少女と陽光
「あなたの力は素晴らしいわ、ゲンヤ」
光。温もり。なんだか落ち着く甘いような清潔なような匂い。ゲンヤは誰かに優しく抱かれていた。
「だけど今の時代、その力は狙われる。あなたの力が知れ渡ればあなたを巡って争いが起きる」
さわ、と髪が撫でられる。くすぐったいような恥ずかしいような感じがして、ゲンヤははにかんだ。
「力を隠しなさい。賢いあなたなら上手にできる。本当に信じられる相手に出会うまで。そしてあなたが、その相手を護れるくらいに強くなるまで──」
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敵のケンカ屋はゲンヤより二階級程大きな体格で、それを根拠に自分が負ける筈がないと考えているようだった。
ケンカ屋は怒れる牛のように突進しながら筋力に頼った大振りのパンチを繰り出して来た。道場で共に技を研鑽して来た仲間達に見せてやりたくなるような、悪い見本のテレホンパンチだった。
巨漢が半回転しながら宙を舞った。
攻撃を躱しながら相手の手を引き込み、足を掛けたゲンヤが体を入れ替えるようにしてつまづいた巨漢に回転を与えたのだ。
ずしん、という地響きとぐしゃ、という音が重なって響いた。
巨漢のケンカ屋は腕を捕られていたために満足に受け身が取れず、顔から地面のケイ素ボードに突っ込んだ。派手な水飛沫が上がった。
ゲンヤは一歩離れると、相手の様子を観察した。巨漢の纏っていた赤い光──経済行為発光は弱々しく、消える寸前だった。どうやら商業価値が下がると、光も弱まるようで、ゲンヤは妙に納得した。だが、相手はそれでも起き上がって来た。
顔面は地面との摩擦で傷だらけで右目の周辺は腫れ始めて色が変わっていた。鼻血は降りしきる雨に洗い流されながら、それでも鼻から止めどなく流れ出続けていた。なんとか立ち上がった巨漢だが、けんけんをするように左足を引きずっている。どうやら足を痛めたようだ。一度そうなってしまうと、彼の巨体と体重それ自体が彼に取って大きな枷となるのは間違いなかった。
「もうやめとけ。あんたの負けだ。このケンカで幾ら貰えるか知らないが、その足の怪我と釣り合う額か? 俺の見立てじゃその足、早く医者に診てもらわないと下手すりゃ一生痛むぜ」
巨漢は低く唸って動きを止めた。
彼のプライド、体の其処彼処のダメージ、職業責任、ゲンヤの言葉……様々なものが彼の中で拮抗し、膠着しているようだった。
「何やってるケンカ屋ァァッ⁉︎」
離れて取り巻くように戦いを見ていた不良の一人が叫んだ。
「こっちゃ大枚はたいてんだ! ここでケツ捲って見ろ! てめえネオ・ネリマじゃ一生商売できないようその無様な負けぶりを触れ回ってやるからなァ!!!」
拮抗は崩れた。
ゲンヤは舌打ちした。
切れ切れに雄叫びを上げ、足を引きずりながらこちらに向かってくる巨漢のケンカ屋。ぶんぶんと振り回す丸太のような腕も水を跳ねながら体を前に押し出す足も、先程までの威勢の良さは皆無だった。
ゲンヤは雨と一緒に息を深く吸い込むと、目を閉じ腰を落として呼気が体躯に染み渡るのを確認した。筋肉が、体組織が攻撃準備良しを告げたのを感じたゲンヤは、か、と目を見開いた。
傷付いた自暴自棄の巨漢に捉えられるゲンヤではない。交錯する両手のパンチの間に短いステップで体を滑り込ませたゲンヤは、その二の腕をつい、と引いて巨漢を前につんのめらせた。
懐に飛び込んだゲンヤ自身は大地を強く踏みしめ、その力を捻るように体を伝わらせた。そして呼吸と筋肉の発力、大地の反発力を打突の力に上乗せした肘を巨漢の鳩尾に叩き込んだ。
こぉーん、と金属を叩いたような澄んだ音色が木霊した。
げぶおっ
巨漢は血の混じった透明な液体を吐くと、どう、と雨の空き地に倒れて動かなくなった。
「これはさっきのあの子の分」
言ったゲンヤは学生手帳を取り出すと、メモのページにさらさらと何かを書き付け、びりりと破いて倒れた巨漢の上にひらひらと舞落とした。途端に雨がその紙片を巨漢の額にぴったりと貼り付ける。
ケンカ一膳 確かに受理致しました
取猫ゲンヤ
「とっときな。ケンカの受領書だ」
ゲンヤがそう言った瞬間、その身体を包んでいた経済行為発光の炎が消えた。
「畜生! これで勝ったと思うな!」
不良達は口々に安っぽい語彙の罵倒を残して逃げ出した。
「あ、おい! こいつはどうすんだ⁉︎ ちっ……行っちまいやがった」
雨は止み始めていた。
ぱらぱらと弱くなった雨粒の中、ゲンヤはブレザーを直すと、壁際にへたり込んだままの少女に向き直った。そのままスタスタと少女に近寄ると、屈み込んで顔を近づけた。
「大丈夫か。具合は?」
「ああ。助かった。痛みはあるが、今は普通に呼吸が……ひっ⁉︎」
