第10話 不安

 俺と委員長の関係なんて所詮ただのクラスメイト、特に何もせずとも放っておけばいい。このまま何もしなければ、俺はこれまで以上に快適な睡眠ライフを送ることができ、彼女は幸せな夢を見たままでいられる。何もしないことがお互いにとって一番なのだが、唯一気になっていることがあった。それは、委員長がいったいどのような夢を見ているのかということだ。幼馴夢と委員長が親友であることは、何度も夢の中で聞かされたので知っている。夢遊病になったきっかけも、幼馴夢がクラスメイトから忘れ去られていたことが原因であるとわかっている。じゃあ、委員長はいったいどんな夢を幸せだと思って見ているのだろうか。委員長との付き合いは幼馴夢が夢から出てこれなくなり、この町に引っ越してきてから知り合ったので二年半ほどだ。その間クラスメイトが夢遊病になる度に誰よりも悲しみ、心を痛めていた。夢遊病になったものは自由に望んだ夢を見続けられる。過去のものであっても、未来のものであっても、全てが本人の思うまま。

 果たして、彼女の願いである夢に幼馴夢はいるのだろうか。三年経った今も、夢に行くたびに委員長の話をする幼馴夢。それは彼女がこれまで過ごしてきた時間の中で、委員長が最も大きな割合を占めているということが容易にわかる。だが、自分が思っているからといって、相手も自分を思ってくれているとは限らない。現実はそんなに甘くない。この間のことが決定打となり、「みんな忘れてしまっているんだから自分ももういいか」と幼馴夢のことを諦めてしまった可能性もあるのだ。委員長に限ってそんなことはありえないと断言したいが、少なくとも俺は現実を信じることができなかった。だとしたら、委員長の望む夢には幼馴夢が存在しないかもしれない。だが、二人のこれまでの思いを知っている俺としては、委員長に幼馴夢のことを忘れて欲しくなかった。本来であれば自分のことを知っている相手のところに行こうとは考えないが、今回ばかりは心に引っかかっているものを取り除くために、夢遊病になった委員長の夢に自分の意志で足を運んだ。


 夜、眠りについた俺は委員長の夢に行きたいと願った。ただそれだけで俺は望んだ夢にやってこれた。正確にいえばまだ委員長の夢の中ではない。数多の夢に続く道。一筋の道が遠くの彼方まで続いており、障害になるようなものが何一つないにも関わらず、先が見えることはない。暗闇がずっと広がる先は本能的に道を進むのは危険だと感じさせる。反対に自分がいる両脇には野球ボールくらいの大きさのいくつかの光が、まるでここが安全な場所だと主張するかのように道を照らしている。

 ここは夢遊病になったものにしか存在しない、俺が夢の回廊と呼んでいるところだった。まだ委員長は夢遊病になったばかりだから数も数百個と少ないので、夢の回廊とまではいかない。せいぜい滑走路にある侵入灯のようで、夢の道がいいところだ。これが夢遊病でいる期間が長ければ長いほど徐々に光の数が増えていき、まるで幾千万の星々が自分の進む道を示してくれるまさに回廊と呼ぶにふさわしいものにまでなる。両親の夢遊病研究がまだ忙しくなかった頃。一度だけ連れていって貰った場所で、これと似たような光景を見たことがある。イルミネーションで作られた光の回廊と呼ばれるものとそっくりだったため、以来ここを夢の回廊と呼んでいる。

 道もまだ長くなく、夢の数も少ないが、願いが詰まった希望の光はいつ見ても綺麗だった。きっと夜空に浮かぶ星が目の前にあったとしたらこのような感じだろう。この光一つ一つの中に夢の主である委員長の夢があり、中で幸せな時間を過ごしている。俺が普段眠った際に見たり体験したりしていることも、この光の中の出来事なのだ。もちろん今ここから委員長が見ている夢に入ることもできるし、出ることもできる。これまでの経験から、この回廊に来ることができるのは、恐らく夢の主と俺の二人しかいない。夢遊病者を起こすことができるドリームハンターでさえくることはできない。ここはそれだけ特別な場所なのだ。

