第5話 幼馴夢

 ここに来るのは何度目になるだろう?

 真っ白というよりはクリーム色に近い床と壁、六年一組と書かれた教室札、目の前の扉を開ければ整然と並べられた机と椅子があるだろう。ここは夢の中に存在する一つの教室。学校を模して存在するここは、俺とある人物の待ち合わせ場所となっている。この扉を開ければ間違いなく彼女はいる。中を見なくても確信があった。というのも何度もここを訪れているが、彼女が遅れてやってきたことはない。まるで来ることが分かっているかのように、いつも俺より先にここにいる。

 ある一つの確信を抱きながら俺は引き戸に手をかけた。何回、何百回、三年間、続けてきた動作を今日も繰り返す。そこには予想通りの光景がいつものようにあった。黒板に教壇、均一に並べられた机と椅子。そして、その中でたった一人、席に座る少女。元々同年代の子と比べて小柄なのもあるが、ある事情から実年齢よりもさらに幼く見えてしまっている。実際には彼女は俺と同い年である。学校の教室と言えば、多くの生徒達でにぎわう場所。これまで行ってきたどの夢の中でも、そういう人達がほとんどだった。本来であれば多くの人がいるべき空間で、孤独でいる彼女こそ、俺が夢を見るたびに会いに来る人物だった。

「もういたのか」

「よかった。今日はちょっと遅かったね」

 柔和な印象を与えるたれ目。肩先より下に伸びた長く黒い髪。140cmという下手すると小学生並みの身長も相まって、守ってあげたい気持ちになる。微笑を浮かべながら座る彼女は、まるでこの世のものではないほど綺麗で儚かった。彼女のいる前の席の椅子を動かし腰掛ける。俺にとっては小さいと思える机と椅子は、小柄な彼女にとってはちょうどいいらしい。ここは小学校だった。掃除が行き届いた教室の中、彼女のいる席だけは汚れていた。使い込まれているだとか、散らかっているだとかではない。落書き、誹謗中傷、破られた教科書や壊れた筆記用具。明らかないじめの跡が見て取れるため、ここだけが際立って汚れているようにみえる。現実での俺の席のように周囲から離れてポツンと置かれている。だから俺は毎回来るたびに椅子を彼女に近づけなければならなかった。なぜか一度出ると元の位置に戻されているのは、彼女なりのこだわりだろうか。

 以前から席を変えるよう提案しているが、結果は言わずもがな。改善されたことはない。俺は夢の中でしか会ったことのない彼女のことを幼馴夢おさななじむと呼んでいる。もちろん、これまで過ごしてきた中で名前も聞いたし、普段会話をするときはきちんと彼女の名前である咲野恵さきの めぐみで呼んでいる。ただ、俺が勝手にそう思っているだけ。彼女との初めての出会いは夢の中で、現実では一度だって会ったこともなければ見たこともない。正確には現実では会えないと言ったほうが正しいかもしれない。

 だって彼女は三年も夢の中に閉じ込められているのだ。だから現実には存在するが、現実にはいない。こう言ってしまうと俺自身の願望が作り出した妄想のようで、実は存在していない人物のように思うが、住所を聞き、実際に家の前まで行って、彼女が言っていた外観の特徴と表札が合致しているのだから、まぎれもなく実在はしているのだろう。ただ怖くて、中に入って確かめることはできていない。夢とは過去の記憶の集合体とも言われているから、たまたま知っているところを彼女の家と認識しているのではないか、という可能性も考えたこともある。だけど彼女は間違いなく現実に存在している。それだけは断言できる。だって彼女の親友である人物を俺は知っているのだから。彼女はこうして夢の中で存在はしているけど、現実にはいない。正確には現実で起きて活動することがない。常に夢の中だけで時間を過ごしている。いわゆる夢遊病と同じ状況であるため、彼女は周囲から夢遊病として扱われているが、実際の事情はちょっと違う。

「ああ、ちょっと変な夢に行ってな」

 一瞬、無音の夢が脳裏をよぎるが嘘は言っていない。クレオパトラの夢は近年まれにみる変な夢だった。

「そろそろだと思ったのに来ないから、なにかあったのかなって心配しちゃった」

「悪い悪い。よく俺が来るってわかるよな」

 彼女がどうやって俺が来るのを知るのかずっと不思議で仕方ない。今では時間の経過とともにタイミングがわかるようになったのだと納得することができるが、以前尋ねたときは「なんとなく」という曖昧な返答しかしなかった。