少女は息を飲んだ。ゲンヤが何の説明も無く、少女の鳩尾の辺りに手を当てたからだ。
「な! 何を……⁉︎」
「動くな!」
ゲンヤは探るように僅かに指先を動かした。その感触に息が漏れそうになるのを、少女は全身全霊で我慢した。
「うん。折れてはいないようだ。あんた器用だな。打たれる瞬間に後ろに跳んで力を逃したのか」
手を離したゲンヤは感心したようにそう言った。俯きながら少女は勝ち気に言い返す。
「あ、当たり前だ。それくらいの基礎は身に付けている」
「上等。だがもう少し休んだ方が良さそうだ。タリスマ、持ってるか?」
「持っているがカバンの中だ」
「借りるぞ」
立ち上がったゲンヤは路地に放置されていたカバン一式を拾い上げた。
「チャックのポケットだ」
「あった。ロックを開けてくれ」
渡された透明のスティックの数ヶ所に少女が指を当てるとスティック全体が仄かに光り出した。
「長電話はしないよ」
「構わないが……何をする気だ?」
「救急車を呼ぶんだ。アイツの足の怪我、後を曳いたら気の毒だろう」
ゲンヤは顎で倒れたままの巨漢を示した。
「変わったヤツだな。君は」
「お互い様さ。転校して来たばかりでね。この場所はなんと言えば通じる?」
「セクターH-18のトワイライト跡地、と言え。キミのタリスマは? 」
「セクターH-18、トワイライト跡地、だな。寝坊して慌てて出たんだ。まんまと家に忘れて来た」
ゲンヤは端末で管理局を呼び出すと、名前は名乗らずに救急車の手配を頼んだ。
「トワイライトってのはなんだ? 喫茶店か何かか?」
透明なスティック状の携帯端末を一度手で拭い、少女に返しながらゲンヤは尋ねた。
「八百屋だよ」
「八百屋とは分かりにくいネーミングだな」
「だから潰れたんだ」
少女の言葉に二人は顔を見合わせて、吹き出すように笑った。
その時だった。
ゲンヤの身体が足元から逆さになって吊り上がった。
倒れていた巨漢が身を翻し、ゲンヤの足首を掴んで持ち上げたのだ。
「うろろろろろッッッ!!!」
巨漢は意味の分からない叫びを上げた。正気を失ってるようだった。
ゲンヤは自分の足を捉える巨漢の腕を蹴り、また届く範囲の身体を殴り付けたりしたが、全くダメージを与えることができない。受領書を切った時点で、ゲンヤの商業ケンカは終わってしまっているからだ。
「私のケンカに協力しろ!」
壁を背中で拭くようによろよろと立ち上がりながら、少女が叫ぶ。
「報酬は10万ピフ! 承諾か否か⁉︎」
「座ってろ! あんたには無理だ!」
「いいから早く! 承諾するんだ! 私を……信じろ!」
「……承諾する!」
「契約成立だ」
途端にゲンヤの身体に経済行為発光の灯が灯る。
ゲンヤは敵の親指の付け根を狙い、自分の両足で挟み込むように強烈に踵を打ち付けた。骨が砕ける鈍い感触がゲンヤの足に伝わって来た。手が離れ放り出された彼の体は濡れたケイ素ボードに叩きつけられ数メートルを滑ってユニットブロックの壁に激突した。
今度はゲンヤが呼吸困難で咳き込む番だった。
それでもゲンヤは、少女の助けに入ろうと身を起こそうとし、顔を上げた。
刹那。彼は視た。
居合の構えから少女が剣を抜き放つその瞬間を。雨を断って飛翔する円弧の衝撃波を。その三日月型の紅い光の刃に、何万何十万と言う細かな文字列が煌めくのを。
文字の三日月は周囲の壁に音を立てて斬撃の跡を穿った。
その途中に、巨漢のケンカ屋の身体があった。ぶばっ、と血を吐いた巨漢は再び倒れ、微動だにしなくなった。ケンカ屋を覆っていた微弱な経済行為発光も、完全に消えた。
「ふう……」
息を吐いた少女は剣を杖のように地に突くと、がくりと膝を落とした。
「大丈夫か?」
起き上がったゲンヤは彼女に肩を貸そうと駆け寄った。
「ああ。キミの方こそ……」
怪我はないか、と少女が言葉を継ごうとした時、こん、とゲンヤの爪先が少女が杖と頼む剣の先に当たった。途端に剣先はケイ素ボードを滑走した。
「あっ⁉︎」
少女はバランスを失って倒れるモーションに入る。咄嗟に当たった足を引いてゲンヤも巻き込まれてバランスを崩す。支えようと出したもう一方の足は濡れたケイ素ボードに取られて明後日の方向に滑って行った。
二人は縺れるように倒れ込んだ。
雨は止み、米ジェルの人工の陽が辺りを明るく照らし始める。
真っ白なパンティがその陽の光に白く輝く。ゲンヤはそのパンティに顔を埋めている自分を発見し、弾けるように身を起こした。
少女は口を開けたまま、この世の終わりを見たような表情のまま凍りついていた。
「ごっ……誤解だ! 今のは……」
「きっ、きっ、きっ…………」
キャァァァァァァッッッ!!!
耳をつんざく女の悲鳴。
痛烈なビンタの音がそれに続いた。
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