事故と決闘
燃え盛る炎。
闇を焦がす火焔の宴。弾ける木の音。肉の焼ける匂い。照りつける熱に、少年は顔をしかめる。
「母さん! アイカ!」
少年は愛する母と妹の名を呼んだ。だが、帰って来たのは沈黙のみだった。自分の家が燃えている。何かしなければ、家族の無事を確かめなければ。臓腑が抉られるような熱を帯びた焦り。だが、体は、足は、痺れが走って全く動こうとしなかった。
「……坊っちゃま」
蚊の鳴くような声。少年の家に代々仕える爺やの声だ。少年は全身を耳に眼に変えて育ての親とも言うべき敬愛する爺やの姿を探した。
門の近く、門柱にもたれるように、その老人の姿があった。炎に照らされるその影が朽ちた樹木のように地に崩折れた。
「爺や!!!」
叫んで掛け寄り助け起こす。背を支えた掌がぬるりと濡れた。ぷん、と鉄のような匂いが鼻を突く。
「爺や! しっかりして! 爺や!」
「お逃げくだっ……さい坊ちゃま。護り切れなかった……アイカ様はもう……申し訳ありません……」
「母さんは? 母さんはどこ?」
「シノブ様は……蔵に。アレを……護る為に……しかし行ってはなりません坊ちゃま。お逃げ……くだ……」
爺やはこと切れた。
少年は爺やを優しく地面に降ろし、涙を拭うと燃え盛る火を縫うように奥庭の蔵へと走った。
少年は見た。
死んでも見たくなかった光景を。
「か……あ……さ……」
そこから先の叫びは、言葉にはならなかった。
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「転校初日から遅刻とは……中々にユニークなスタートですね」
目の前の黒髪の令嬢はそう言ってころころと笑った。
ネオ・ネリマ商業高校本館。
生徒会室はたかが学生活動の執務室とは思えない豪奢な作りだった。ふかふかの織物の絨毯。ロココ様式の気品溢れる家具類。黒檀製と思しき重厚なデスクの向こうにいるのは生徒会長、ナスターシャ・ヤマシロだ。均整の取れたプロポーション、陶磁器のような白い肌。匠の作のビスクドールのような柔らかく美しい顔立ち。総数3400余名の生徒を統べるに相応しい、正に女王の風格だった。
対して左頬を赤く腫らし、ずぶ濡れのゲンヤは手を後ろに組んで直立していたが、周囲の気高さに比べ自分の余りの見すぼらしさに、居るだけで罰ゲームを受けているような気分だった。
「申し訳ありません」
「遅刻の理由をお尋ねしても?」
「寝坊です」
「左頬の腫れは? なんだか手形のようにも見えますけれど」
「ちょっとした事故で」
「……なるほど」
ナスターシャは席を立つと、ゲンヤの周囲、そのすぐ近くをゆっくりと歩き回る。ゲンヤの頭の先から爪先までを愉快そうに眺めながら。
「わたくしに、本当のことは仰ってくださらないの? 取猫ゲンヤさん」
「嘘は言っていません。生徒会長」
「実はある女生徒から申し出があったんです」
ゲンヤはしまった、という顔をした。見た目より食えない生徒会長のようだ。
「登校中に五人の暴漢に襲われ、危うい所を転校生の男子に助けられた、と。諸事情で殴り倒してしまったが、遅刻して来ても不可抗力事由として許してやって欲しい、とね」
「寝坊しなければ、その場には居合わせませんでした」
「見捨てて登校することもできましたよね?」
「できるわけがないじゃありませんか」
「結構」
ナスターシャは微笑むと、デスクに戻った。
「聴いていた通りの方のようですね。取猫ゲンヤさん。何故、女生徒をお庇いに? あなたの事を殴り倒した相手でしょう」
「故あって詳細は伏せますが、彼女には不随意ながら大変な失礼をしたので。俺は殴られたこと自体は納得しているんです」
ゲンヤの答えを聞いて、ナスターシャは満足そうに、にっこりと笑った。
「ようこそ。イグゼコマースへ。歓迎いたしますわ」
