ぼくがこれから住むまち

三池ゆず

ぼくがこれから住むまち

「あっついー! なんでこんな暑いー! 意味分からんー」


 つむぎが突然叫んだ。


 午前9時ちょうど。1時間前は、すっごいキレイなの探しに行こうよ。と言って目をキラキラさせていた紬は、そう言ってうなだれていた。


 ここは、紬の家の近くの山の中。青々と繁った雑木林が広がっている。


 こんなところに連れて来られるなら、虫除けぐらいしとけば良かった。何かに刺されたらたまったものじゃない。


「そんなに言うなら帰ろうよ」


悠斗ゆうと君、今行かなきゃいけんの!」


 なんで。そう言っても彼女は、「だーかーらあ!」の一言で終わりだ。道もよく分からないから勝手に引き返すことすらできない。ああ。ぼくはいったい何をしているんだろう。





 紬と一緒に暮らすようになったのは今から10日前。


 山梨県やまなしけん北杜市ほくとしにある恵子けいこおばさんと信春のぶはるおじさんの家でお世話になることになってからだ。


 紬はぼくにとって、従妹だ。2ヶ月だけぼくがお兄さんだが、年は同じ9歳。夏休みが終わったら一緒のクラスになるらしい。


 紬とは何度か遊んだこともあった。だけど今は、なんとなく紬と関わることが嫌で避けた。理由は特にない。ただ、元気いっぱいの紬と話すのはなんとなく気持ちがもやもやした。


 紬もぼくが来てから数日間は話しかけてきたが、しばらくしてなにも言わなくなった。


 はずだった。



「もういいよ。森林浴なら充分できたよ。虫除けもしてないし帰らない?」


「ごめん。静かにしてくれん? それと、虫除けなんしたら、蜂とブヨ、寄ってくる」


「ええ。そんなとこいたの? 危ないよ」


「いいからしゃべらんで。聞こえんじゃん」


「何か聞こえるの?」


「だからさあ! しゃべらんで!」


 ひそひそ声でそう言われて、次に出てきそうになった言葉を必死で飲み込む。今の聞こえんじゃんはしゃべると何かが聞こえないの意味だろう。


 山梨にいるせいか。紬は標準語を喋らない。紬が東京に来ているときはほとんど標準語だったから、こんなに甲州弁を喋ることを知らなかった。


 紬は回りを見渡しながら辺りをずんずん進んでいく。ぼくは見失わないように紬のあとをついていく。


 カナブンとコクワガタを何度か見かけたが、紬は目もくれずにどんどん先に行く。さっき、コクワガタがそこにいた。と紬に言ったら、そうだねと空返事されてしまった。





 1学期の終わり。突然の転校を余儀なくされたぼくは、呆然としていた。友達から住所を教えてもらったり、色紙をもらったりしたような気がするがそれをどこにやったか覚えていない。


 お別れ会も開いてもらったけど、全然楽しめなくて、参加はしていたけど上の空だった。仲の良かった陽翔はるとがなんかいいこと言っていたような気もするけど、よく覚えていない。


 ずっと放心状態で、活動はできたし、勉強もしていたけれど、一緒に参加しているというよりは、ただその場にいるだけだったような気がする。


 けれど、大人のひそひそ話だけは耳に入ってきて、ずっとお腹が痛かった。山梨に行くことを決めたら、余計にそのひそひそ話は大きくなり、事実がだいぶネジ曲がったものが伝わっていった。


 そんなんじゃないのに。この言葉は口の中で止まってしまっていた。





 突然、紬が足を止めた。


「あれ」


 紬が指差したくぬぎの木には大きな蝶が止まっていた。青紫色の羽の大きな蝶は羽をぱたぱたと動かしながら、蜜を吸っている。


 美しい。そう思った。その立派な蝶は近くにいるカブトムシをものともせず、優雅に蜜を吸っている。


 蝶は見たことないわけではない。近くの公園に行くと、モンシロチョウがいてなんとなくながめていることもあった。


 けれど、ここにいる大きな蝶は違う。可愛らしいというよりは、強く美しい。こんな蝶、見たことない。


「すごい。キレイだなあ」


「そーらあ。野生のオオムラサキ。もうちょい見てよ」


「うん」


 しばらくすると、オオムラサキはぱたぱたと羽を鳴らして飛んでいった。その力強く飛ぶ姿は、止まっている姿よりもずっと格好よく見えた。





「ごめんね。お母さんのせいで」


 お父さんは2年前、トラックにひかれて死んだ。即死だったらしい。当時のぼくは、お父さんは星になったんだよと言われただけだったが、大人たちの会話を聞いて、なんとなくの状況を知った。


 お母さんは、病気になった。すごく重いから一緒に暮らせないの、ごめんね。と泣いていた。お母さんは菌のいない部屋にいないと死んじゃう病気だから、ずっと一緒にいられないんだ、とお医者さんが言っていた。


 近所の人たちが、可哀想とか、お母さんが心の病気なんじゃないかとか、いろいろ言っていた。ぼくが山梨行くことになったことも、やあねえ、可哀想にと言っていた。


 他人事だから、好き勝手言えるんだと思うと、身震いがした。





「ねえ! 待ってよ!」

「待たん! 今日はあれじゃん」

「あれじゃ分かんないよ!」


 目の前には八ヶ岳。ぼくらは学校から家までの道のりを疾走する。だいぶ寒くなってきた最近。夏の日のように毎日晴れてはいるけれど、山梨の秋は驚くほど寒い。


「そういえばさ、なんであの日、オオムラサキを見せたの?」


 なんでって。そう言って紬が止まる。突然止まった紬にぶつかりそうになって、ぼくはつんのめる。


「なんでって。見せたかったんだ」

「え、でも、ぼくが虫あんまり好きじゃないの、紬も知ってたでしょ?」

「元気になって欲しくてさ。都会を忘れろとかそんなんじゃなくて。東京にあんまなくて北杜にあるものって考えたんよ。こんぐらいしか思い浮かばんくて。虫なんだけど、オオムラサキじゃ嫌がんないかなって。キレイだし。北杜で保護されてるし」


 そう言われて、ありがとうと言おうとしたら、紬が目の前からいなくなっていた。

 視線を上げると、少し先を紬が走っている。待ってよ。と言ったが、絶対嫌! と言ってさらにスピードを上げて走っていく。


 まずい。通学路、覚えられてないから迷子になる。


 ぼくは必死に紬を追った。




 







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