一章
一
彼女は実の姉ではなかった。けれど幼い頃から一緒で、そして年上で頼れる存在からエオンは『おねえちゃん』と呼んでいた。
おねえちゃんはおねえちゃんなので、本当の名前などどうでも良かった。そこの研究員たちも彼女のことは識別番号でしか呼ばなかった。
その日も二人は『共同での実験』を終え、同じ部屋で味気のない食事を取っていた。研究対象らしく二人の衣服は簡素な検査衣。外の世界には様々な味や衣服のデザインがあること知っていたけれど、実際に感じたり纏ったりする経験はなかった。
「レオちゃん」
監視カメラも音声も向こうに聞こえてしまっている。けれどそれが当然であると慣れてしまっているから、おねえちゃんは気にせずに口を開き、そしてエオンを心配した。
「大丈夫? 辛くなかった?」
幼いエオンはふるふると首を振り、
「おねえちゃんこそ、痛くなかった?」
エオンは十歳に近づいていて、おねえちゃんはそんな彼より四歳ほど年上だった。だから随分彼からして大人びて見え、そして憧れの存在だった。
彼は研究所で他の女の子を見たことがあったけれど、その中でも一番美人であると思っていた。そういう話を他の子や研究員がしていたのも聞いたことがあって、彼は自分の感覚に自信を持ったものだ。
「ううん、大丈夫。でも、レオちゃんが……」
「オレ、おねえちゃん……好きだから。だから気にしないで」
「レオちゃん、ごめん……ごめん……」
どうして彼女が謝るのだろうか。エオンは幼いながらに何となくおかしいと感じていた。謝るべきは自分であるのに、それでも彼女は彼に謝罪の言葉を述べつづけた。
この時の実験がどういうものであったのかということは、もっと後に知ることになる。それは研究所を脱走した後のこと。
そこで彼は研究員たちの言っていた言葉の意味も理解することになった。自分の身体の秘密というものを。ワーライガーであるということではない。もっと、もっと根元にあるもの。
「いつか一緒にお外歩こうよ。ね、おねえちゃん。オレがえすこーと? するから、ね」
彼女はエオンの提案に瞬間ひどく表情を暗くしたけれど、すぐにとても明るい笑顔を作ってみせた。
「うん、楽しみにしてるね。レオちゃん、かっこよくお願いね」
「うんっ。オレがおねえちゃんを守るからっ」
しかし小さくも幸せな食卓の場面から、エオンが研究員に向かって悲痛な叫びを飛ばす場面へといきなり変わった。
「お願いッ! お願いッ! おねえちゃんをッ! おねえちゃんをッッ!!」
こうすればより願いを聞いてくれると、そんなわずかな知識のもとに彼は額を地面に擦りつけ、喉が焼けきることをいとわずに叫び続けた。あまりの力の込め様に、瞼の裏の血管が切れて血涙が流れ始め、食いしばった歯は砕けそうなほどにきしんだ。
研究員はそんな彼の目の前に立ち、ぽんと肩に優しく手を置いた。
エオンが顔を上げてみると、そこにはとても優しい笑顔が張り付いていた。笑顔に違いはない、だからこそ彼は願いが届いたのだと嵐から一筋の光が、
「ダーメ」
差すことはなかった。
「えっ……」
おねえちゃんが遠くへ行ってしまう。彼は必死で手を伸ばしてみるも手は空を切るばかり。彼女は涙を流し、ひどく恐怖と悲しみの混じった表情のまま消えていった。消える間際、彼はおねえちゃんの最期の言葉を聞いた。
「レオちゃんのウソつき」
「おねえちゃん……おねえちゃ……ん、んん?」
うなされてエオンは眠りから覚めた。またおねえちゃんの夢を見てしまい、乱雑に頭をかいて忘れようとした。けれど全身に冷や汗が流れていて、その現実味のない冷たさが夢の内容を強くした。
「くそったれ……」
この後すぐにやって来るものを知っているから、彼は薬を探す。しかしなかなか見つけられずに、それはやって来た。