ナスターシャは優雅な動作でデスクの上の銀の呼鈴を鳴らした。生徒会室とその隣の部屋とを繋ぐ扉が開き、トレイを両手で支える眼鏡の男子生徒が現れた。トレイの上には大きく「5」と書かれた樹脂性の青いカードと濃紫の風呂敷包み、紺の布袋に包まれた長い棒状の何かが載っていた。眼鏡の男子生徒は一式を机に置くとナスターシャに一礼し、場を辞した。その背中にナスターシャがありがとう、と礼を述べる。
「カードはIDです。PANと呼ばれる生体伝導技術の応用で、身につけているだけでレベル5までの扉が開きます。これを身につけなければどこにも行けませんが、逆にこれを身につけている間はあなたがいつ、どこにいたか。どういう動きをしたかが学園の総務の端末に全て記録されます。露見して咎めれるような行いはなさらないように」
「分かりました」
濃紺の布に覆われた棒状の物を差し出しながら生徒会長は言う。
「こちらは……お預かりしていたものです。許可も申請しておきました。数日でメールが行くと思いますので手続きの完了をお忘れなきように」
「ありがとうございます」
「本家からも、また学園理事会からもお話は伺っています。あなたの商業能力は『武芸全般』『格闘興行』『ボディガード』と登録しておきました」
「御高配痛み入ります」
「でも、本当によろしいのですか? あなたの本当の能力……公開すれば沢山の協力者か現れて、あなたの本当の目的も達成しやすくなるのでは?」
「あなたもその一人……ですか? アート学部三年、舞台劇科のナスターシャ・ヤマシロ先輩」
「どうかしら」
「能力を公開して、集まってくるのは俺の協力者じゃない。俺に協力【させたい】人たちです」
「的を射た見解ですわ」
「恐縮です」
ゲンヤは最後の包みを手に取る。どうも布の塊のようだった。
「それはサービスです。我が校のジャージと体操服。本来なら有料なのですが、女生徒を助けてくれたお礼に」
なるほど、確かに真新しいジャージの上下と短パンとシャツが入っている。
「そのままでは風邪を引きますよ。出て左の突き当たりがシャワールームです。生徒会スタッフ専用なのですが、特別に許可しますのでご利用なさい。シャワーを浴びて、新しい服に着替える。昼休みを挟んで午後からは生活委員に校内を案内させましょう」
「何から何まで、ありがとうございます」
「いいえ。これも生徒会長の職責の……あら?」
「どうされました?」
「お気になさらないで。ちょっとしたデジャビュです」
「はあ」
「では三十分後にまたこちらにいらしてくださいね。生活委員と引き合わせますから」
「分かりました。生徒会長」
ゲンヤは荷物を携え、美しい生徒会長に礼をすると、生徒会室を後にした。
「なんでしょう」
生徒会長ナスターシャ・ヤマシロは、ぽつりと独りごちた。
「何か……忘れているような」
---------------
全裸になったゲンヤは備え付けのタオルを肩に掛けると、からら、とシャワー室の引き戸を開いた。
「全く……朝から散々な目に……」
言いかけて顔を上げる。
中から出てこようとした人物と目があった。
「あ……」
さっき共に戦った少女だった。さっきと一つ違うのは、彼女が一糸纏わぬシャワー上がりの姿だと言う点だ。
固まった二人の顔色が変わる。ゲンヤの顔は蒼白になり、少女の顔は紅潮した。
---------------
「思い出したわ。シャワー室は先程ペンドルトンさんにお貸ししていたんでした。誰か。誰かおられませんか」
「お呼びですか。会長」
さっきゲンヤに荷を運んで来た眼鏡の生徒が扉から現れた。
「ごめんなさいね武田さん。実は……」
その時。生きたまま二つに引き裂かれる雌象の叫びのような悲鳴がフロア全体に響き渡った。
「今の悲鳴は……?」
武田と呼ばれた生徒が怪訝な顔で外を窺う。
「ペンドルトンさんの声でしょう。大丈夫。少し驚かれただけでしょうから」
「そうですか。時に会長。御用向きは?」
「下がって頂いて結構です。たった今、私の用向きそのものが消滅致しました」
---------------
(どうして、こんなことに……?)
