2-3
そのしばらく後、放送委員の仕事で残ってから、佐伯さんと一緒に帰ることになった。
佐伯さんはポケモンをまだ買っていなかった。本当にぼくとポケモンを交換する気あるのかな。やっぱり、からかわれただけだったのかな。そんなことを考えて、ぼくは一人で落ち込む。
すると、前と同じ野良猫がぼくたちの前に姿を現した。佐伯さんは駆け寄ったけれど、野良猫は逃げて、すぐにいなくなった。
あー。がっかりと肩を落とす佐伯さん。ぼくは「ここだ」と思った。早くしないと秘密基地が無くなってしまう。残された時間が少ない分、めいっぱい楽しむのだ。
「佐伯さん、あのさ――」
佐伯さんが振り返る。大きな瞳に見つめられ、ぼくはごくりとつばを飲む。
「ぼく、仲良くしてる野良猫がいるんだけど、良かったら見に来ない?」
心臓がどくどくする。身体がぶるぶる震える。きっとぼくの人生で、この先これ以上に緊張することはない。ぼくは本気でそう思っていた。まあ、普通にあるのだけれど。
「いいの?」
好感触。ぼくはぶんぶんと首を縦に振る。
「うん。見に来てよ」
「触れる?」
「ぼくと一緒ならきっと触れるよ。ぼくはお腹撫でたりも出来る」
「じゃあ行く!」
やった。ぼくは「早く行こう」と佐伯さんの気が変わらないように煽った。途中でお互いの家に寄って、ランドセルを置いてから、マムシの森へ。やがて辿り着いた秘密基地の中に入ろうとすると、佐伯さんはびっくりしたように口に手を当てた。
「中に入っちゃうの?」
「うん。ここ、ぼくの秘密基地だから」
「勝手に入っていいの?」
「許可取ってるから大丈夫。壊れてるから使えないけど、鍵も持ってるよ」
ますます驚く佐伯さん。なんだか気分が良い。ぼくは佐伯さんを秘密基地の中に招待し、縁側の雨戸を開けた。日光に照らし出された室内を、佐伯さんは楽しそうに見て回る。
「ここ、誰も住んでないの?」
「うん。住んでた人は近くに引っ越した。鍵を貰ったのは、その人」
佐伯さんが「へー」と感心したように呟いた。そしてすぐに、目的のあいつが縁側の外に現れる。
「あ! 猫、来た!」
ぼくたちをじっと見つめるとらじろう。いつもより距離をとって、なかなか近づいてこない。佐伯さんを警戒しているのかな。だけどぼくも、ちゃんと準備してある。
ぼくはウェストポーチを開けて、家から持ってきたあられの袋を取り出した。そして袋を開け、中身を手のひらに乗せて縁側に行き、「おいで」と差し出す。とらじろうはすぐぼくの元に寄って来て、あられを食べ、もっとちょうだいとぼくの手をぺろぺろ舐めたり、足に擦り寄ったり。本当にもう、現金なやつめ。
「ねえ、わたしもそれあげたい」
佐伯さんがあられを指さす。ぼくはあられを袋ごとに佐伯さんに渡した。佐伯さんはおそるおそるぼくと同じように、あられをとらじろうに差し出す。とらじろうはほんのちょっとだけ迷って、でもすぐに、佐伯さんの手からあられを食べはじめた。
佐伯さんは楽しそうに笑いながら、次々ととらじろうにあられを与える。あげすぎだよ、佐伯さん。注意したいけれど、佐伯さんがあんまりにも喜んでいるから言えない。
「この子、名前あるの?」
「あるよ。とらじろう」
「とらじろう君かー。なんでとらじろうなの?」
そう言えば、聞いてなかった。なんでだろう。ぼくは考える。でもその答えが出る前に答えを知っている人――じいちゃんが現れた。じいちゃんは縁側に座るぼくたちを見て、びっくりしたように目を丸くした。
「驚いたな。今日はガールフレンド連れか」
ばか。じいちゃんのばか。それはまだ早い。
「違うよ! 友達!」
「照れるな、照れるな」
じいちゃんが愉快そうに笑った。とらじろうが佐伯さんの元を離れて、次のご飯提供人、じいちゃんの足元に擦り寄る。
「この家の人ですか?」
佐伯さんから質問。ガールフレンド発言にはノータッチ。助かったような、寂しいような、そんな複雑な気分。
「そうだ。そいつから話は聞いているだろう?」
「はい。あの、一つ聞きたいことがあるんですけど」
「なんだ?」
「どうしてこの子、とらじろう君なんですか?」
佐伯さんから質問。じいちゃんは、きょとんとした顔で答えた。
「とらたろうじゃ変だろ?」
