4-3
ぼくがそれに気づいたのは、午後の授業が始まってからだった。
最初は勘違いかと思った。だけど何度も確認して、確信した。集めて机の中にしまっておいた『森の思い出』の用紙が無い。
ぼくは真っ青になった。あれがなくなったらテレビ取材が出来ないどころの騒ぎではない。ぼくが安藤さんに頼んでやってもらったことの全てが無駄になってしまう。ぼくの秘密基地が、また一歩、崩壊に近づく。
半泣きになりながら、教壇の上で算数の問題を解説する先生に見つからないように用紙を探す。でも見つからない。もう授業なんか全て忘れて机の中をひっくり返したい。そんなことを半分本気で考えはじめた時、視線に気づいた。
涙目のぼくをにやけ顔で眺める、石田の視線に。
――あいつ。
目線がぶつかり、石田の笑みが深まる。隠す気も隠れる気もないことを示す笑顔。ペットの犬や猫に意地悪をして、その反応を楽しむような笑顔。おれがかわいがってやる。薄気味悪い台詞が脳内に蘇った。
怒りを握りしめて留めるように、ぼくは拳を握った。反応したら負けだ。でも悔しい。許せない。ぼくは授業そっちのけで葛藤した。先生に当てられてしまい、問題が解けないどころか、どこのことを言っているか分からなくて戸惑った。教室中から笑いが起こり、ぼくはその恥ずかしさも、石田への怒りに換えた。
日直の号令で休み時間に入るや否や、ぼくは足早に石田のところに向かった。ほおづえをつき、ぼくをじっと見つめる石田に、ぼくは言い放つ。
「返せよ」
石田は、しれっと答える。
「何のこと?」
ふてぶてしい態度。ああもう、本当に、今すぐ飛びかかって殴りつけたい。
「反対運動で集めた紙、盗んだだろ」
「知らないなあ。自分で無くしたものを人のせいにするなよ」
「ずっと机の中にしまってたんだ。誰かが盗まなければ、無くなるわけがない」
「じゃあ、他のやつが盗んだんだろ」
「お前しかそんなことするやついないんだよ!」
ぼくは叫んだ。ただならぬ雰囲気に教室中が静まり返る。またあいつらか。視線にそんな言葉が乗っかっているのが分かる。
「ここ、話しづらいから、別のところ行こうぜ」
提案に、ぼくは同意した。教室では派手なことが出来ない。石田をとっちめられない。そんなことを考えていた。ぼくは石田を裁く側で、石田はそれを弁解する側だと思い込んでいた。そんな常識が通用するような相手ではないことは、それまでの行動で十分に分かったはずなのに。
石田は教室を出ると、屋上に向かった。屋上は閉鎖されているからその前の踊り場で話をするのかと思いきや、石田は鍵を取り出し、屋上の扉を開けた。呆けるぼくに、石田があっさりと告げる。
「学校の鍵の管理って、本当にテキトーだよな」
盗んだんだ。やっぱりこいつ、そういうことを平気で出来るやつなんだ。ぼくは石田に対する疑念を確信にまで深めた。それまではまだほんの少し「犯人は石田ではないのかもしれない」とか考えていたのだから、我ながら人が良い。
屋上に出ると、いつもより近い太陽のギラギラした輝きが全身に刺さる。ぼくは光を遮るように手を額にやり、空を見上げた。空の青と雲の白が、頭の中で思い描く空よりもずっと濃い。夏が深まっているのだ。
閉鎖されている場所だけあって、他に人は誰もいない。石田はぼくを置き去りにするようにスタスタと奥の手すりへと向かった。そして手すりに背中を預けると、自らのシャツの下に右手を入れ、そこから紙の束を取り出してペラペラ音を鳴らしながら振った。
「これ、なーんだ」
石田が、紙束を掴んだ手を手すりの外に出す。捨てられる。そう感じたぼくは石田に向かって駆け出す。だけどそんなぼくを石田は「待て!」と一喝し、ぼくは天を衝くような叫びにたじろいで足を止めた。
「止まれ。止まらないと、本当に捨てるぞ」
今度は落ち着いた声。ひゅうと吹いた風に、石田が掴んだ紙束が揺れる。もう少し強い風が吹けば落ちてしまいそうな危うさ。ぼくは石田から数メートル離れたその場で立ち竦み、石田はそんなぼくを見て、満足げに唇を歪めた。