目の前には怒りに顔を紅潮させたブレザー姿の美しい少女。手には細身の剣を象った携帯端末が握られている。びしっとその切っ先が自分に向けられる。
「抜けェッ!! 腰のそれは飾りではあるまいッッ!? 」
彼は自分の左腰の刀の柄を見た。
さっき生徒会長から受け取った紺色の包みの中身は、今は彼の腰のベルトからホルダーで吊られていた。
「これは……」
一度は柄の近くまで右手をやった彼だったが、ふ、と苦笑いするとその手を元の位置に戻した。
「まだ重ねて私を愚弄するか⁉︎ もはや問答無用‼︎ 返答はその刀に聴く!!!」
少女の持つ剣型デバイスの剣身に無数の文字が煌めいた。タメを生ぜぬ体重移動から迷いのない踏み込み。訓練された体の運びだった。
(どうして、こんなことに……?)
転校初日。剣を振り上げて迫り来る美少女の動きを目で追いながら、転校生、取猫ゲンヤは再度自問した。
鋭い斬撃。
最低限の動きでゲンヤは躱す。
「この決闘は経済行為じゃない。あんたの斬撃も俺には効かないんじゃないか?」
「私は作家だ。この剣の表面の文字は未発表の短編。その市場価値分の威力を……持つ!!!」
ひょい、と躱したゲンヤの後ろ、本館中庭の街路樹が斜めに両断されてその上半分がざざざざざ、と倒れて落ちた。
「抜けッ! 取猫ゲンヤ‼︎ 貴様の商業能力は武芸全般・格闘興行・ボディガードで登録されている筈! その刀の技の市場価値が貴様の攻撃力だ‼︎」
「なるほど……」
次々繰り出される生きた斬撃。作家を名乗りながらこの娘は、正当な剣術の訓練を受けているのに間違いなかった。しかし刀を抜かず体捌きと足運びだけでそれを躱し続けるゲンヤも只者ではない。
「朝の奴らはなんであんたに手出しできなかったんだ?」
「奴らはあれでも現代アート学部だ。審査員を金で抱き込んで、ゴミに適当なタイトルを付けて売り捌いていた。私がそれを質した。奴らのアートなどでは虫を殺すこともできん!!!」
「逃げ方だけは芸術的だったな」
「抜けと言っているッ! 王族の一員としてこの恥辱を濯ぐ手段は名誉ある決闘の勝利のみ‼︎」
「王族? 作家で剣士で王族か……あんたも忙しい女だな」
「やかましい! 抜けと言ったら、抜けえッッッ!!!」
大振りの斬撃を躱す。
その次の瞬間、大きく退き間合いを取ったゲンヤは刀の柄に手をやると少女を向こうに、鋭く気合いの声を上げた。
少女は、ごう、と自分に向かい風が吹いたように感じた。びくり、身を強張らせる。あまりの殺気に彼女の本能が剣士のプライドを越えて危険に警鐘を鳴らしたのだ。
するり、と流れるようにゲンヤが動く。無拍子と呼ばれる技術だった。少女は容易くゲンヤに接近を許した。退きながら防御の為に剣を回そうとした正にその時、
しうっ
踏み込み後の低い姿勢から、ゲンヤは逆袈裟に刀を抜きはなった。防御はとても間に合わない。骨のない脇腹を経て肋骨を破砕し、肺や心臓を両断する必殺のモーションだった。
反射的に少女は死んだ、と思った。
だが、彼女を永遠の闇へと誘う筈の痛みも衝撃も、いつまで経っても彼女の身には降りかからなかった。
恐る恐る目を開けると、そこには斬撃後の姿勢のままのゲンヤが彫像のように佇んでいた。
少女は自分の身体を確かめる。怪我どころか服の解れ一つない。
「その刀は……⁉︎」
少女が見たゲンヤの手の刀は、鍔から10cm程の所で綺麗に折れ、そこから先の刀身は失われていた。
「驚かせてすまない」
表情を緩めたゲンヤは、構えを解くとくるりと手元で折れた刀を回してぱちり、と鞘に納めた。
「見ての通り、この刀の技に市場価値なんてねえんだ。頭首に受け継がれる先祖伝来の品でね。ま、御守りみたいなもんさ」
「それならそうと……」
「言ったら聞いたか?」
「…………」
「恥ずかしい思いをさせたのは謝るよ。本当にすまなかった」