「三年……だったっけ? それだけあったら誰だってわかるよ」

 自信なさげに首をかしげている。もう時間の感覚を忘れてしまうほど、彼女はここにいた。現実でどれだけの時間が経過しているか知るには俺が来るしかない。もし俺が三日来なくても、彼女にはそれが二日なのか四日なのか正確にはわからない。成長した姿は俺も彼女自身も知らないから、三年前から見た目が変わらない。だから、小さいはずの小学生用の机が俺とは違いピッタリだった。彼女の時間は夢の中で今もずっと止まったままなのだ。もう一週間や一ヶ月ではなく、年だ。それも三年も彼女は一度も目覚めることなく、まるで生きてるだけの植物人間のように、夢に引きこもってしまった夢遊病者のように、ずっと眠っているだけ。俺と同じように自分の夢を見ることはできない。

 だけど、彼女と俺では度合いが違う。現実に起きることができ、夢の中にもいられるのと、現実に目覚めることができず、夢の中にしかいられないのとでは天地ほどの差がある。先ほど行った夢遊病者の音のない夢を思い出す。一見あんな世界であれ、本人が望んだものならまだ救いがある。だが、幼馴夢は夢見ることができない。そのまま三年も目覚めることができずにいる。彼女が自分の夢を見れたならどれだけよかっただろうか。

「……夢遊病の人の夢に行ったの?」

 なんでわかってしまうのだろう。そんなにも顔に出やすいのだろうか。親以上に一緒に過ごした時間が長い分、変化を敏感に感じとれるらしい。俺が夢遊病者のところへ行ったときにはこんなふうに何も言わずともばれてしまう。

「どんな夢だったの?」

 そして、いつもこう聞いてくる。初めの内は人の夢の話なのでプライバシーではないが、人に語るのは抵抗があった。何より夢に閉じ込められている彼女に、そんな話をするのは気が引けた。だが、今ではこの問いがくることに安心する。だって幼馴夢以外にこんな話をできる人物なんて他にいないからだ。夢遊病者を放置することで生まれる後ろめたさを、彼女が聞き役になってくれていることで和らいでいる。

 もし彼女が聞いてくれていなかったら、罪悪感に耐えることができなかったかもしれない。俺はいつも彼女の存在に救われていた。どうしても夢遊病者の夢を話すときは、うまく言葉が出てこない。口ごもりながら語る夢の内容を静かに耳を傾けると、最後に「……そっか」と彼女はいつも同じ一言を呟く。この時に俺はハッとさせられる。悲しそうな、それでいて羨ましそうな表情。胸が締め付けられ、なにかを言わなければと思う一方で、なんと言葉をかけていいかわからないままだった。いつも俺が逡巡している間に彼女は笑顔を作り、

「他にはどこに行ってきたの?」

 と尋ねてくる。彼女に無理をさせているのではないかと思う。夢から出られなくなった相手に、夢遊病者の話をする。夢の中にいるのにも拘わらず、幸せな夢が見られない相手に対して他の人がどんな夢を見ているのか語る。これがとても残酷なことだというのはわかっている。だけど、やめられない。それは俺の弱さなのだと理解している。だが、結局どうすることもできず、今日もいつもと同じように自分が体験した夢の報告会をする。これは読んで字のごとく、他人の夢を行き来できる俺と夢に閉じ込められ出られなくなった幼馴夢とで、どんな夢に行ってきたか話し合う。俺は彼女と違い、一日中眠り続けているわけではないので、どうしても幼馴夢が夢に一人だけの時間ができてしまう。もちろん、本当は夢遊病にならずとも俺は好きなだけ眠っていることができるのだが、この町に引っ越す条件として学校に行くという両親との約束があるので、起きないわけにはいかない。 その間彼女はどうしているのかというと、人の夢に行って過ごしているため、長いこと目覚めなくても退屈しないそうだ。こんなケースは俺も初めてなので推測でしかないが、恐らく自分の夢が半分壊れてしまっているので、幸せな夢が見続けられない代わりに他人の夢へと行けるのだろう。夢遊病になっているものには、見ている夢の中のどこかに俺が核と呼んでいるものが二つあり、この存在は今のところ俺しか知らない。夢見るには夢の核と呼んでいる『過去の夢』と『未来の夢』の二つが必要で、これらがある限りいくらでも幸せな夢を見ていられる。例え、片方が壊れてしまってもいずれ元通りになり、再び夢を見られるようになる。しかし、直る前に二つとも壊されてしまえば二度と夢遊病にはなれず、目覚めたものは何かとても幸せな夢を見ていたという思いだけが残り、記憶していることは一切ない。