「いい子、いい子」
ぼくの頬がカッとなる。ペット扱いされる悔しさと敵意を込めて、出来る限りの険しい顔で石田を睨みつける。だけど石田は、全く動じない。
「返してほしい?」
石田がぼくに問う。ぼくは「当たり前だろ」と吐き捨てる。ぼくはまだ、自分が正義で石田が悪だから、石田はぼくの言うことを聞くべきという考えを外していない。そんな甘い考えを打ち砕くように、石田が下卑た声で告げる。
「じゃあ、お願いしろよ」
お願い。石田の要求は、さらに続く。
「返してほしいならお願いしろ。ちゃんと返してくださいって言え。そうしたら、返してやってもいいぞ」
他人のものを盗んだくせに、本来の持ち主はぼくなのに、お願い。そんなのおかしい。ぼくは無言で石田をさらに強く睨みつける。すると石田は五本の指で掴んでいた紙束を、中指と親指でつまむような形に変えた。
「本当に、捨てちゃおうかな」
あと指一本。それが外れるだけで、全てがなくなってしまう。ぼくは足を踏ん張り、全身に力を込めて、喉の奥からどうにか言葉を絞り出す。
「……返してください」
「聞こえない」
「返してください!」
やけになって叫んだ。誠意の欠片もない懇願。だけど、ぼくにはそれが精一杯だった。そして石田は、それを許さない。
「お前、土下座って知ってる?」
すうっとぼくの胸が冷えた。続きは、聞かなくても予想出来る。
「やれ。お願いの基本だろ」
土下座。そんなもの、知ってはいるけれど、やったことはない。自分がやると考えたことも、もちろんない。でも石田はそれをやれと言う。簡単に。当たり前に。
「なんで、そんな――」
「やれ」
また一つ、さっきより強い風が吹く。光を反射してパタパタ揺れる紙束が、ぼくを焦らせる。みんなの『森の思い出』。ぼくが書いたんじゃない。ぼくのためにみんなに書いてもらった、大事にしなくちゃならないもの。
ぼくは、覚悟を決めた。
ゆっくりとその場で正座し、一つ、大きく息を吸う。膝の少し前、灰色のコンクリートに開いた手をつける。そしてそのまま、抵抗する自分とそれを屈服させようとする自分のせめぎ合いで内臓を潰されそうになりながら、額を手と手の間のコンクリートにこすりつける。頭のガーゼが地面に触れて、傷口が少し押された。
「返してください」
ここまでやったのだ。もういいだろう。これでいいだろう。ぼくはざらざらしたコンクリートの粗い肌を見つめながら、終わりを願う。だけど石田は「うーん」と納得いかないように呟き、ぼくの後頭部に言葉を吐きかける。
「なんか、いまいちだなあ」
石田はそして「あ、分かった」と言うと、わざとらしく指をぱちりと鳴らした。
「服、着てるからだ」
叫び声をあげたくなった。
全て忘れて、何もかも投げ捨てて、大声を上げて石田に掴みかかりたくなった。もう秘密基地なんてどうでもいい。思考が、そこに到達する寸前だった。ギリギリで踏みとどまったのは、きっと、頭の傷が鈍く痛んだから。
「脱げよ。脱いでもう一回、同じことやれ」
ぼくはのろのろと立ち上がった。紙束をつまんだ石田が、照りつける太陽の輝きを受けて、本当に楽しそうに笑っている。分かった。こいつは悪魔だ。悪魔だから、悪いことをするのが生きがいだから、喧嘩を売って来るんだ。
「早く脱げ。捨てるぞ」
急かされて、ぼくはまずシャツを脱ぐ。石田はまさかそれで終わらせるつもりじゃないだろうなと言いたげに、じっとぼくを見据える。上履きを脱ぎ、靴下を脱ぐ。そして少し戸惑いながらズボンを脱ぎ、白いブリーフパンツ一枚になる。ここまでは体育や結構診断の時と同じだから、別にそこまで辛くない。問題は、次。
剥き出しになった背中がじりじりと灼ける。ぼくは立ち竦んで涙目になり、許しを請うように石田を見やる。石田は視線の意図を的確に察し、そして的確にぼくを傷つける。
「脱げ」