ゲンヤは気を付けの姿勢を取ると、きちっと頭を下げた。
「今朝のさっきで信じて貰えないかも知れないが、本当にわざとじゃないんだ。生徒会長に確かめてくれ」
「ゲンヤの言うことは本当です」
そこに生徒会長ナスターシャ・ヤマシロが現れた。
「御免なさいねペンドルトンさん。私ったらあなたにもシャワーを勧めたことをすっかり忘れて。ずぶ濡れの方が二人も続けて訪ねて来るなんて、滅多にないことなものだから……」
「ナスターシャ……」
「………」
ゲンヤは黙っていたが、この決闘が、生徒会長の仕組んだ罠だと感じた。生徒会室で、暗に自分の本当の能力に触れるな、と牽制したことへの意趣返しだ。おまけにいつの間にか下の名前を呼び捨てにされている。
「だから、ゲンヤを許して差し上げて。ペンドルトンさん。それにあなたも彼の、その……見たのでしょう?」
剣を鞘に収めながら見る見る赤くなる少女。
「し、知らん!」
「ならお互い様よ。不幸な事故と言うことで、ね。はい。仲直りの握手」
にっこりと微笑んだナスターシャは、二人の右手を強引に取ると、握手をさせようと近づけた。
二人の差し出した掌。その先端の指先。距離はゼロに近付き、互いに触れるか触れないかの距離になった時──。
唐突にゲンヤが動いた。
生徒会長を突き飛ばし転ばせる。
差し出されていた少女の手を強く引き、自分の懐に引き込むと彼女の身体を強く抱きしめた。少女は息を飲む。心臓がどきりと跳ね上がり血は疾駆して体温が上がった。抗議の言葉を紡ごうとした少女の試みはゲンヤが少女と共に倒れ込んだ為に失敗した。彼女の口から漏れたのは、きゃっ、と言う悲鳴だった。
びしっ、と何かがゲンヤに当たった振動を彼の身体越しに少女は感じ取った。ぱっ、と目の前に赤い飛沫が上がる。ターンッと何かが弾ける音が、それに続いた。
狙撃だ。
少女がそう理解するのと、彼女を強く抱きしめたゲンヤが完全に地面に倒れたのとが同時だった。
「武田さん!」
ナスターシャが他の生徒を呼ぶ。
「会長!」
「私は大丈夫。人手を。二人を中へ。最優先よ。安全を確保した後、衛士を呼びなさい。その後管理局へ連絡して救急を。理事会への連絡は最後でいいわ。急いで」
「は! 上杉! 織田! 二人をお運びしろ!」
「はい!」
「私は平気だ!」
倒れて動かないゲンヤの下から這い出た少女は、そう言うとゲンヤの体に縋り付いた。
「取猫ゲンヤ、しっかりしろ! 聞こえるか⁉︎ 目を開けるのだ!」
「お下がり下さいペンドルトン様。我々が運びます」
「うるさい! 私が運ぶ! 衛士と救急を早く呼ばんか!!!」
少女はゲンヤの腕を取り担ぐように持ち上げると、その重さに耐えるように校舎に向かって歩き始めた。
少女の背中に負われるように運ばれながら、ゲンヤは小さく呻いた。
「……姫さん……」
「気付いたか。気を強く持て。すぐに救急が来る」
「あんたは……無事か」
「……馬鹿が。人の心配をしている時か。余計な真似をしおって。あんな低レベルな狙撃、キミに助けられずとも避けられたものを」
「……そうかい」
うわ言のような頼りない声でそう言ったゲンヤは、少し笑った。
「ああ、そうだ」
「そりゃ悪かった。押し倒したりして……済まなかった……な」
「もう喋るな。傷に響く」
「ああ……あんたの髪の匂い……なんだか気持ちが……落ち着……く……」
ゲンヤの体が力を失う。背負う重みが、ぐ、と増した。
「おい。キミ!」
返事はない。
「おい! しっかりしろ! 取猫ゲンヤ! ゲンヤ! 嘘でしょ⁉︎ ゲンヤ! ゲンヤ!」
彼を背負う背中に、温かな液体が染み渡ってくるのを、彼女は感じた。
「ゲンヤァァァァッッッ!!!」
少女の涙混じりの絶叫。
だがそれに応える者は、いなかった。
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