「あ……あぁぁ、ぐぁぁぁッ……」
脳を沸騰させているのではないかというくらいの頭痛。彼はふと彼女のことを思い出すと、このようなひどい痛みに苛まれた。幼い頃に受けた開頭の影響ではない。これが起きるようになったのは、あの夢、実際に経験した出来事の後だからだ。
視界が激しく点滅を繰り返す。平衡感覚がおかしくなり、頭を両手で握りつぶそうかというくらい押さえながらベッドの上で悶え続ける。
涙が自然とこぼれそうになる。しかし彼は、それだけは、それだけは必死に抵抗する。
「エオンー。入るよー。そろそろ起きてもいい頃だよー」
ノックもなしにがちゃりと女の子が部屋へと入ってきた。そうしてすぐに彼女はエオンが発作を起こしていることに気づき、ひどく慌てて駆け寄った。
「エオンっ! 薬はっ!?」
わずかに首を振れば、彼女は薬を探すために彼の身体を探る。彼は探しやすいように暴れたい衝動を抑え続け、すれば彼女はすぐに見つけてくれた。いつもの薬だ。完全に治まることはないけれど、それでも大分マシになる。
ふたを開け、彼女は彼の開いた口の中に錠剤を入れていく。しかし痛みのせいもあり、そのままでは飲み込めなかった。彼女は近くの水道の水を蛇口から口に入れ、そのままこぼれないように口移しでエオンの口の中へと送った。
その水を使い、ようやく彼は薬を飲むことができた。薬の効きは早く、すぐに痛みが我慢できる程度に落ち着いていった。
目の前で心配そうな表情のままエオンの手を握る少女は、『おねえちゃん』ではない。
小柄な身体に小さな手、小さな顔に大きな目。可愛らしい、ついつい触りたくなる整った鼻に、可憐な桃色の唇。腰まであるやや灰色混ざりの白髪。何より特徴的なのがその瞳で、右が青色、左が榛(はしばみ)色という、いわゆるオッドアイであるということだ。
しかし彼女にオッドアイと言うと、機嫌を悪くして『バイアイ』であると怒られてしまう。だからエオンは言わないように気をつけていた。
そう、彼女も人外、超越者だ。
「大分落ち着いた。ありがとう、キュア」
しかしキュアはエオンと違い、人の姿であるときはどこをどう見ても人そのものであった。獣の耳や尻尾などもない。ただの可愛い女の子であるとしか見えなかった。
ちなみにキュアというのはあだ名で、キュアリングというのが彼女の本名だ。彼女自身言いにくいらしく、親しいものには全員キュアと呼ばせていた。
「そう? 良かった」
にこっと微笑み、彼女はずっと彼の手を握っていた。エオンは頭痛がマシになったことと、彼女の顔が近くにあることからついついその薬を飲むのに手伝ってくれた唇をぺろりと一舐めした。
バニラアイスのような甘みと香りを感じた。もしかすれば食べたのかもしれない。
「ちょっ、ちょっと……っ」
「あ、つい……」
「『つい』じゃないよ。何やっちゃってくれちゃってるの?」
「ぺ、ぺろチュー?」
ぺろキス、なめキス、なめチューなども候補に挙がっていたけれど、なんとなく響きから彼はその名前を選択した。
すればキュアはみるみる内に顔を真っ赤にさせて、握っている手に力をぎゅっと込めた。
「ホント……あっ、アホ獅子……っ!」
「いや、ライガーだから獅子とはまたちょっと違うんだけど……」
ぽりぽりと頬をかきながら指摘する。もう何度したかわからないくらいの。
「じゃあ、アホ獅子虎?」
「それもちょっと……というか、アホは外れないんだね」
「だってアホだもん! あんなに頭痛でどったんばったんしてたのに、い、いきなりあんなことしてっ!」
確かに心配していた彼女からすればふざけていると捉えられてしまってもおかしくない行動だった。恋人同士であろうとも、だ。しかるべき場面としかるべきムードというものが存在する。
