野心ーYASHINー

黒煙

第1話 日常

世田谷区沿線の賃貸マンションがこれほど過ごし易いとは思わなかった。昼前に起きてテレビをつけ、それを観るともなく適当な菓子パンを食べ、インターネットをやるかやらないか迷った挙句に漫画を読みふけり、その後更にインターネットに没頭し、気がつけば午後三時。

決起したかのように立ち上がりシャワーを浴び、適宜頭髪とヒゲを整えやっとこさ家を出る。

駅へ向かうはずが、用もない100円ショップに立ち寄り、幾多の品物に魅了された挙句にキシリトール入りガムだけを買い、店を出た。近くには大きな街が多い。

言うべくもなく、何か算段を企てる必要などない。そこに行けば、するべき何かがあるのだ。


 内田はもともと都会生まれ育ちではない。地方から大学入学の為に上京してきた男子だ。それまでは一度として都会での生活を経験したことはなかった。東京に訪れたことはあったが、テレビゲームの有名な街に遊びに来たり、学校の社会見学でミュージカルを観に訪れた程度であった。都会の雰囲気はおろか電車の乗り方すら危うかった。おそらくどこにでもいるような田舎の高校生であった。

 しかし慣れとは恐ろしいもので上京して4ヶ月。見事に東京の景色に溶け込めように、成長というか成育されていた。彼が住んでいるのは世田谷区だ。高級住宅街ということで有名と思われる区域だが、その居住区の種類は様々で、いかにも有名芸能人や国会議員が住んでいそうな大邸宅もあれば、1970年代を思わせるような古臭いアパートや、湿気が染み込みヒビが入った一軒家、一体誰が行くのかというような今にも地震で倒れそうな歯科医などもあった。

 内田は家賃6万円のワンルームのアパートに住んでいた。もちろん親の仕送りで。高値の物件に住んでいると思いきや、東京のワンルームアパートの家賃の相場は、駅前なら大体このくらいでどこも変化はなかった。彼のアパートは駅から徒歩3分の位置にある。家賃の相場について考える思考は、彼の頭にはなかった。ただ提供された場所に住む。それだけだった。

 彼の生活はそれなりだった。見る人によっては充実した学生生活のように見えるであろう。本人も友人に何限の授業のテストが辛いだの、ああだこうだと不満を述べながらも、その後幾人かで慣れたての居酒屋に押しかけ、翌朝にはその中の誰かしらの家で雑魚寝をしながら朝を迎えることが度々あった。友人というのはなんという麗しい響きなんだろう。

 

 夏休みを終える頃には、彼はもっぱら家でインターネットばかりしていた。友人はいた。彼らに呼ばれれば行って遊ぶ。恋人もいた。性交もするにはするが、性格の食い違いか、なかなかもって小さな出来事が発端で痴話喧嘩が多かった。彼女のお気に入りの下着が見つからないとか、昨夜飲みに行った後にどうして連絡の一つもくれないのとか、あとはご想像にお任せする。内田は度々友人にそのことを相談したが、決まってその女はお前に毒だ、別れろと言われた。そうすると内田は決まってふさぎ込んでしまう、主体性の無い男の子だった。ちなみにその友人に恋人はいなかった。

 

 10月を過ぎ、若者たちは授業の乗り切り方を理解し始めていた頃、主人公の内田青少年は恋人のいない隙を見計らってはインターネットのアダルトサイトを観るようになっていた。しばらくするとその手のホームページを訪問するスキルは短期間で驚くほど成長した。もっとも、一度その光景を恋人に目撃されたことがあったが、彼独自の感性と状況判断能力をもってそれを乗り切った。彼はごく普通の青年だが、その時の問題解決能力は神業に近かった。

 懲りることなく彼は好みの女性のアダルト動画を大量に観た。彼の恋人は美人出会ったが、胸の大きな女子ではなかった為、彼は胸の大きな女性のアダルト動画を大量に観た。顔へのこだわりはあまり無いらしかった。