 今回、委員長の見ている夢の中ではなく、夢の回廊に来たのは委員長がどんな夢を見ているのかここから覗いて帰れば、彼女と顔を合わせることなく用事を済ますことができるからだ。覗き同然なので少し気が引けるが、せっかく幸せな夢を見ている委員長をわざわざ邪魔する必要もない。俺はただ、幼馴夢が委員長の願う夢にいることを確認して安心したいだけなのだ。委員長がいくつかあるうちのどの夢にいるのかなんとなくわかっていたが、あえて他の夢に目を通していく。これまで夢遊病になった人達が目覚め、学校に戻ってきた時の夢だろう、喜ぶ委員長の姿があった。知らない人物がほとんどだったが、恐らく過去に委員長の身近で夢遊病になった人達だろう、中には灰村隆の姿もあった。だが、何個か見ていくうちに真っ白な紙にインクを垂らした時のように、徐々に不安が胸に広がっていく。まさかと思いつつも、一つ一つ確認していくたびに紙が黒く染まっていく。どの夢を探しても、肝心の幼馴夢の姿がなかったのだ。まだ一応、今現在委員長のいる夢が残ってはいるが、幼馴夢がこんなにもいないものだろうか。過去親友であったのならば、どの夢にも委員長と喜ぶ幼馴夢の姿があってもいいはずなのに。まさか本当に委員長は幼馴夢のことをもうなんとも思っていないのだろうか。一抹の不安と期待を抱きながら、ようやく最後に委員長が今過ごしている夢へとやってきた。

 夢は下のほうにあったので道にあぐらをかき、緊張と不安で手に汗をかきながら、目を凝らして夢を眺める。そこは恐らくどこかの病院の一室だった。白を基調としたどこか無機質な部屋。テレビとお見舞い患者用の椅子が置かれ、部屋の中央にベッド、すぐ横にある机には花が飾ってある。だが、何よりも俺の目を引いたのはベッドに横たわった人物だった。やせ細った体に腕から延びる管、長く伸びた黒髪。そして夢の中で何度も会った人物の面影。間違いなく今まさにベッドの上で眠っているのは幼馴夢だった。彼女の手を握りしめ、早く目覚めるよう願う委員長の姿。祈りが通じたのか、まもなくまぶたを開け、委員長に「おはよう」とほほ笑む幼馴夢。起きた時の喜びようは、これまで見てきた夢と比較にならないほど大きかった。嬉しさでむせび泣き、理知的であまり感情にまかせて振る舞うことのない委員長が幼馴夢を抱きしめ、母にすがる子供のように涙を流した。

 委員長が望んだ夢には、ある病院のベッドでようやく長い眠りから覚醒した幼馴夢に歓喜する彼女……と、横で同じように涙を浮かべて喜ぶ俺がいた。当初、委員長の夢に幼馴夢がいたことで安心した俺だったが、その場で幸せそうに過ごす自分の姿に衝撃を受け、頭の中が真っ白になる。ほどなく正気に戻った俺の頭に真っ先に浮かんだのは、なぜ自分がいるのかという疑問だった。委員長は俺と幼馴夢が夢の中で顔なじみであることを知らない。だからこれは彼女が望んだ願望であることに変わりない。そうであるなら、ようするに委員長は俺と一緒に幼馴夢が目覚めることを喜びたいと思っているということだった。なぜ自分が選ばれたのか不思議でならなかった。普通に考えれば自分の親友が目覚める時に、相手と面識のない人物にいて欲しいはずはない。いるとするならば、委員長がこの間激昂した人物あたりがいるべき場所なのである。

 戸惑う俺をよそに委員長の幸せな夢は続いていく。何度かのお見舞いを繰り返し、点滴の管が取れ、痩せていた体に肉が付き、幼馴夢はベッドに起き上がって普通に会話できるまでになっていた。気が付けば、なぜだか俺は委員長の夢に手を伸ばしていた。このままだと夢に入ってしまい顔を合わせることになる。まずいと思っていたが、止めることができなかった。触れた途端、自分の体が吸い込まれるように夢の中へと入っていく。何度か経験した感覚。言い知れぬ浮揚感に身をゆだねていると、歪んでいた景色の焦点が徐々に定まり、病室のドアの前へとたどり着いた。

