第3話 予感

 誰か同伴者を見つけなければならなくなった。迷うことなく松本の顔が浮かんだ。会った際に早速誘いをかけたが、「金がない」「単位が追いつかない」という理由であっさり断られてしまった。数日間、内田は悩んだ。まさか松本に断られてしまうとは。一度は計画を諦めかけたが、諦めきれず、別の人物を捜すことにした。


「いいよ」

大学の近くの居酒屋で二人きりで飲んでいた。相手は少し考えた後に彼の返事にそう答えた。友人の名前は林。松本とも顔が知れている、同じクラスの飲み仲間だ。性格は極めて豪快。若くして消費者金融で借金はする、キャバクラや風俗店に足を運んだりもした。内田は飲み会の席で林の武勇伝を肴にすることが多かった。酔った林が勢いで友人の一人に飛び膝蹴りを放ったこともあった。ある意味悪友とも言えた。しかし、今回の計画に林が賛同してくれたことに、内田は喜びを隠せなかった。心のどこかで、豪快な林を尊敬していたからだ。林は「俺が一緒に行ってやるんだからちっとは喜べよ」と言った。内田は笑顔でいることを忘れていた。内田はやっと笑顔を見せた。比較的整った顔をしていた内田だが、その笑顔は猿のようだった。



 海外旅行に行くにはパスポートが必要だ。林は過去にシンガポールへ家族で旅行したことがあるので、すでに持っていた。ちなみにこの時、林一家はアメリカへ旅行する予定だったが、旅客機のパイロットが当日失踪した為、渡航中止になった。しょうがないので、代わりにシンガポールへ行ったということであった。

 一方、内田は海外旅行をしたことがない。内田にはパスポートが無いので発券する必要がある。どうしたら発券できるのか。親からの情報によると、新宿にある東京都庁の近辺に、パスポートを発券してくれる場所があるらしい。休日を利用し、都庁へ向かった。「パスポートセンター」というサインに沿って、地下へ下っていく。そういえば都庁にはテレビによく出てくる偉そうな都知事がいたような気がする。内田にとって、そう言った類の人々は別世界の住人であり、脳の機能も自分とは別のものを備えているように思えた。権力を持った怖い大人。ただ、どうして国会議員にならないだろうと不思議に思うことはあったが、内田にはよくわからなかった。パスポートの発券は難しいものではなかった。申請用紙に自分の名前を書いてくださいと言われた。それがパスポートの有効期限の10年間、パスポート上に記載されるのだという。なるべく間違えないように書いたが、普段書いているはずの自分の名前が少し歪んでしまった。それを10年間使うのである。

 それを気にしなければ、手続きは問題なく終わった。手数料は締めて一万五千円也。写真代は千五百円。二日間アルバイトしないと手に入らない金額だろう。事務員は黒髪の綺麗なお姉さんだった。


 あとはスーツケースが必要だ。こちらも内田は持っていなかった。手持ちのボストンバックでは心もとない。内田は都市部の家電量販店でスーツケースが売っていることを知っていた。なぜ家電量販店でスーツケースが売っているのか。内田はそんなことは気にしない。家電量販店には内田の大好きな酒も売っている。文句を言うことなど何もないのだ。

 スーツケースの値段は大体一万円から三万円ほど。一万円代にコストを抑えたかった内田は、鍵のついていない一万六千円程度の物を選んだ。頭の少し禿げかかった中年の販売員は内田を心配してか、どこへ行くのか尋ねた。「アメリカです」と答えた。念の為、鍵が付いている物の方がいいと言われた。スーツケースの中身の盗難事例もあるし、中には麻薬探知犬のトレーニングの為にわざわざ客のスーツケースに入れて、そのまま忘れ去られて搬入され、入国先で御用となってしまうこともあるというふうに言われた。内田は二万四千円の鍵付きのスーツケースを買うことにした。



 内田は林と居酒屋へ入り、出国の打ち合わせをした。出国は七月二十四日。テストが終わって、二度目の夏休みが始まってすぐの頃だ。滞在期間は一ヶ月。本当にアンナ・キャラウェイに会えるかどうか、二人で話し合った。林は内田からこの話を持ちかけられるまで、アンナ・キャラウェイのことは全く知らなかったし、日本のアダルト女優については非常によく知っていたが、アメリカのポルノ・スターのことなど全く興味はなかった。この時も、内田に言われて思い出したように、そういえば彼女に会うためにアメリカに行くんだったと言い出した。向こうには銃がある。撃ち殺されたらどうする?というような話をした。現にニュースで、アメリカ留学中の学生が、ハロウィンパーティで仮装をしたまま近くの家でトイレを借りようとしたところ、強盗と間違われて撃ち殺されるという事件があった。二人ともその事件については知っていたが、特には触れずに、いつもどおりの会話をした。内田の脳内では、どうやってセキュリティガード的なものを突破してアンナ・キャラウェイに近づくかを考えていた。林の脳内は未知なる世界への期待と漠然とした不安。二人とも全く別のことを考えていた。

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