第2話 発起
五月になると新緑の季節になる。住宅を彩る樹々の葉は。まるでこの世界全てをその濃密なグリーンで埋め尽くしてしまいそうに見えた。それに比べて、内田はどちらかというと内向的な生活を続けていた。以前より恋人といる時間が増え、学校の授業じゃそっちのけで抱き合うように暮らしていた。女は少し内田への興味が薄れていくように見えた。この男にこれ以上興味を持ってはいけないという彼女なりの本能だったのかもしれない。今、この男は堕ちている。彼女は思った。堕ちている人間といることは、あまり良くないことだ。まして犬が死んだくらいで動揺する男だ。そう、彼女は猫派だった。
大学生活二度目の6月を迎え、普通は試験やらレポートやらを意識し始めるが、そんことよりも友人と居酒屋に入ることが好きな内田はその日も単価の低いチェーン店の居酒屋で酒を飲んでいた。生ビールとなんこつの唐揚げ、イカの一夜干し、他の皿も揚げ物が中心で野菜はほとんど頼まない。同じ卓にいる友人は、チェーン店の居酒屋には飽きていて、仕事に疲れたサラリーマンがいくような小さな立ち飲み屋行きたかったが、この男(内田)が強引に毎度この店に誘うので、渋々この店で飲んでいるのだった。
彼らのする話の内容はほとんどたわいもないものだった。深夜テレビに出てくるマニアックなお笑い芸人の話や、音楽は最近何を聴いてるかとか、もちろん、クラスの女子で誰が一番可愛いか等だった。
同じ卓にいる友人の名前は松本。以前内田から恋人とのたわいもない悩みを聞かされ、当の本人には恋人がいない男だ。松本は、大体の人間とうまく渡り合う事が出来た。内田以外にも友人が沢山いるが、内田は細かいことを気にしない性格だったので、松本は何でも彼に話す事ができた。ストレス発散に、遠回しに内田に毒づいてみたりすることもできた。内田といると、カラオケやボウリングをしているような気分になれた。一方内田は松本を自分より下に見ていた。松本はそのことに気づいており、内田からその気概の断片がたまに見えると、松本は決まって遠い目をするのであった。しかし松本は、内田の中にある感じたことのないバイタリティーを気に入っていた。それは内田がこれから起こす野心の原動力となるものなのかもしれない。
「アンナ・キャラウェイって知ってる?」松本が言った。
内田は知らなかった。松本にとっては沈黙を埋める何気ない一言に過ぎなかった。
「誰それ?」
「アメリカのポルノ・スター」
そういうネタは彼らの中にあって当然だった。
しかし内田は知らないということなので、松本は「じゃ、いいや」と言いその場は流れた。
数日後、通常通り家でインターネットをしていた内田は、ふとそのアンナ・キャラウェイの名前を思い出したので、インターネットで検索してみた。金髪の女性だったが、ことの他胸が大きかった。やはり中に何か入れているのかと思いきや、調べてみると豊胸手術はしていないという。顔は魔性とあどけなさを足して2で割ったような不思議な魅力を持っていた。日本人のアダルト女優とは異なる魅力に惹かれた内田は、来る日も彼女のアダルト動画を観た。恋人と会う時間を塗っては動画を観た。恋人と会う時間以前より減っていた。内田の頭の中はアンナ・キャラウェイのことでいっぱいだった。するとある日、また恋人と些細な喧嘩を起こし、それ以降二人は会わなくなってしまった。恋人と会わなくなると、内田は一層、アンナ・キャラウェイの動画を長い時間観るようになった。そんなある日、緊急事態が起きた。アダルトサイトにはコンピューターウイルスがつきものだ。内田のパソコンが動かなくなってしまった。無料のウイルス対策ソフトを使ってはいたが、通用しなかったようだ。内田は動揺を隠せずにいたが、数日すると、近くのDVDレンタルショップで日本人アダルト女優のDVDで妥協することでことなきを得た。
レポート提出が近くなり、近くのインターネット喫茶や大学の図書館のパソコンで作業をするようになった。しかしどうにも気が収まらない。心に隙間が空いたようだ。アンナ・キャラウェイのことが頭から離れない。DVDレンタルショップには彼女の作品は出回ってはいない。新しいパソコンを買うにも金がない。親にも言い出し辛い。買ってもらった18万円のノートパソコンだ。壊れた理由を言えなかった。馬鹿正直なので適当な嘘をつくこともできなかった。鬱積した思いを残したまま定期試験とレポートをなんとかこなした。内田は心の切り替えはうまい方であった。