 なんで俺は委員長の夢に入ってきてしまったんだろう。本当は幼馴夢がいるのを確認したら帰るはずだったのに。もし委員長に見つかりでもしたら、俺が二人いることに大いに困惑するだろう。無用な混乱を招くことになるし、何より他人の夢の中を自由に移動できるという俺の能力を打ち明けなければいけなくなるだろう。今まで両親にさえ黙っていた自分の不思議な力。それは世間に知られれば、恐らく大変な問題に発展するであろと理解しているからである。もう目覚めることのない委員長にばれたところで問題はないかもしれないが、ドリームハンターのようなことを俺ができると勘違いした彼女に、幼馴夢を目覚めさせてくれと頼まれた場合困ったことになる。

「帰ろう」

 病室のドアを前に決意する。どう考えても、俺が委員長と顔を合わせたところでいいことなんて一つもなかった。現実に戻ろうとドアに背を向けて歩き出す。

「なにしてんのよ、信士!」

 委員長の怒鳴り声に足が止まる。

「お見舞いに鉢植え持ってくるなんて、寝付くって言われて縁起が悪いのよ!」

 一瞬見つかったのかとも思ったが、どうやら中にいる俺に対してだったらしい。寿命が縮みそうになるので驚かせないでほしい。

「え、そうなの?」

 再び歩き出そうとしたところで、聞き覚えのある女の子の声が耳に入り、足が動かなくなってしまう。夢の中でしか知らない幼馴夢の声。

「恵が知らないからっていいわけないでしょ!」

 怒っていながらも、どこか嬉しそうな口調。たぶん委員長はずっとこういうやり取りを望んでいたのだろう。文句を言いながらも、幸せそうに話し合う病室の中の三人。たった一人、中の様子に耳を傾けている病室の外の俺。まるでドア一枚を隔て、夢と現実が別れれているかのようだった。未だに扉一枚隔てた中から聞こえてくる楽しそうな話し声に急に胸が迫る。俺は自分でも無意識のうちに現実に向かうはずだった足を百八十度回転させ、あろうことか胸に沸き立つ激情に任せてドアを勢いよく開け放っていた。

「信士?」

 中にいた三人の目が俺に向けられる。ここまでしておいて、さすがに何もなかったかのように閉めて帰ることなんてできない。最もやってはいけいないことであり、普段は最もやらないように気を付けていたことをしてしまったことに、一番驚いていたのは俺自身だった。なんでよりにもよって関わりの深い委員長の夢で、しかもすでに自分が登場人物としているというのに、姿をさらすなんていう愚かなことをしてしまったのだろう。この状況をどういいつくろえばいいのかわからず、全身が汗ばむ。

「信士が……二人?」

 しきりに外の俺と中の俺を見比べている委員長の姿から、ひどく混乱している様子がうかがえる。反対に夢の存在である偽物の俺と幼馴夢は落ち着いていた。これが夢と現実の違いだった。夢である二人にとっては、俺が入ってきたことなど別になんの問題もない。それが例え同じ人物が増えたところで、委員長の願いの塊なのだから彼女の味方をするだけだった。今はその当人が戸惑っているから優しく見守っているのだろう。彼女に負けないくらい、自分でもなんで中に入ってしまったのかと困惑した俺だったが、この状況を作り出してしまった当事者だけに、幾分か立ち直るのが委員長より早かった。どうせここまでやってしまったのだからと、半ばやけくそ気味になり、先ほどから胸の中でわだかまっている抑えがたい気持ちに任せて口を開いた。

「なにしてるんだよ委員長」

 まだ立ち直れないようで目を白黒させながら、必死に俺の言葉の意味を理解しようとしている様子。わけのわからない状況に、続けざまに本来であれば意味不明なことを言ったせいで混乱に拍車をかけたようだ。察するに、どうやらここが夢の中だと委員長は知らないのではないだろうか。そうでなければ誰かが夢遊病になる度に心を痛めていた委員長が、自ら望んで夢を受け入れるとは思えなかった。