佐伯さんは「はあ」と納得したようなしていないような顔をして、とりあえず頷いた。そしてとらじろうの夕ご飯を準備し始めるじいちゃんを見て、声をかける。
「あの、そのとらじろう君のご飯、わたしがあげちゃダメですか?」
食べ物で釣ろう作戦。とらじろうの友達のぼくから言わせてもらうと、アプローチ方法としては大正解だ。
「わたし、猫好きで、この子と仲良くなりたいんです」
「ああ、なるほど。分かったよ」
じいちゃんがとらじろうのご飯セットを佐伯さんに渡した。佐伯さんはじいちゃんの説明を受けながら、いつもじいちゃんがやるみたいに、とらじろうに夕ご飯をあげる。とらじろうはご飯をくれるなら誰でもいいとばかりに、その餌に貪りつく。
「食べた!」
佐伯さんはとらじろうがご飯を食べ終えるまで、ずっとその様子を眺めていた。やがてとらじろうがいつもみたいに、にゃあと一つ鳴いて、近くの藪の中に消える。
「今のは『ごちそうさま』だよ。いつも言うんだ」
「すごい! 頭いいね!」
佐伯さんが無邪気にはしゃいだ。そしてぼくにとっては嬉しい言葉を口にする。
「また来たいな。ママに内緒で猫飼ってるみたい」
是非来てよ。ぼくは自分の家でもないのに調子に乗ってそう口にしかける。だけどそれより前にじいちゃんが、とらじろうの餌皿を片付けながら、思い出したように呟いた。
「そうだ。一つ言わなくちゃならんことがあったな」
じいちゃんが佐伯さんを見ながら、姿勢を正した。目つきが真剣で、悲しそうで、何を言うのかは話す前からすぐに分かった。
「この家、そんなに長くは残らないぞ」
佐伯さんが「え?」と驚く。じいちゃんはさらに、言葉を続けた。
「このあたり一帯がゴミ処理場になるんだ。それに合わせて家も一緒に無くなる」
ぼくは口をきゅっと引き絞った。佐伯さん、どう思うかな。せっかくとらじろうと友達になれたのに、すぐに無くなっちゃうって言われて寂しいかな。それともまだ、そんなに思い入れないかな。
ぼくは佐伯さんの様子をじっと伺う。あんまり悲しまれるのもイヤだし、でも「そんなことか」と思われるのもイヤだし、複雑な気持ち。
だけど佐伯さんの反応は、そのどちらでもなかった。
「そう言えば、この森がゴミ処理場になるって話、聞いたことあります」
知っていた。いったいどういうことだろうと不思議がるぼくの心を読んだように、佐伯さんはその答えを口にする。
「昨日も家のポストに、ゴミ処理場建設反対運動のチラシが入っていました」
ゴミ処理場建設反対運動。
硬い響きの言葉が、ぼくの鼓膜にずんとのしかかった。そしてぼくはその意味を、自分の中で自分なりに噛み砕く。
ぼくにとってゴミ処理場の建設は絶対だった。学校で言うならば席替えではなくクラス替え。見えない大きな力によって決められて、どうしようもないうちに終わってしまうものだった、
だけど、それに反対する人たちがいる。
絶対に出来ちゃうわけじゃないんだ。反対、出来るんだ。ぼくは興奮した。微かに見えた希望の光を、ぼくは、自分の中で自分勝手に育てていく。
「帰り、送っていくか?」
じいちゃんに尋ねられて、佐伯さんが少し薄暗くなった周囲を見渡した。
「これぐらいなら大丈夫です」
「そうか。まあ、ボディーガードもいるしな」
ボディーガード。じいちゃんはそう言うと、ぼくに目くばせをした。
――上手くやれよ。
余計な心配だよ、まったく。ぼくは口を尖らせた。
◆
帰り道、夕方の住宅街を歩きながら、佐伯さんはぼくにじいちゃんのことを色々と聞いてきた。
でもぼくだってじいちゃんのことをそこまで知っているわけじゃない。田原幹久という名前。近くのアパートで一人暮らしをしていること。昔、高校の先生だったこと。それと――子どもが死んじゃって、奥さんと別れたこと、それぐらいだ。
最後の話を聞いた時、佐伯さんはしんみりとしていた。表情を曇らせながら、納得したように呟く。
「だから家を二つ持ってるんだ。思い出いっぱいだから、手放せなかったんだね」
しいちゃんの心情を理解する佐伯さん。そしてさらに、その先にも触れる。
「でも、無くなっちゃうんだよね」
無くなる。ゴミ処理場になる。だけどそれはまだ、決まったわけじゃない。
「ねえ、佐伯さん」
「なに?」
「ゴミ処理場の建設反対運動って、なに?」