 冬を迎え、クリスマスプレゼントだ、忘年会だ、という恒例行事を、恋人と友人の狭間でどっちつかずに立ち回った後、年が明けると彼は冬休みのほとんどを田舎の実家で過ごした。その滞在期間が常識の範疇よりもちょっぴり多かったせいか、周囲の人間は内田が精神的にどうにかしてしまったのではないかという話を語り出した。一部の人間は内田死亡説まで流し出した。ただ恋人とは連絡を取っていた様なので、彼女との間の問題は特になかった様である。単なる「年末年始は必ず実家」という彼なりの掟だったようだ。

 

 冬は太古の人間にとって、乗り越えるにはとても厳しい季節であったはずだが、内田にとっては独自のファッションスタイルを披露する格好の季節だった。お気に入りの厚手のコート、アルバイトをして購入したブーツを着て雪の降った後の街を歩くことが彼の楽しみであった。ちなみに彼の友人にはいわゆる個性派の人間が多く、全体的に服装にもまとまりがない。端から見るとちょっよ変わった集団に見えただろう。その情景は彼らの「誤った個人主義」を象徴するかのようであった。内田はその時はとても幸せな生活を送っていたのかもしれないが、その時は気づく術はなかった。幸せとはその中にいる時には気づかないものである。


 4月になり、彼らは2年生になった。大学のキャンパスの正門では新歓でごった返している。後輩ができるということは本来誇るべきことなのかもしれない。なぜなら、自分達が同じ場所にいることに一年間耐えることができた証しになるのだから。しかし内田は後輩の存在が出来ることを怖れた。自分より下の人間に対してどのように接していいのかわからないからだ。しかし彼は深く考えるのをやめ、その場その場で毎日をしのいでいった。

 ゴールデンウィークも夏休みに比べれば大した休みにならない。中央線では今日も人身事故で電車が止まっている。この連休が明けると更にその数が増えるのだろう。

 それは午後2時過ぎ頃であっただろうか。内田の携帯電話が鳴った。母親からだった。母親との連絡は通常1ヶ月に1回は取っていた。大体は生きてる?大丈夫?食べ物はちゃんと食べてる?とかの内容だが、毎回「大丈夫だよ。ところでおじいちゃん、おばあちゃんは元気?そっちで変わったことはあった?と内田の方からの質問返し。その多さにたまりかねて母親が電話を切る方向へ持っていくという展開がお決まりだった。ちなみに上京後、一度だけ内田の方から母親へ連絡をよこした。所持金が心もとないので2万円だけ仕送りを上乗せしてほしいという内容だった。内田は電話に出ると、その内容に血の気が引いた。飼っている犬が死んだ————

 名前は太郎。飼い始めた時の性格は激しく、家族は手を焼いていたが、4歳を過ぎた頃からまるで去勢をしたかのように落ち着き始め、家族や近隣の住民を和ませる存在になっていった。犬に笑顔というものがあるのだろうか。太郎はそんな笑顔をした犬だったからだと思われる。

内田は、誰しもがいずれは死ぬのにも関わらず、太郎は永遠不滅の存在であるという、一種の信仰心のようなものを持っていた。太郎はこの世のせわしないものを無視したかのように平和に暮らした犬で、何よりいつも元気だったからだ。せわしない東京の生活で犬のことなどすっかり頭から離れていたが、忘れていた故か、このニュースが彼に与えたダメージは、その後に控えたアルバイトになかなか持って大きな影響をもたらした。実は、太郎は数ヶ月前から様子がおかしく、餌を食べる量も減っていた。母親はそのことを息子に連絡しなかった。彼女なりの配慮だったが、裏目になる結果になってしまったようだ。

 内田はアルバイト先に電話して、今日は休めないかと頼んだ。しかし犬が死んで落ち込んでいる理由で休みたいという主旨がうまく伝えられず、拒否された。心そこにあらずの状態でアルバイトをする内田だった。アルバイト先はチェーン店の居酒屋だった。笑いながら楽しそうに酒を飲み会う人々。いつもどおりの光景だったが、内田にはいつも以上にそれらがガラス細工のように見えた。今日は2回注文ミスをして一度店長に怒られた。誰かに自分の思いを知ってもらいたいという気持ちで、休憩室にて同い年くらいの女の子に犬が死んだことを呟いた。そうなんですねと返答され、話は特に発展しなかった。それはそうだ。あくまで犬の話なんだもの。

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