「あ、あんた、なんで二人いるのよ」

 当然のようにぶつけられる委員長の疑問。できればずっと隠したままにしておきたかった秘密。俺がこんな行動を取ったりしなければ、達成することは容易であったはずなのに。だが、ここで重要なことを思い出す。夢遊病になったものは目覚めた後、夢の内容を覚えていることもなければ、思い出すこともほとんどないのだ。現実世界では常識となっている知識を失念して焦っているなんて、どうやら俺もまだ混乱が続いていたようだ。どうせ目覚めてしまえば夢でのことは忘れているんだから、別にここで秘密を打ち明けてしまっても問題ない。逆に目覚めなければ誰にも伝えることができないので、俺が何かしら被害を受ける心配はないのだ。

「黙っていたけど、俺は他人の夢に行くことができるんだ。だからそこにいる俺とは違って本物だよ」

「えっ!」

 あまりに突拍子もない俺の告白に理解が追い付かないのだろう。とうとうまるで電池が切れたかのように固まってしまう委員長。

「委員長こそ、こんなところでなにしてるんだよ」

 同じ問いをもう一度繰り返す。

「……どういうこと?」

 長い時間をかけ、絞り出すように口にする。ようやく委員長も落ち着いて状況を把握できる余裕ができたようだ。きっと委員長はこれが夢だと理解していないのだ。そうでなければ幼馴夢が起きていることも、現実では幼馴夢となんの関わりもない俺が、二人に交じって過ごしていることも、疑問を感じないのはおかしい。夢だと気付いていないから、変を変とも思わない。たまに夢遊病者には夢を夢だと知らずに見続けているものがいる。普段眠っているとき、朝になって起きてからあれは夢だったのか、と気付くように知らないまま夢を見ているのだ。委員長も目を覚ませば、これが夢だとわかれば、現実に戻らないといけないと思うようになるはず。偽物ではなく、本物の俺が言っていることなんだから信じてくれるはずだ。

「これは……全部夢なんだよ」

 残酷な事実を突きつける。だが、これが夢だと知らないと彼女にとっては、これが現実になってしまう。だから本当のことを伝えた。自分が見ているものがどういうものかを知らしめるために。

「知っているわよ」

 なんだそんなことか、とでもいうかのようにこともなげに頷く委員長。現実であれほど幼馴夢の目覚めを待ちわびていたというのに、全てが夢であると理解しながらここにいることを選んだというのだろうか。

「じゃあ、なんで出ようとしない。ここは委員長が嫌悪した夢の中なんだぞ」

 存在も思いさえも、この世界では偽物なのだ。唯一、本物なのは人の夢を行き来することができる俺だけ。

「いつもあんたが現実より夢のほうがいいって言っていたでしょ」

 そうだけど、そうなんだけど。他のやつならいざ知らず、まさか委員長が現実より夢を取るとは思わなかった。委員長が夢遊病となっている代えがたい現実が目の前にあるにも拘わらず、俺は事実を認めることができなかった。

「あれほどクラスメイトが夢遊病になることを嫌がっていたじゃないか。夢より現実で幸せになってほしいって望んでいたじゃないか」

「そうだった……その、つもりだった」

 悲しそうにうつむく委員長。その瞳には現実に希望を抱く強い意志は感じられない。夢の中で何人も同じような人を見てきたから、もうそれだけでわかってしまった。たぶん誰よりも多く見てきて、誰よりも深く理解を示していたはずなのに、

「クラスのやつらを放っておいて、ずっとこんなところにいるつもりかよ」

 委員長を責めるようなことを言ってしまった。

「こんなところってなによ……」

 一転して口調が変化する。どうやら委員長の逆鱗に触れてしまったらしい。それも当然だ。自分の夢を馬鹿にされたのだから、怒らないほうがおかしい。委員長の変化には気付いていた。だからここでやめればよかったのに、俺は口が動くのを止めることができなかった。

