第9話 帰らぬ人

 翌日、珍しく誰に起こされずとも早起きした俺は、遅刻することなく学校までの道のりを歩く。早いといっても俺にとってはというだけであり、実際は普通であれば多くの学生が通学する時間帯である。委員長に叩き起こされた時にはこの時間に学校に行くこともあるが、その時は半分意識が眠っている。一人で登校する際にこれだけ学生の姿を見たのは、ずいぶん久しぶりだった。住宅街を突っ切るように学校へと続く道。等間隔で電柱があるだけで、歩道やガードレールなどもなく、五人くらい横になっても問題ない道幅だ。普段は車も通るが、遅刻せずにきちんと登校すれば、この時間は通学の学生が多いため交通規制がされており、ボーっとしていても事故の心配はない。これが俺の普段登校している時間だと自分以外の学生はたまに灰村隆を見かけたくらいだ。睡魔で時折、千鳥足になりがらもなんとか学校に辿り着く。途中、何度か電柱や壁にぶつかり痛みで目を覚ます。なんで今日はこんなにぶつかるのか不思議に思ったが、なんてことはない。いつもは委員長がぶつからないように気を使っていたのだ。

 下駄箱で上履きに履き替えると、自分のクラス目指して歩みを進める。前を行く二人の男子が俺の目的地である教室へと入っていく。間髪入れずに続く挨拶が、開けっ放しの扉から廊下にいる俺の位置まで聞こえてくる。あいつら同じクラスだったのか。新たな発見に半ば驚きながら教室に入った途端、何か違和感を感じた。俺の姿が教室に現れた瞬間シーンとなるのはいつものことなので、大した問題ではない。どうせ俺が眠ればすぐに騒ぎ出す。挨拶なんてここ数年、学校ではされたこともないので今更気にはしない。委員長と灰村隆とたまにするくらいだ。そんなことではなく、現実に関心を抱くことがほとんどない俺が感じた違和感のほうが問題だった。今更俺は何を現実に期待しているのだろうか。妙な不安を覚えながらも違和感を振り払うように、窓際の一番後ろで周囲から少し離れてポツンと置かれている自分の席に着席すると快眠アイテムを取り出す。枕を机にセットし、音楽の流れるイヤホンを装着、アイマスクで視界を覆おうとしたところで、担任が教室に入ってくると同時に鐘が鳴った。

 どうやら通学路で思った以上に時間を費やしてしまったようだ。普段なら気にせず、このまま放課後まで眠りにつくのだが、眉間にしわを寄せた担任の姿に下ろそうとしていたアイマスクの手が止まる。あの顔は何度か見たことがある。新学期が始まったばかりの頃、クラスの誰かが夢遊病になる度にあんな表情をしていた。だが、努力の甲斐もなく何人も夢遊病になるにしたがって、いつしか業務連絡のように淡々と伝えるだけになっていたのにどうして今ごろ。いつもと様子の違う担任が気になった俺は、快眠アイテムを外して机の上に置くと、とりあえず起きておくことにする。他の生徒も嫌な予感がするのか、担任を見つめる瞳は不安そうだ。

「出席をとるぞ」

 そんな心境を知ってか知らずか、出欠確認を始める。いつものようにア行から順に呼んでいき、案の定俺の名前を飛ばして次に行く。一応ここに座っている限り、出席に扱いにはなっているので別に文句を言ったりはしない。

「以上、これで全員だ」

 出欠の途中から騒ぎ出したクラスが、終了を告げたところで教室内がより一層ざわめく。俺も教室に入った時から感じていた違和感の正体に気付いた。

「先生、委員長の名前を呼んでませんよ」

 一人の男子生徒が手を挙げて抗議する。顔を見たことがあるような気もするが、名前は知らないやつだった。俺ならまだしも、委員長を飛ばすことなんてこれまで一度もなかった。名前を呼ばないのは夢遊病となった生徒だけ。一番前にある彼女の席を見ると誰もいなかった。ようやくこれまでの違和感と担任の様子に納得する。

「美澤は……夢遊病になった」

 なんだそんなことか。正直拍子抜けだった。だから、担任の表情が珍しく険しかったのか。拳をわなわなと握りしめ、悔しさに歯噛みしている。委員長が夢遊病になったと知らされた時のクラスのやつらの嘆きは一際大きかった。これまでは何となくまたかという雰囲気だったが、灰村隆が目覚めなくなった時以上に多くのものが悲しみに打ち震えた。