大学2年生といえば、留学にうってつけの時期とされる。内田のクラスメイトに、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアを尊敬している男が、夏休みを利用してオーストラリアへ留学に行くという。内田は一度、彼の家に泊まったことがあるが、本当にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアのポスターが貼ってあった。また、タヒチ88とか、聞いたことのない外国の音楽のCDも置いてあった。彼には内田が持っていない心の領域があった。内田はそれを高尚なものと捉え、自分もそんな風になりたいと思っていた。しかし、彼はアメリカには行ったことがあるのだろうか?気にはなったが、内田は訊くことはしなかった。銃社会アメリカが恐いので、触れたくなかった。彼が大学に入学する前に、アメリカの高校生が校内で銃を乱射して同級生を虐殺した事件があった。恐ろしいと思ったが、あまりに遠くの出来事なので、リアリティを感じなかった。内田は、その銃を乱射した高校生が好きだったロックバンドの曲を聴いたことがあった。悪魔のような格好をした人が悪魔のような歌を歌い、なぜかイエスキリストの名前を叫んでいた。よくわからないが、気持ち悪いし、うるさい曲だと思った。しかしこういうのを格好いいと思わなければいけない気がしていた。
兎にも角にも、内田は「夏休み中の留学」というアイデアを得た。この言い方なら、親は資金援助せざるを得ないらしい。内田の両親は共に働いていたので、そのくらいの金はあるようだったが、家庭内では金の話はあまりされなかった。そのため、内田は金に関して少し無頓着であった。特に、親といえど金を貰うありがたみ、というものが少々欠落していた。
内田にはこれといって特技は無い。勉強もそこまで優秀というわけではなく、運動も苦手な方で、高校の時のマラソン大会は彼にとって一年間で一番辛い時だった。部活は囲碁・将棋部だった。
しかし、彼にはどこか人とは違う発想力があった。それは決して毎回良い方向へ向かっているとは言えず、どちらかというと正常なコースを逸走したようなものだったのだが、それがうまく周りの人間を勘違いさせ、こいつはある意味天才かもしれないという理由で、なんとか同級生の仲間に入る許可証を得ていた。例えば、彼は常人ではまず考えられないブラックジョークを言ったり、何とも言えない絶妙なタイミングで人の会話を遮り、話の腰を折ると思いきや、話をどこか独特の面白い方向に持って行く、という「妙技」と言えるようなものを持っていた。
それにしても今回の発想は過去のそれより群を抜いて奇抜であり、向こう見ずだった。恋人と別れ、しばらく女を抱いていないストレスか、インターネットのない生活に耐えきれなくなってしまったのか、彼は一つの危うい決意をしてしまう。
アンナ・キャラウェイに会いに行く。
阿呆だ。そんな目的で海外留学に行く奴がいるのか。普通は英語学習か、友達との思い出作りか、世界の有名な景色を拝みたいというのが常だ。
しかし、彼の意思はなかなかもって硬かった。彼はいつも他人の意見に従って行動する方で、自分から飲み会を提案したりはしないし、選んだ大学も、年上の兄弟が受験したからそれになぞって受験したようなものだ。そんな人間が一転して主体性をもって行動し出した。きっかけがあれば、人間は全く別人のように動くことができたりする。
アメリカの銃社会への恐怖は消えていた。例の悪魔のようなロックバンドの曲も、一曲くらいは歌えるようになっていた。暗記が内田の得意分野だった。暗記せずに、海外の歌など歌えるはずもない。
内田は母親に連絡し、留学資金をねだった。理由は海外留学。母親はあっさりとこれを了承した。むしろ、息子が意思を持って留学してくれることが嬉しかったようだ。本当のことを知らない方がいい、ということは想像以上に多いものである。金は近日中に振り込むからということになった。喜ぶ母を尻目に、内田は自分の家に意外とお金はあるんだなと思っていた。ただ、ひとつ条件があった。一人では不安なので、同伴者を連れて行くことだった。内田は面倒臭いがやむをえないと思った。
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