「今まで私が散々注意しても眠っていたくせに説教するつもり?」

「この夢の誰が幸せなんだよ! 誰ひとり幸せなやつなんていないじゃないか」

 委員長を非難するなんて、いったい俺はどうしてしまったんだろう。

「私が幸せよ。それともなに、私だけ幸せになっちゃいけないの? 例えあんたの言うように夢の中であれ、自分が満足しているんだからいいでしょ!」

「それこそ本当に自己満足じゃないか! 現実から逃げているだけじゃないか! 自分が目覚めないことで、現実でどれほど悲しむ人がいるのかわかっているのかよ!」

「なに言っているのよ。ここにいるわ! 父さんも母さんも友達も、恵だって……みんないるじゃない!」

「そんなの全部偽物だ! お前の望む人は誰一人目覚めていないし、俺がそこにいることなんてありえないんだよ!」

 辿り着けない明日にようやく委員長は夢の中で到達した。だけど、いない。こんな優しい世界なんて現実にはないんだ。

「……」

 これまで怒りに身を任せて反論していた委員長が初めて沈黙する。

「違うだろ? 委員長はだらしないやつがいると口を出さずにはいられなくて、困っているやつがいると放っておけない。だからこそ優子は委員長だったんだろ」

 体が弱く休みがちだった幼馴夢の面倒を委員長が世話してくれたため仲良くなった、と彼女の親友から聞いていた。委員長は本来面倒見がいい性格なんだろう。だから委員長であったし、誰よりも辛かった。それこそ夢遊病になってしまうくらいに。

「ッ!?」

 もう少しで説得できる。そう確信し、あと少しの勇気を振り絞れるように手を差し伸べる。俺がただ他人の夢を見ることができるだけだったら、手も足も出なかったが幸か不幸かこの夢から出る方法を知っていた。だから手を取ってさえくれれば、またあの日常に帰れるのだ。

「帰ろう。クラスのみんなが現実で待っている」

「……」

 差し伸べられた手を黙ってジッと見つめていた委員長が下げていた右手を上げる。

 パシーンッ!

 掴んでもらえると思っていた手は、小気味よい音を立てて振り払われた。

「なによ! ようするに私がいないと面倒事を他の人がやらなくちゃならないのが嫌なんでしょ! 私は……私は好きで委員長でいたんじゃない!」

 ジンジンっと痛む手はどうしていいかわからず虚空を彷徨う。

 夢の中でも脳がある程度痛みを予測できれば叩かれれば痛いと思うし、寒ければ寒いと感じる。今痛みを感じている原因が頭ではわかっても、委員長の心の中がわからなかった。

「帰って……帰ってよ!」

 掛ける言葉が見つからないままの俺に、拒絶の意思を示す委員長。

「……このままだと、もしかしたら死ぬかもしれないんだぞ?」

 考えを巡らせても適切な言葉が思いつかない俺は、結局ありきたりな台詞を吐くことしかできなかった。

「いいじゃない! 幸せな夢を見たまま死ぬことの何がいけないの!」

 幸せなはずの委員長の悲痛な叫び。どこか苦しんでいるようにも見えるその様は、きっと俺が余計なことをしてしまったからだった。案の定彼女の心を響かせることなどできず、委員長はさらに声を荒げる。

「あんた自身が言っていたことじゃない!」

 目尻に涙を浮かべて俺を睨みつける委員長。すでに俺の言葉に耳を傾けようとする気はなく、自分の領域を脅かす相手を排除しようと敵意をむき出しにしている。夢の主の意志に答えるように、委員長の手をしっかりと握る偽物の幼馴夢と、委員長の傍に立つ偽物の俺。まるで、これ以上委員長をいじめるなとでもいうかのように、二人は強い眼差しを向けてくる。だけど俺にはどこか二人の顔が悲しげに見えた。