一切の妥協を許さない言い方。ぼくはパンツのゴムに手をかけ、勢いよくそれを下ろした。ちんちんとお尻を剥き出しにする時間を少しでも減らしたい一心で、ぼくはすぐさま跪き、ついさっきと同じように頭を地面にこすり付ける。
「返してください!」
今までで一番、心からの言葉が出た。秘密基地のために用紙を取り返したいのではなく、自分が恥ずかしくて、早くこの時間を終わらせたいから。それまでの人生で感じたことの無い圧倒的な屈辱に、ぼくは身を震わせる。
石田が、重たく息を吐いた。
「分かったよ」
ぼくは頭を上げた。薄く涙の張った目で石田を見上げる。石田はぼくを見下しながら、穏やかな声で告げる。
「意地悪してごめんな。これ、返してやるよ」
石田がにこりと笑った。初めて見る石田の普通の笑顔。ピリピリと張り詰めていたぼくの頬が緩む。元々盗まれたものだというのも忘れて、許して貰えて良かったと、心の底から安堵する。
そして石田はその笑顔のまま、紙束をつまむ中指と親指をパッと離した。
「嘘だよ」
時間の流れが、ゆっくりになった。
束になった紙がはぐれて、一枚、一枚、風に乗って飛んでいくのが鮮明に見えた。目に映る景色はコマ送り。コマが進むごとに、世界は色彩を失っていく。視界から宙を舞う紙が全て消え去った後の世界は、灰色。空の青も、雲の白もない。ただ石田の瞳だけが、ぽっかりとコマ送りのフィルムに空いた穴のように、黒々と存在を主張していた。
石田がけらけらと笑う。ぼくは立ち上がった。もう、何も考えることは出来ない。度を越えた屈辱で塗りつぶされた頭に、浮かぶ言葉はただ一つ。
――殺してやる。
ぼくは石田の胸ぐらを掴み、地面に引き倒した。ざあとコンクリートに布が擦れる音がする。そしてぼくは倒れた石田に馬乗りになる。いつぞやと同じ構図。だけど今度は、ぼくが上だ。
まずはどこを殴ってやろうか。そうだ、あそこにしよう。へその少し上。殴られると苦しくなる場所。自分のしたことの酷さを、自分の身で分からせてやる。
服なんかで守らせない。直接、殴る。ぼくは石田のシャツの裾に手をかけた。すると石田が「やめろ!」と必死な声を上げる。だけどぼくは止まらない。止まるわけがない。
さんざん、ぼくを玩具にしたバツだ。ざまあみろ。ぼくはシャツを思いきりたくし上げて、石田の腹を剥き出しにした。そして――止まった。
変色した肌。
お腹一面に広がるあざ、あざ、あざ。身体の中を流れる血の流れがおかしくなっている証拠。これから殴ろうとしたへその少し上は、特に濃い色をして皮膚が引きつっている。ここを殴ればいいんだよ。そう、教えるように。
棒で叩かれたような赤黒いミミズ腫れもある。何本も、何本も。皮膚の下で本当にミミズを飼っているように、うねうねと身体を這い回っている。石田の身体を、食べ尽してしまおうとするみたいに。
――人間の身体じゃない。
ぼくはそう思った。僕も、少し意味は違うけれど、そう思う。あんな身体をした人間の子ども、この世に一人だって、存在してはいけない。
「どけ!」
石田がぼくを突き飛ばした。裸のお尻がコンクリートに擦れる。だけど痛みは感じない。心も、身体も、全ての感覚が麻痺していた。
あざと腫れで地図みたいになった石田の身体。普通の肌色をしているところの方が少ない、見ているだけで心臓がキリキリ痛くなる身体。あんなことをしたのは――
「――お母さん?」
病院で出会った石田のお母さん。石田をモノみたいに呼ぶ、女の人。
「お母さんに、やられたの?」
石田は答えない。顔を背けながら、一方的に言葉をぶつける。
「絶対に、誰にも言うな」
ぼくは動けない。頷くことも、答えることも出来ない。
「誰にも言うなよ!」
石田が屋上から去る。ぼくは呆然と、服を着ることも忘れ、だらりと腕を下げて空を見上げた。灰色の空に、鮮やかな青と白が戻ってきていた。
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