「その、寝起きが一番、そのなんと言うか……はつらつとしている、と言うか」
「アホアホそんでもってアホっ! まだお昼だよ!?」
窓からはまだまだ強い日差しが入ってきている。時計の針も同じく真っ昼間を示していた。
「そういう活動に朝も昼も晩もないと思われるけど……」
「……よくも盛るよねー。そういうものなの? ライガーって」
「いや、相手がキュアだからだよ」
特に作ることもなく素直なエオンの言葉に、カノジョはもう俯くしかなかった。
「まったく、そういうのダメだからね」
「はあ……一人でするしかないか」
「ダメダメダメぇーっ!」
キュアが慌てて両手をばたばたさせてその先のことを止めさせる。エオンは「はあ」とため息を吐き、肩をしゅんとさせた。
「ええー。でも治めなきゃならないし……」
「止めなさい。そういうのは宣言するものじゃないし、それに発作がぶり返すかもしれないよ」
真面目に説教する彼女。まさに想像通りの展開でエオンはたまらず吹き出してしまう。
「冗談だよ、冗談。オレにそんな趣味はないから」
からかわれたことに気づき、彼女は激しく地団駄を踏んだ。そしてそんな様子がとても可愛らしいと、エオンは心の底から思う。そんな彼女の恋人だなんて、実に自分は運がいいと常日頃感じていた。
もちろん運だけではなく、彼自身の努力の賜物でもあるけれど。
「それどころじゃないから」
「ホントだよ、もう」
歴史博物館の襲撃から一晩が過ぎ、エオン一行は追撃に会うことなく次なる目的地へとたどり着いていた。
あまりにオーロの動きが悪いのは、超越者たちがこのような反乱を起こすことが頭になかったのと、国内は長年平穏そのものだったからだろう。訓練されていても、あまりに予想外な状況の前では機能不全に陥る。
この科学帝国オーロの国土は正方形の塀で囲まれている。そしてきっちりと北から時計回りに八つの区があり、それらの上に立つオーロの中枢、首都と呼べる計画都市の『ロムス』が国土の中央に存在するという作りになっている。
成立は約千年前。隣国であり現在は同盟国であるアルジェント、正式には『軍事国家アルジェント』とは長い歴史の中で争ったりすることもあったが、今はもう、同盟国としての歴史の方が圧倒的に長かった。
エオンは国外に出たことがあっても、アルジェントという国が実際にどのようなものであるかは見たことがない。軍事という名前がついているくらいだから、よほど自分たちの力に自信があるのだろうとは感じていた。なにせよ、投石器から銃火器を作り上げるほどの歴史と技術力を持っている国だ。
オーロはそれに比べて武力に関してはアルジェントに劣っているが、科学帝国という名に恥じない高度な科学力を有していた。病やケガの高度治療、筋電義手、発達した電信網、そして超越者に対する研究。それらをアルジェントにも提供していた。武器を得る代わりに、科学技術を提供する。二つが混ざってより発展する。
「おい、オマエラ。なにイチャついてんだ」
二人の戯れに文句を言いながら入ってきたのは、細身で背の高い青年だった。外へ色を逃がさない長い黒髪を一本の三つ編みのおさげにし、人形のようだけれど男性らしさを感じさせる顔立ちに、血の色がそのまま浮いたような瞳。インバネスを改造したとんびと呼ばれるコートを羽織り、その下にはアルジェントの軍服を改造したものを着ている。
変わった格好に見栄えのする顔立ち。実に目立つ彼の名は、バルトロ。二十代後半に見えるも、正確な年齢は不詳。かなり長い年月を生きてきている、超越者の中でもかなり特殊な種族の『吸血鬼』だ。
「ば、バルトロさんいつの間に……」
面倒なところを見られてしまったと、エオンは後悔する。キュアは顔を真っ赤にしてカレシから離れ、咳払いをした。