「……」

 言葉がなかった。もう言い返そうとする気すらおきなかった。未だに俺はそれが間違っているとは思っていない。自分が納得していないのに、どうして相手を説き伏せることができようか。このままでは死んでしまうかもしれないと脅したところで、親友が目覚めない中、三年も帰りを待った結果、夢遊病となってしまった委員長の心を動かすことなどできやしない。引きこもりに対して、世間体を前提に一方的にそれは悪いことだと言っているのと同じだ。現実で彼女自身のことをなにも解決していない。だからこそ、過去にドリームハンターが自分の夢に訪れた時、俺は目覚めることを拒んだのだ。この状態では何を言っても無駄だった。委員長の目を文字通り覚まさせる術を、言葉を、思いを、今の俺は持っていない。こんな俺に彼女を起こすことなどできはしないのだ。三人から向けられる眼光にひるむように後ずさり、何も言えないままこの夢から出たいと願った。それだけで来た時と同じように言い知れぬ浮揚感に身を包まれ、定まっていた焦点が徐々に歪んでいく。去り際に見た委員長の世界は、偽りの幼馴夢と俺が彼女に寄り添っており、とても……とても幸せそうだった。


 委員長の説得に失敗した俺はすごすごと退散してきていた。行くあてもなく夢の中を彷徨い続ける。むしろ、そろそろ起きてしまおうかとも考える。だが、ここで起きたところで現実ではまだ朝の五時くらいだろう。ただでさえ普段から寝不足なのにそんな時間に起きてしまっては、学校に行ってから一度も起きることもなく放課後まで眠り続けてしまうだろう。そうなれば委員長も怒り心頭だ。

「……って委員長はもう夢の中か」

 もう半ば教師さえも起こすことを諦めている時点で、委員長が夢遊病になっている現在、現実では安眠が約束されているようなもの。ならばここで目覚めてしまってもなんの問題もない。ないのだが……なんとなく起きる気にはなれなかった。よくよく考えたら、夢の中にいようかどうか迷ったのはこれが初めてかもしれない。

 女性に囲まれて笑っている人物の夢を眺め、ゾンビと銃撃戦をしている夢を抜け、ギャンブルに明け暮れている夢を過ぎ、最後に、ある教室の扉の前に行き着いた。

 気が付くと自然と足が幼馴夢のところへと向かっていた。普段の習慣というものは恐ろしいものだ。行くあてもなく彷徨っていたつもりでも、俺の足は勝手にいつもの場所を選択して歩みを進めていた。彼女と話をすれば少しでも気が晴れるかと思い、扉に手をかける。そこでふと気づいてしまう。察しの良い彼女のことだ、俺の様子がいつもと違うことはすぐにわかってしまうだろう。

 その時俺は果たして隠しきれるだろうか?

 彼女の親友が夢に閉じこもってしまったということを。いや、別に言ってもいいのかもしれない。あいつからすれば、現実にいるはずの友人が自分のいる夢の中にきてくれたのだ。むしろ好都合と考えることもできる。中に入って委員長の話をするべきかどうか迷っていると、僅かに開いた扉の隙間から幼馴夢の姿が目に入る。彼女は両肘をついた手の上に頭をのせて物思いにふけっていた。何を考えているのかはわからない。夢の中にいるからといって、話をせずに相手の思考を読み取ることは不可能だ。吹き出しのように考えていることが浮かんでいるわけではないし、テレパシーのように相手の思っていることがこちらに伝わるわけでもない。ただ一つの例外として、本人がそういう夢を望まない限りは。

「早く、優子達のいる現実に戻りたいな……お父さんとお母さんはわたしのことを心配してくれているかな」

 だからこそ呟いた言葉は彼女の心の内を明確に表していた。彼女の本当の思いを聞いたのはこれが初めてだった。

「今、優子は現実でどうしているかな……わたしを待っててくれているのかな……それとも……」

 ここで教室へと入って行って「委員長は諦めてしまったよ」と告げるのは残酷すぎた。もちろんそんなオブラートに包まないような言い方はしないが、現実で待っていてくれるかもしれないという思いを抱いている相手に、その人物が夢遊病になってしまったことを知らせるのは同じような意味になってしまうことくらいはわかっているつもりだ。だからこそ俺の取る選択肢は一つしかなかった。気付かれぬよう開きかけた扉を閉めると、元来た道を振り返る。偶然聞いてしまった彼女の本当の気持ちから背を向けるように、俺はこの場を静かに立ち去った。

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