「そんな……委員長が夢遊病になるなんて思わなかった」

 放心した様子で右前に座る男子生徒が呟いている。クラスメイトが夢遊病になることに誰よりも心を痛めていたのに、むしろ今までならなかったのが不思議なくらいだ。昨日彼女の夢を見た俺としては、やっぱりかという思いのほうが強かった。もしかしたら、俺が見た時にはもうすでに夢遊病になり始めていたのかもしれない。きっかけは間違いなく幼馴夢を忘れられていたことだろう。だがそれだけで、なんで今更になってあれだけ嫌悪していた夢遊病に委員長がなったのか、クラスメイト同様、違う意味で驚きを隠せなかった。どうせなるならもっと早くなっていればよかったのに。

「ゆ、ゆうこ、ゆうこ……ゆうこ……なんで……なんで……」」

 恐らく現実で委員長と親しくしていた女子生徒だろう。俺も何度か委員長と話しているところを見かけたことがある。もちろん名前は知らないが。母を探す子供のように、うわごとのように何度も名前を呼んでは、しきりに「なんで」と泣きながら繰り返している。涙を浮かべた周囲の女子生徒が元気を出すよう励ます。どうせ泣いているのなんて今だけなのだから、放っておけばいいのにと思ってしまう。クラスで一人夢遊病が出たところで世界はなんら変わりなく過ぎていく。実際には日ごとに変化はある。八年前から夢遊病が出てきたことで、世間でも大きな変化はあったが、今では夢遊病になる人なんてなんら珍しくない。それが今回委員長だっただけ。なにを騒ぐ必要があるんだ。これだけ騒ぎながらも、どうせ数日後には元の状態に戻っているのだ。それは悲しみを乗り越えて進むのではなく単純になかったことにするだけ。そんな悲嘆に何の意味がある。周囲にいるやつらはわかっていて励ましの言葉なんてかけているんだろうか。

「なんで……なんで……」

 先ほどの女性生徒の呟きがまだ耳に届いてくる。そんなの夢のほうがいいからに決まっているじゃないか。誰かがいなくなったところで忘れることしかできない現実なんかより、思い通りになる夢のほうがよっぽどいい。昨日の委員長の叫びが誰の心にも届いていなかったところを見ると、嘆息せずにはいられなかった。きっかけを作ったのは自分達だったというのにそれを棚に上げて「なんで」なんていう疑問を抱いているのか。

「美澤、可哀想に……」

 珍しく、担任の目にも光るものがある。クラスメイトには届かずとも、大人である彼には委員長の思いは伝わったのだろうか。

「……夢遊病になるなんて悔しかっただろうな」

 大人特有の余裕からくるのか、もしくは始めは委員長のように夢遊病者が出ることを悲しんでいたこともあってか、相手の気持ちを思いやる同情の念。けど、違う。例え大人であっても、正しく気持ちを理解することなんてできていなかった。どちらかというと委員長は悔しいから夢遊病になったんだ。今もここで過ごせている担任は、現実を諦めたから夢遊病を免れているんだろう。逆に諦めきれなかった委員長は帰ってこなくなった。これが現実、委員長がクラス全員を敵に回しでも伝えようとしたことは、なにも変化をもたらしはしなかった。ただ一時、悲しんでしばらくしたら忘れられている。こんな現実は間違っているのだろうけれど、昨日の委員長のように声高らかに訴えることは、もうすでに諦めてしまっている俺にできなかった。

 むしろ、こんな現実とおさらばできた委員長がうらやましかった。だけど悪いことばかりではない。委員長が夢遊病になってくれたおかげで、ようやく俺の望んだ学校生活が送れる。朝、起きていないとしつこくモーニングコールを鳴らされたり、あげくの果てには迎えに来られて学校に引っ張っていかれたりしなければ、休み時間に起こされたり、「寝るな」と怒られたりすることもない。委員長がいなくなったおかげで遅刻はするだろうけれども、元々うちの親は学校にさえ行っていれば、特に口うるさく言ったりしてこない。委員長がいなくなって困ることといえば、放課後過ぎても起こされないまま鍵を閉められる程度だ。もう何度かやっているので、見回りの人も無理に起こそうとしない。ただ長時間机に突っ伏して寝るせいで、体の節々が痛くなる程度。委員長が夢遊病になったことは俺にメリットこそあれ、特にデメリットはなかった。担任含め、悲しみに明け暮れる教室をしり目に、再び快眠アイテムを装着すると俺は委員長の後を追うように眠りについた。

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