「いつの間にって……ちゃんとノックしたぞワシは」
「う、ウソだ……」
「ウソ言ってどうする。まったく、若者は盛りおってからに」
「そういうバルトロさんだって若い頃はどうだったんですか?」
ちょっとした抵抗を試みてみるも、
「今と変わらず血ばっかり飲んでたよ。割り切ってくれるなら別だけどな」
と簡単に流されてしまうのだった。あまり人付き合いが好きではないということは、これまでの付き合いからよくわかっていた。それでもなんだかんだとエオンの面倒を見てくれる、少し捻った面倒見の良い性格だった。
こつこつと二人に向かって歩くバルトロ。そんな彼が近づいてきて、もう恥ずかしさに耐えられなくなったのか、キュアは獣に変身してしまう。
大型の犬の姿。髪の毛と同じ色の量の多い体毛に覆われ、バイアイがきらめく。
「おいおい、犬っころになってビビリすぎだろ」
「い、犬っころじゃない」
どこか体型や牙に狼の特徴も感じさせる彼女は『ワーウルフドッグ』 中でも狼の血量が多いタイプ。
ワーライガーなどと違って、圧倒的に混ざりやすく生まれやすい種族だった。
「狼の血量が多くたって、見た目は犬だろう」
「ワーウルフドッグ!」
「はいはい。まあワシからすれば犬でも狼でも犬っころに違いないがな」
「くうう……」
そんな犬の姿になったキュアに手を伸ばすのが一人。そっとゆっくりと毛並も触り心地も良い身体に。
「ぎゃっ!」
「ああー今日も元気だ違いない」
「何がよっ!?」
わしゃわしゃするのではなく、手でとかすようにして彼女を撫でる。
「毛並でキュアの体調わかるからねー。昨日の疲れはないか?」
「こんな程度で感じるもんですか」
目の前でまた仲睦まじくし始めた二人にバルトロは頭を抱え、それから鞘に収めたままの刀で片方、エオンの頭を軽く叩いた。
「ん?」
「ほら、お前が頼んでいたやつだ。手入れが終わったんでな。あ、ついでにこっちもやっておいた」
バルトロがエオンに渡したのは二口(ふり)の刀。一口はいつも使っているもので、もう一口は白い柄と鞘に金の佩緒という、とても派手なもの。
「わあ、エオンこれ何? いつものより長くて反ってる」
「えっと、なんでしたっけこれ?」
教えただろうという視線を向けたあと、面倒そうにバルトロは言う。
「太刀ってヤツだ。刀にも色々種類があってだな……ああ面倒だ。もう一度言うがな、ワシが少し改良を加えてあるが、普段使っている刀とは使い勝手が変わるぞ。基本的にはいつものを使え。あと携帯するときはベルトに差すんじゃねーってのは、まだ覚えているか?」
「ああ、それなら大丈夫。怒られながら練習しましたからね」
そういってぱぱっと手際よく太刀を佩く。しっかりと佩緒が締められていて、これならば大丈夫だろうとバルトロは満足そうに頷いた。確かめてもらい、エオンはすぐにほどいた。
「主導者としては目立ついい武器ではあるな」
「でしょう?」
「が、とうの昔に実戦の主役からは退いた武器だ。もしものときに使え」
「それはこいつだってそうでしょう?」
いつもの刀を見せつければ、
「そうだけどな。まったく、もうちょっとは銃火器を使ってくれ」
「手ごたえがないのはどうも」
「良いのか悪いのかわかんねー趣味だ……嫌いではないがな」
そんな二人のやりとりにキュアが割り込む。
「ああーっ、わけわかんない話しないのーっ」
まだ犬の姿から戻っていない。尻尾を不機嫌そうに振り回し、時折吠えた。昂ると無意識に出てしまうものらしく、その度に彼女は恥ずかしさで身体を小さくする。エオンもついつい獣に変身し、一吠えした。
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