佐伯さんが目をぱちくりさせた。そこに喰いついてくるとは思っていなかったようだ。
「わたしも良くわからないっけど、ゴミ処理場を作って欲しくない人たちで集まって、何かするみたい。チラシには『自然を守れ』とか書いてあったけど」
「そのチラシ、まだ家にある?」
「あると思うけど」
「明日、学校に持ってきてくれない?」
ここが勝負どころ。ぼくは佐伯さんの目を見ながら、一生懸命に言葉を選ぶ。
「ぼく、あの秘密基地、本当に大事なんだ」
ぼくの想い。ぼくの願い。佐伯さんには知って欲しい。
「あの秘密基地に行くと、いやなことがいっぱいあっても全部忘れちゃう。明日からまた頑張ろうって気分になれる。ぼくにとってすごく優しくて、温かい場所なんだよ。だからぼくは、あの秘密基地を無くさないで済む方法があるなら、出来る限り試したい」
佐伯さんはじっとぼくを見つめる。心の中まで覗かれそうなとても強い眼力。ぼくはつい、俯いて視線を地面に向ける。
「それにぼく、あんまり友達いないからさ。秘密基地も無くなっちゃうと寂しいよ」
結局、ダメな言葉を吐いてしまった。ぼくは自己嫌悪に陥りながら佐伯さんの顔を覗く。きっと呆れられた。見放される。そんな覚悟で。
だけど佐伯さんは、いつか見せてくれたような大人びた笑顔をぼくに向けていた。
「分かった。チラシ、持ってくるね」
とくん、とぼくの心臓が波打つ。佐伯さんのこのしっとりした笑顔。誰と話している時にも見せない、ぼくだけにくれる特別な笑顔。
ぼくはもしかして佐伯さんの特別なのかな。確かめたい。でもやっぱり、まだちょっと怖い。
「ありがとう。よろしく」
ぼくは気持ちを悟られないように、さっと顔を逸らす。そして視線を逃がした先、広い道路の向こう側に、見覚えのある男の子が歩いているのを発見した。
――あれは。
イヤな奴を見かけた。気づかれませんように。ぼくがそう祈った瞬間、その祈りを聞いたように、向こうがこちらを向いた。そしてすぐにぼくに気づき、にやにやしながら近寄って来る。
「お前ら、何してんの?」
男の子――石田がぼくたちを挑発してきた。ぼくは怯えるように身体を引き、それを見た石田はさらに調子に乗る。
「つきあってんの? もうセックスした?」
僕ならともかく、ぼくにその言葉の意味は分からない。それでもからかわれているということは分かった。佐伯さんを守らなきゃ。ぼくは、一歩前に出る。
だけど、佐伯さんの方が早かった。
「つきあってちゃ、悪い?」
ぼくはぽかんと口を開く。だって佐伯さんは頭も良くて運動神経も良くてかわいくてクラスで一番人気な女の子で、ぼくは頭も運動も見た目も普通で一緒に遊ぶ友達もいない地味な男の子で、釣り合うわけがない。だからつきあっちゃ悪いか悪くないかで言われたら――たぶん、悪い。
だけど佐伯さんは堂々としていた、本当に悪いとしても、悪くないですと言ってしまいそうなぐらい、堂々と。だからだろう。石田は面白く無さそうに一言だけ言い残して、その場を去ってしまった。
「つまんねーの」
石田の背中が曲がり角で見えなくなるまで、佐伯さんはずっと石田のことを睨みつけていた。ぼくはその横でぼうっとする。情けないぞ、ぼく。
「ああいうのはね、ああやって言い返すのが一番効くんだよ」
さらりとした態度の佐伯さん。ぼくが意識しすぎなのかな。でも女の子にあんなこと言われて、意識しない男の子なんていないよ。
「石田のやつ、なんで、一人でこんな場所を歩いてたのかな」
ぼくは話を逸らした。本当に情けない。
「家が近いからでしょ。石田君、よく一人で外をウロウロしてるんだって」
「そうなんだ」
「うん。家の人、あまりいないんじゃないかな」
家の人。そう言えば、学校を途中で抜けるというとんでもないことをしたくせに、あれから石田のお母さんやお父さんが出て来て揉めた話は聞かない。それどころか、あれ以降も勝手に欠席や早退をしているのに、家の人を呼んで何かをした気配がない。先生はそういう話は隠すけれど、隠しても漏れて来るのが噂というものだ。
あいつ、いつも昼休み、どこに電話してるんだろう。あの日、黙って公衆電話に向かっていた石田の姿を、ぼくはぼんやりと思い返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます