子はくずおれる。いや、本来であればないものが無くなったのだからこれが正しい。現実であるべきものが夢になく、現実でないはずのものが夢であった。望んでいたものを自分の意思に関係なく失った女の子を家族、友人達は憐れむかのように見つめていた。

 こんなことになったのはドリームハンターの仕業だろうか?

 それにしてはドリームハンターらしき人物の姿がない。あいつらは他人の夢の中に入って壊すことで、夢の主の居場所をなくし、現実へと追いやるのだから。

 では、夢の移り変わりだろうか?

 けど、女の子自身が望んでいないのに、勝手に夢の移り変わりが起こるものなのだろうか?

 様々な原因を考えるが、それらしきものに行き当たらない。こんなことは今まで他人の夢に入ってきて初めてだった。もしかしたら幼馴夢が現実に帰るヒントは、ここにあるのではないか。半ば諦めかけていた期待がこみ上げてくる。先の展開を見逃すまいと、未だ呆けた様子の女の子を、俺はジッと見つめていた。

 そして、変化は起きた。まるで女の子に追い打ちをかけるかのように。周囲にいる一人が先ほどの建物や犬と同じように徐々に消え始めたのだ。

「そんな……」

 呆然としていた少女の瞳にようやく感情がこもる。だけどそれは悲しみの色だった。

「やだ……やだよ。もっとここに、ずっとここに、みんなといっしょにいたいよ!」

 消えゆく友人に思いのたけを込めて訴えるが、決して届くことはない。女の子の夢なのに、自身の意思とは関係なく消えていく。まるでもう、女の子の願いを叶えるだけの力が無くなってしまったかのようだった。そこでようやく俺は理解する。この現象はドリームハンターのせいでも、夢の移り変わりが原因でもない。

 夢の終わりなのだ。恐らく夢の主である女の子は、今まさに現実で力尽きようとしているのだ。どうりで見たことがないわけだ。俺はこれまでそういう夢を意図的に避けるようにしてきたのだから。どうせ長い時間を過ごすなら、悲しい夢より楽しい夢の方がいい。だから今まで、夢遊病が原因で死を迎える人の夢に遭遇することはなかったし、まずそんな人がいなかった。物心ついたころから他人の夢を見てきた中で、今日初めてこの場面に遭遇したのは何かの縁だったのかもしれない。

 必死に目の前の光景へと講義する夢の主を、消えゆく友人はただただ見つめるだけ。その瞳に映る感情は憐れみか、はたまた長い、永久とさえ思える夢から解放される喜びか。はたから眺めている俺には区別がつかなかった。

 ただ一つだけわかっているのは、確実に一人また一人と、女の子の大切な人が消えていくという事実。まるで毒がジワリジワリと体を侵すかのように、花弁を一枚一枚むしりとるかのように、ゆっくりとだが確実に夢の終わりへと向かっている。眺めている間にも友人はいなくなっていき、今はもう残っているのは両親と、よく似た顔つきの妹だけだった。少女にできるせめてもの抵抗だろう。必死に消えかかっている妹にしがみつき、消えないでと泣き叫ぶ。だが、悲痛な声を受け入れてくれる優しい夢はもういない。

「おきたくない……パパとママがしんじゃっていないなんてやだよ……」

 あの子が夢の中に来た理由はそれか。大切な物を現実で失ったから、夢の中で求めた。夢遊病になる動機として最もありがちだが、最も多いもの。大人でも求めてしまうものを、年端もいかないあの少女がどうして我慢できようか。俺にはこの夢が少女にとって拠り所であると同時に、認めたくない現実、変えようのない不幸な事実への女の子なりの抗議のように思えた。だが、そんな訴えが受け入れられることもなければ、起きてしまった現実を変えようもない。無常にも妹は消え、残るは過去の夢と未来の夢を持つ両親のみとなる。いかにも親らしく、自分の子供に優しく微笑んでいるが、むしろその顔は今の女の子にとっては悲しいほどに残酷だった。大切なものが何一つなくなり、一人取り残されてしまう恐怖に女の子は、

「わたしも……わたしもいっしょにつれていってよ!」

 同じように消えることを望んだ。一人取り残されるくらいなら、大切なものと大切な人達と大切だった時間と共に消えたい。この場合は死にたいということなのだろう。そう思ってしまうのも、自然な流れなのかもしれない。だが、夢はそれを許しはしない。これまでの自分の罪を突き付けるように、あるいは最後に現実の非情さを教えるかのように、女の子の意思とは関係なく、消滅が進んでいく。どんなに切実に望んでも、女の子の最後の願いが受け入れられることはなかっただろう。

 だって、最初からこの世界に本物は、女の子しかないのだから。何一つ真実のものがないのに、望んだ願いが聞き届けられるはずもない。むしろ、これまでここで幸せな時間を過ごしていたことこそが、願いの表れでもあった。もうすでに願いは叶っているのだから、後は終わりを迎えるだけ。今まさに大切な人が目の前で消えようとしている女の子に、そんなことなどわかるはずもなく、ついに両親が消える瞬間が訪れる。時が経てばいずれ跡形もなく消えてしまう雪のように、これまで確かに存在していた女の子の両親は、気がつけば向こう側が透けて見えるくらいになってしまっていた。そこで少女は気付く。自分の両親の中に光輝く玉と、真っ暗な球があることに。だが、これが何を示すものか理解しているのは俺だけだろう。少女がわかるのは、もう幸せな夢を見ることができないということだけ。薄れゆく両親はまもなく、雪解けのように気付けばそこにあったのかどうかも分からないほどに跡形もなくなってしまうだろう。絶対に自分の側を離れないようにと、精一杯の力で両親に抱きついていた少女が急に前のめりに倒れる。

「あぅっ!」

 急いで起き上がった少女は、まだ両親がいる光景に一安心すると同時に、いくらすがりつこうとも、もう触れることすら叶わない事実に愕然とする。

 なんて……残酷な夢だろう。いや、もう夢といっていいのかすらわからない。すでに形を成すことができず、消えようとしているのだから。ただ、とても悲しい結末を迎えるということだけは分かった。

「うわああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん! い、いやだよ! わたっ、わたしもいっしょにつれていってよ!」

 すがりつくこともできず、立ち上がる気力さえもなくなった女の子は、膝を折って泣いて訴える。たった一つの夢遊病の核が光る闇の中、少女の泣き声は虚しく響くだけだった。俺は掛ける言葉が見つからず、ただその光景を黙って眺めている。今更行ったところで、女の子を余計混乱させるだけだと頭では自分を納得させようとするが、実際心の中では単に怯えていただけだった。もしここで女の子の前に姿を現し、助けを求められてもこの状況を打開する術が今の自分にはない。「じゃあ、なんできたの」と責められるのではないかと想像すると、怖くて一歩も動けなかった。突っ立って見ているだけなら、自分が行っていることは、女の子の両親と何ら変わりないのではないか。

 唯一違うところは女の子にとって、自分はこれまで知り合いでもなければ、何の関わりもない。今日初めて夢の中で、しかも俺だけが一方的に、女の子の行く末を眺めているだけの関係。助ける義理もなければ救う術もない。すぐにでも、黙って背を向けて見なかったことにして、ここから立ち去ればいいのになぜか俺の足は動かなかった。もう女の子の夢には、終わり以外何も残されてはいなかった。二つの夢遊病の核にひびが入ったかと思うと粉々に割れてしまう。偽りの両親の優しさか、それとも単に夢であるからか、割れた破片が少女を傷つけるようなことはなかった。今は両親の残滓が残っているが、それもまもなく消える。泣きじゃくる少女と偽物の両親、そして傍観者の俺。目を凝らさなければ視認することが難しくなっていた女の子の両親は、最後の別れを惜しむでもなく、手を差し伸べるわけでもなく、ただ突っ立って自分の娘を見つめたまま、粉々になった夢の残骸と一緒に跡形もなく消えていった。

「うあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」

 辺り一面真っ暗になる中、少女の泣き声だけが俺の耳に届いていた。もがくことも、あがくことも、最終的には夢見ることさえもできずに女の子の夢は終わりを告げた。


 気が付いたら俺は、普段夢の回廊と呼んでいる場所に立っていた。先が見通せないほど暗い道が前後に続き、両脇から頭上にかけて道を照らすように数多の夢が瞬いている。これほどの規模の夢の回廊は初めて見る。恐らく夢遊病になってから、軽く五年は経過しているだろう。少女の泣き声がいまだに聞こえるのにも関わらず、姿が見えないことから、どこか別の夢にいるのだろう。果たして俺がいるところから前にいるのか、後ろにいるのか、どれだけ離れているのか皆目見当がつかない。今まで女の子がいた夢は終わりを迎えてしまったが、ここにはまだいくつも夢が残っていた。そう考えれば、あまり悲観する必要はないのかもしれない。確かに女の子が大切にしていた夢は終わってしまったが、現実の人間がいくつもの願望を抱くように夢も一つだけではない。今度は違う夢に入り直して、違う幸せを甘受すればいいのだ。ここで過ごしてきた時間は俺なんかより、女の子の方が断然長いのだから、哀しみが収まれば自然と次の夢へと移っていくだろう。核が壊れてしまった今、ここがどれだけの時間残っているかわからないが、これだけの数があれば息を引き取る瞬間まではきっともつだろう。幸せな夢を見たまま、死を迎えることができるだろうと淡い期待を抱いていた。なぜなら女の子が辿る先は、幼馴夢が歩む可能性のある道なのだから。だが、楽観したとおりにはならなかった。

「「あ……」」

 俺から最も離れたところにある光を発していた夢が、徐々に光陵を弱めていく。まるで蛍が力尽きる寸前のように、命の灯が生きる力を失っていく。思わず漏れてしまった声は俺のものだったのか、それとも女の子のものだったのか。恐らく女の子も少なからず安心していたのだろう。大切な輝きを一つ失ったが、まだ他にいくつものきらめきがあったことで、泣きながらも光に慰められていた気持ちになっていたのだろう。

「こんなのひどいよ……」

 絞り出すような小さな呟き。だが、少女の悲しい思いは、はっきりと感じ取れた。一つまた一つと消えゆく夢に、もう泣き叫んで訴える気力もなくなってしまったのだろう。遙か先の夢から女の子が姿を現す。夢を追いかけるように呆然としたまま少女が歩いてくる。女の子が歩みを進める毎に近くの夢がどんどん消えていく。まるで追うものから逃げるかのように。最初は一つだったのが、二つに増え、四つとなり、ねずみ算式に星の数ほどあった夢が次々と消滅していく。優しい偽りを求める少女は、まるで光に誘われるようにまだ夢のある俺の方へと近づいてきた。

「っ!?」

 咄嗟に身を隠してしまった。幸か不幸か、光が消えたことで生まれた闇にまぎれることで、少女に見つからずに済んだ。なぜこのような行動に出たのかは、自分でもわからない。ただ救いもなく希望も失われていく中で、女の子が俺というイレギュラーな存在に出会ったとき、なんと言われるのか想像すると怖くてたまらなかった。まだ逆恨みで罵倒を浴びせられるのならいい。どうして消えてしまうのかとすがりつかれてもいい。……だが、もしも助けを求められたら。俺が女の子をここから救い出す方法なんてありはしない。どうしたって、俺にはそんなことはできないのだ。俺は助けるどころか、すでに三年前に一人の少女を夢の中に閉じ込める原因を作ってしまったのだから。目に映った少女の瞳に力はなく、命の鼓動が止まるより先に、まるで魂が抜けてしまったかのように呆然自失としていた。もう先ほどまで笑顔だった女の子の面影はなく、佇まいはまるで幽鬼ようだ。

「……」

 彷徨う幽鬼は光に近づいては逃げられ、新たな光を求めて再び歩き出すという行動を繰り返していた。延々と同じことをしていた少女だったが、五回繰り返したあたりだろうか、もう先ほどまで辺り一面に星の数ほど輝いていた夢はほとんどなくなり、すでに最後の一つとなっていた。結局、再び夢見ることも叶わずに全ての夢が消えてしまう。暗闇に紛れて少女の姿も見えなくなり、

「……どうしていっしょにつれていってくれないの」

 という悲しい呟きだけが耳に届いた。夢の回廊が闇に包まれてすぐ、自分の意識が海の底から浮上するように現実へと戻ることを自覚する。


 目覚めると部屋のベッドの上だった。見慣れた天井、眠りやすさを重視して購入した六角脳枕とまるで雲の上で寝てるような寝心地の浮圧敷布団が、嫌でも先ほどのことが夢であったことを意識させる。

 女の子は結局どうなってしまったのだろうか?

 なんで夢は主が息を引き取る前に、全て消えてしまったのだろうか?

 なぜ女の子はもう一度夢見ることが叶わなかったのだろうか?

 自分の取った行動は果たしてあれで正しかったのだろうか?

 次々と疑問が浮かんでは、答えが出ずに消えていく。こんなふうに夢の在り方について悩んだのは初めてかもしれない。気が付けば、普段なら必ず二度寝をしているはずが、ベッドに横になったまま三十分も時間が過ぎていた。といっても最近の俺は、眠くてもあまり眠れないので、目を瞑ってゴロゴロしていることが多いのだが。ボーッとしていたせいか、結構いい時間になっていたが、今から起きて準備をすれば遅刻はせずに済みそうだった。少し急げば、テレビを見ながら朝食を摂ることもできそうだ。

「本当、健康的になったよな」

 以前の俺であれば、ありえないことばかりだった。睡眠を何より重視するから二度寝をして当たり前、遅刻をして当たり前、朝食を抜くのも当たり前。皮肉な話だ。口うるさく言う委員長がいるときは何一つできないくせに、当人がいなくなったら実行できるようになるなんてな。