 夢遊病の治療をしているドリームハンターは、これらを壊してしまうことで夢から目覚めさせているのだが、なんで目覚めるのかは理解していない。ただ、ある研究者の立てた『夢にいられなくなれば現実に戻ってこれるのではないか』という仮説に則って実行し、成功したにすぎない。それは人であったり、動物であったり、物であったり、形を成して夢のどこかに存在している。星の数ほどある夢の中で、どんな形をしてるかもわからないたった二つの核を見つけなければいけないのだから、ドリームハンターにとっては気が遠くなるような作業だろう。しかも日に日に患者数は増える一方なのだ。

 目の前にいる彼女は、その過去の夢を三年前あるドリームハンターに破壊された。これが俺にとっては数少ない希望でもあり、絶望の始まりだった。なぜか一つだけしか壊されていないはずなのに夢を見ることができず、目覚めることもできなくなったのだ。そうして他人の夢を行き来できる俺の『幼馴夢の過去の夢』を探す旅が始まった。結果は彼女がまだここにいることから、言わずともわかるだろう。そのついでに行ってきた夢の内容を語って聞かせているわけだ。よくわからない冒険の世界、もう起きない同級生の世界、音のない世界と自分の行ってきた夢を話終えると、俺はいつもと同じように彼女に聞き返した。

「俺はこれで全部だ。そっちは?」

「わたしは今日は優子の夢に行ってきたよ」

 そう、現実に存在する彼女の親友である人物とは、俺のクラスの委員長のことなのだ。委員長から幼馴夢が以前いじめられていたことがあると聞いたので、彼女のいる机の落書きや散らかった教科書はその跡だろう。何度言っても席を変えないので、なぜいつもここにいるのか聞いたことがある。

『嫌な場所だけど、居心地がいいんだ。本物があるから安心するの』

 過去の嫌な思い出は実際にあったことだから、偽物ではあるが本物だと言いたいのだろう。自由に自分の夢が見れない彼女に残されたのは、どうしてこの場所だったのだろう。もう少し希望に満ちた幸せなところであれば、幾分か安心して夢を探しに行けるのに。

「またか、昨日も行ったばかりじゃないか」

「うん」

 柔らかな笑みを浮かべながら、まるで懐かしむように語りだす。夢の報告会と銘打っているが、幼馴夢はなぜか両親と委員長の夢にしか行けない。理由はわからないが、たぶん現実で関わりが深い人物だからなのだろう。だから必然的に色々な人のところに行っている俺の方が語ることが多くなる。夢で俺の話を聞いていることが多い幼馴夢が唯一、饒舌に語ってくれる夢。それは彼女が実際に体験した過去の思い出だった。楽しそうな話し声が耳に心地いいので、またかと言いつつも内心では何度聞いても悪くないと思っている。彼女が思い出をとてもとても大切にしていることが伝わってくるからだ。

 俺には誰かとの思い出なんてほとんどない。両親は俺が子供の頃から研究一筋だったので、どこかに連れて行ってもらった記憶があまりない。暇を見つけては寝てばかりだったので、友達どころか知り合いすらほとんどできたことがない。唯一あるのは他人の夢で過ごした記憶のみ。とりわけ、幼馴夢とここで過ごした思い出しかない。もし、これが全部夢であったらと思うとゾッとする。俺が現実をないがしろにまでして眠るのは、彼女の夢を探すためもあるが、幼馴夢の傍にいるためでもあったからだ。

『……起きなさい!』

 幼馴夢の話に耳を傾けていると、急に誰かの声が夢の中へと響き渡る。

『信士、下校時間過ぎてるわよ!』

 お互いに顔を見合わせると笑い合う。

「どうやら委員長が起こしに来たらしい」

「みたいだね」

 クスクスとほほ笑んでいる。幼馴夢が夢から目覚めなくなってから両親に頼み込んで、この町へと引っ越してきたが、転入先の学校で彼女の親友である委員長と知り合ったのは偶然だった。そしてなぜか、やたら寝ている俺に対して委員長がお節介を焼くようになり話すようになった。おかげで一時、現実と夢がつながったようで嬉しかった。

「あの……夢なんだが……」

 ここから去る前にきちんと言っておかねばならない。この瞬間はいつも緊張する。口の中が乾き、手に汗握る。何を伝えようとしているのか気付いたようで、幼馴夢は優しい微笑を浮かべて俺の言葉を待っている。彼女が非難してきたりしたことは一度たりともないし、必ず来たときは報告するとも決まっているわけでもない。だけど、しなくてはいけない。くじけそうになる心をなんとか奮い立たせると彼女に告げる。

「まだ、見つからない」

「そっか……」

 結果はわかりきっていただろうけど、わずかに伏せた顔から残念そうな様子がにじみ出ていた。胸を締め付けられる思いに、グッと歯を食いしばり耐える。

 持ち主の側を離れた夢は崩壊するはずなのに、幼馴夢の夢はどこに行ってしまったのだろうか?

