9-3
バス停の近くまで来ると、前から見覚えのある人物が歩いてくるのが見えた。ここに来る前、霊園行きのバスについて教えた老女だ。
「あら、貴方。さっきはどうもありがとう。お陰様で、ちゃんと着けたわ」
老女がサングラスの下に深い笑いじわを浮かべる。僕は「どういたしまして」と返事をする。この老女がここにいるということは、バスは着いて出て行ったばかりということ。そう考えると、逸る気持ちが少し落ち着いた。
「お墓参りはもう終わったの?」
「ええ。それで妻が身重なので、早く帰ろうかと」
「それは大変ね。早く帰った方がいいわ。バスは行っちゃったばっかりだけど」
老女が笑う。だけどすぐ、ふっと物憂げな表情になると、僕に質問を投げた。
「ねえ。一つ、貴方にお聞きしてもいいかしら?」
「なんですか?」
「さっき言っていた『花瓶を割る人』の話、誰から聞いたの?」
予想外の質問に、僕は硬直する。そんな僕を見て、老女は何かあると察したのか、神妙な顔で語り始めた。
「私、この街に住んでいた時ね、夫と子どもがいたの」
住んでいた時。つまり、この街から出たらいなくなった。あるいは、いなくなったからこの街から出た。――答えは、後者だった。
「だけど子どもが事故で亡くなって、それから夫がおかしくなった。あの子は死んでないから墓は要らないとか、訳が分からないことを言い出すようになった。話が全く噛み合わなくなって、私は結局その夫と別れて、引っ越して人生をやり直したわ」
事故で死んだ子ども。おかしくなった父親。別れてこの街から出て行った母親。
「今日は、その元夫のお墓参りなの。どうやら養子を取ったみたいで、その子から訃報が届いた。ずっと会ってなかったから今更とも思ったんだけど、おかしくなった元夫を私は見捨てたのだから、それぐらいはしてあげることにした」
訃報を送りたい相手。僕は二番。では一番は――
「どうしてこんな話をしているのかと言うとね、『花瓶を割る人』の話、私はその元夫から聞いたの。貴方と別れてから思い出した。たぶん、貴方と同じ人よ。田原幹久。そうでしょう? 今日のお墓参りも、その人なんじゃない?」
老女が近寄り、僕を見上げた。僕からは斜めに見下ろす形になり、サングラスの下から右目の泣きボクロが覗く。
「先生、じゃないのよね。貴方とその人、どういう関係だったの?」
関係。一人暮らしの老人と近所の小学生。秘密基地の提供人と使用人。ボロボロの花瓶の所有者と破壊者。
――いや。
「先生ですよ」
僕は、天国のじいちゃんにまで届かせるように、強く言い切った。
「人生の、先生です」
ふざけているのではない。そう伝えるように、僕は視線を強める。老女はサングラス越しに視線を正面から受け止め――ゆるゆると首を振った。
「分かった。なら、それ以上はいいわ」
察して、退く。老練な判断に僕は心から感謝する。そして老女は、ついさっきまでの話などまるでなかったかのように、なかったことにするように、明るく喋り続けた。
「産まれてくる子どもは男の子? 女の子?」
「女の子です」
「名前は考えてあるの?」
「いくつかは」
「なら一つだけ助言させて。お花の名前が入っているといい。きっとお花みたいに心の美しい、素敵な女性に育ってくれる」
老女が、いつか見た写真のように、少し照れたように笑った。
「私の名前にも、入っているのよ」
――知っていますよ。
僕は貴女のことをよくは知りませんが、貴女の存在は知っています。この先、ガラの悪いチンピラみたいな男が貴女を待っているので、そいつに色々と話してやって下さい。きっと貴女の知らないあの人のことを、沢山、話してくれるはずです。
「なるほど。道理で、素敵な女性だと思いました」
あら、お上手。老女が口に手を当て、朗らかな声を上げた。
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