 頭をすっきりさせるために顔を洗い、制服に着替えて、身支度を整えると昨日買っておいたパンをトースターへ突っ込んで焼き上げる。本来であれば、朝食を摂ることはまれで、食べたとしても買いだめしている栄養食しかつままないのだが、ここ最近朝早く目が覚めるため(というか熟睡できない)パンを買い置きしているくらいだ。まさか、まともに食事をとる日が来ようとは、少し前まで夢にも思わなかった。以前も食パンを買い置きしていたことがあったが、睡眠を優先するあまり食べなかったせいで、いつの間にかカビが生えてしまった。それが今ではカビが生えるどころか、きちんと焼いてから食べることが多い。焼き上がった食パンと牛乳を持ってテーブルに着くと、適当にテレビをつけた。ぼんやりとニュースを眺めながら、パンへとかじりつく。味気ない食事をしていると、あるニュースが目に留まる。八年前に交通事故に会い、目の前で両親が死んだところを目撃したため夢遊病になったという当時八歳の少女が今朝、息を引き取ったという内容のニュースだった。普段であれば夢遊病に関係するニュースは、幼馴夢のことを思い出すのですぐにチャンネルをまわしてしまう。現に今もそうしようとしたのだが、リモコンを持ってボタンを押そうとしたところで、ある一言がテレビから発せられた。

「『……ライアは?』いつものようにお見舞いをしていたら、急に寝言でそんなことを言ったんです。これまで一度もなかったから、そりゃもうびっくりして」

 今まさにチャンネルをまわそうとしていた俺の指は、まるで時間が止まったかのように動かなくなった。「そんな馬鹿な」と思いながらも、食い入るようにテレビを見つめる。画面では女の子が息を引き取る際、側にいた親戚であろう年配の女性がインタビューに答えていた。カメラの前で記者からの質問に応じられないほど泣きじゃくっている、亡くなった少女の妹は俺と同じくらいの年だった。涙を拭うたびに見える姉とは反対の位置にある右目の下の泣きぼくろが印象的だった。夢遊病が世界的に流行している昨今、一人の夢遊病患者について報道することはまずありえない。にも拘わらず報道陣が集まった理由は、つい今しがた息を引き取った女の子が、最初期に夢遊病になった人物だったからだ。

「一瞬だけ目を覚ましたあの子は、息を引き取る寸前『どうしていっしょにつれていってくれないの』と涙ながらに言っていました」

 女の子が眠り続けていた期間は八年。幸か不幸か、ドリームハンターに起こされることなく、幸せな夢を見続けた。このニュースからまもなく、夢遊病患者が現実で過ごした期間以上に眠り続けた場合、死ぬ可能性があると発表された。

 親戚と名乗る人物は真意が分からず首を捻るばかり。リポーターも含め、誰一人理解できないであろう女の子の末期の言葉。だけど、あの光景を目の当たりにしてきた俺だけは理解できていた。

「これが……夢遊病の最後か」

 女の子は願い、そして叶った。緩やかに、でも確実に終わりゆく世界、終わってしまった世界。悲しくも幸せな世界。女の子が望んだものはとても素敵な夢だった。どこにでもあり、誰もが羨む、幸せだった頃の夢。両親に再び会えること。自分以外全て偽物の夢だけど、願望だけは本物だった。俺が最初に入った夢。あの夢に、女の子の願いの全てが詰まっていたのだ。女の子はそれこそ残りの人生全てを捧げて、自分の願いを夢の中で叶えようとしたのだ。夢遊病とは、必ず願いが叶わずに命の灯が消える病気。そのことをこの時初めて実感した。最後の死ぬ寸前まで望んだ夢を見られるのなら、幸せなのではないか。これまではそう思っていた。だが、今は疑問が胸の中を支配する。死ぬ間際に全ての夢を失い、現実を目の当たりにする。果たしてそれは幸せなのだろうかと考える。必ずしも全員がそうなるとは限らない。だけど、可能性としてあるだけで、その事実は俺の中に重くのしかかった。これが現実であったなら、家族や友人に看取られて死ぬはずだったのに、夢の中ではたった一人で死んでいく。現実なら最初に逝くのに、夢では最後に逝く。これが夢遊病者の迎える最期の瞬間。そう思うと感慨深いものがあった。現実で最後まで大切な人達がいる幸せか、夢で最後は大切な人達がいない幸せか、選ぶとしたなら果たしてどちらが幸せなのだろう。

「さよなら、せめて幸せな夢を……」

 幸せな夢を見続けることが叶わなかった少女に、俺は今更ながらに別れと幸福が訪れるように願った。女の子と同じような結末を辿るかもしれない幼馴夢は、これからも夢を見続けていくのだろうか。なら、俺は必ず見つけ出さなければならない。彼女の夢を。

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