 醒めない夢はないというくらいだから、放っておいてもいずれ幼馴夢は……いや、これは望んではいけないことなのだろう。自分で原因を作っておいて、時間が解決してくれるのを待つなんて。待つ間、幼馴夢の時間はどうするというのだろう。もうすでに三年もの月日が経過してしまったというのに。本来あるはずだった彼女の時間を奪い続けている。両親と委員長の夢にしかいけない幼馴夢では、自ら探し当てることは無理だろう。だから行く当てがなくとも、とにかく俺が探すしかないのだ。

「じゃあ、また優子の夢にでも行きながら待ってるよ」

 普段は夢遊病を肯定している俺だが、彼女の前では口が裂けてもそんなことは言えない。別に死んだわけじゃない。ただ目覚めないというだけで生きているのだ。まるで死んだみたいに泣いたり、取り乱したりする必要なんてない。それじゃ、彼女に失礼じゃないか。申し訳ないじゃないか。今も目覚めることができると信じて眠り続けている幼馴夢に。死にたくないと思って夢見る人間はいても、死にたいと思って生きる人間がどこにいる。だから幼馴夢は三年も眠ったままなのに、いつか目覚めると信じて今も生きている。俺が諦めたら、本当の意味で彼女が死んでしまいそうだった。悪い夢なら覚めて欲しいが、彼女がいることこそ、ここが夢の中である証拠。夢の中だからだろうか。その存在はどこか儚い。まるで今にも目覚めそうで、今も目覚めることのない少女。

「またね」

「必ず来るよ」

 手を振る幼馴夢を視界に収めながら心に誓い立てる。来ないわけにはいかないだろう。だって、彼女を夢に閉じ込めたのは俺なんだから。


 現実へと戻ると聞きなれた声に怒鳴られる。

「いい加減起きなさい!」

「ん~、あと五……」

「五分も五十分も待たないわよ」

「……五年」

「長すぎるわよ! 夢遊病じゃないんだし、戻ってこれなくてもいいの!」

 別に構わないんだがな。あいつは三年も向こうにいるんだから。

「委員長はこれから帰るのか?」

「ちょっと行くところがあるからそこに寄ってからね」

「夢遊病になったっていう幼馴染のお見舞いか?」

 週に一回通っている委員長には、俺が彼女の幼馴染と知り合いだということは黙っている。そもそも俺がこの町に引っ越してきたときには、幼馴夢は夢遊病になっていたのだ。なのにどうやって知り合ったのかと問い詰められたら、他人の夢を行き来できることについて話さないといけなくなる。これは幼馴夢ともう一人しか知らない秘密だった。今の時代、他人の夢に行くことができる=過去に夢遊病だったということになる。実をいうと俺は違うのだが、世間一般的な認識としては夢に逃げたという図式になる。これは元夢遊病者にとってあまり好ましいことではなかった。だから俺は以前いた町から引っ越しせざる得なかった。

「……うん」

 委員長はどこか寂しそうな顔でうなずく。家族や友人が夢遊病になった人達の辿る道は主に二つしかない。現実でいつ目覚めるともわからぬまま待ち続けるか、同じく夢遊病になるか。最初は大切な人が夢遊病になった人ほど、いつか目覚めると信じて待ち続ける。だが、月日というのは残酷である。三ヶ月、半年、一年と経過するうちに耐え切れず、大切な人が目覚めることを夢見て、夢遊病になった人もいた。一人、また一人と夢遊病になっていくうちに結局心が折れて自分もなってしまう。そうして一家全員が夢遊病になってしまったものも少なくない。ならなかったもののほとんどは、夢遊病になった大切な人をいなくなったものとして過ごす。委員長のように、三年も忘れないまま待ち続けられるものは多くない。そういう点では決して口には出さしないが、俺は委員長を尊敬していた。「あんたはよほど楽しい夢を見ていたみたいね。私が起こそうとしてるときに笑ってたわよ」

 と言われて苦笑する。あれは夢が楽しかったんじゃなくて、幼馴夢の笑顔が見れて嬉しかったからなんだがな。

「ああ、楽しい夢を見ていたよ」

 楽しい悪夢をな。

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