その三
かつて僕にも、想い人がいた。
彼女は大学の同期で、同じクラブに所属していた。僕は、彼女に惚れていた。
シンプルに言うと、一目惚れだった。彼女のまとう雰囲気というか、空気感が実に良かったのだ。笑いのツボが浅すぎるところも可愛らしかった。そのお陰で、いつも笑顔の彼女を見ることができた。
僕は彼女をもっと笑わせたい、一緒にもっと楽しい時間を過ごしたい、と思って割合と早い段階で告白に踏み切った。が、彼女はあっさりと僕を振った。僕に決定的なダメ要素があったわけではないのだ、と前置きしつつ、彼女は言った。
「友達のままでいたい」
…あまりにもありがちな断り文句を聞いて、僕は数日間それなりに凹んだ。
だが、そんな彼女と一度だけ僕はデートをした。
とはいえ、県内の観光名所をまわるというささやかなものだけど、それでも僕は嬉しかったのだ。けんもほろろに自分を振った相手でも、それでも彼女を好きだったから。
ならまちをブラブラして、奈良公園で鹿と戯れる彼女を拝めただけで、満足だった。
-夕方になり、土産物屋を物色していた時に僕は提案した。
「そういえば、もうすぐ誕生日だったよね。何か、プレゼントさせてよ」
その瞬間はなぜか僕の頭が冴えていた。唐突に思い出したのだ。彼女の誕生日を。
「ホント?じゃ、遠慮なく選んじゃおうかな」
微笑みながら彼女は店内を見回す。そして、しばらくした後に彼女は手にしたものを僕に見せた。
「じゃ、この櫛が欲しいな」
それは、鹿の刺繍の入った布製のケース入りの小さな櫛だった。
「オッケー」
僕はそのままレジに向かい、簡単なラッピングをしてもらったのちに、彼女に手渡した。
「ありがとう。大事にするね」
そう言ってくれた、彼女。しかし、残念ながら彼女がその櫛を使っている場面に出くわすことはとうとうなかった。
…その櫛のことを思い出し、僕は尊之助に願い事をした。
「彼女が今どんなふうに過ごしているか、知りたい」と。近況を知りたい気持ちも、もちろんあった。
それで、尊之助は今現在の彼女のところへ行ってきてくれるという話になった。
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