第2話 佐藤 流の戦 2
立て篭もり初期の頃は朝起きたときに枕がぐっしょりと濡れていたことも少なくない。これは自分自身を否定して更なる高みに登ろうとする苦しさのあまり無意識に枕を濡らしたのだろう。夢に彼女から言われた一言が永遠と再演された悲しさでは断じてない。私はそのような点においては諦めの良い男である。
それにしても、一度試してみて分かることがこの世の中には多くあることを籠城三日目に痛感した。
普段大学に通い、帰宅し、寝る。そのことを主体とし日常を謳歌していたが、その主軸から大学を除くだけで時間を持て余し気味になるものだ。購入した後に目を通さなかった本が何冊かあったのだが、三日もひたすらに読書していれば大方読み終わってしまうものだ。他に何か出来ることが無いものかと思案してみたが、意外なことに出来ることは無いものである。
自らと向き合うにしろ、人間二十四時間自分自身の欠点を探し、如何に向き合い乗り越えるものかと考えるのは才人たる私も多少辛い節があるものだ。何より私ほどの人間ともなれば自らの弱さを見つけ出すだけでも一苦労なのである。その上、私自らが良しとして選んだ自身の性格を変えるともなれば、そう易々と出来るものではないのだ。
結果的に私が余った時間に出来ることは本棚の隅から出てきた五つのサイコロを全て一のゾロ目になるまで振り続けることと、一歩から預かった夢のディスクを見て私のジョニーと戯れることくらいである。
時計の針が五時四十分を指した。
五時限目の講義終了時間であるが講師は最後の追い上げとばかりに黒板に文字の羅列を並べ、早口で話し、それを追うかのように受講生たちはノートと黒板を交互に首を上下に振っている。私の横では一歩が雑草の煮汁でも飲んだような苦悩の表情を浮かべ熟睡している。
その後遅れること三十秒、学内に講義終了のチャイムが鳴り響いた。講師が講義終了を告げ、受講生は早々と教室を去り、私の横で熟睡していた一歩はいつの間に目を覚ましたのか机の上に垂らした涎をティッシュで懸命に拭き取っていた。
その様な無様な姿を見たくもない私は何気なく講義室の窓際に目を向けた。そこにはこの世の物とは思えないほど美しき女性が座っていた。
「友人として付き合っているだけでも…」
中期頃になっても枕が濡れていたのは長期間に渡り保存食ばかり食べていた反動で夢に好物の食べ物でも出てきたのだろう。
彼女が出たわけではない。何度も言うが、私は諦めなくてはならない真理には早々に区切りを付け、次に進める男である。
夢に食べ物も出てきた所で私はその日無性にうどんが食べたくなった。私はうどんに納豆と生卵の黄身を入れて、そこに万能つゆを入れて食すのが大変好みである。納豆と卵は最強にして最高の組み合わせである。その二つを繋げるのが万能つゆの「味どうらく」である。私はこの万能つゆ「味どうらく」は至高の調味料だと確信している。納豆にかけて食べるも良し、刺身にかけるのも良し、焼き魚にかけるのも良し、麺つゆにするも良し。まさに至高の一品である。
本来ならば煮物などに使えば大変に美味になるらしいのだが、恥ずかしながら私は料理が大の苦手であるが故に試したことがない。
私ほどの秀才が料理を出来ないのは非常に意外かもしれないが、如何に才能と知能と優しい心を持つ私のような人間であっても苦手なものがあるものも世の現実である。しかしながら、私ほどのポテンシャルがあれば多少努力するものなら料理の腕も凡人以上には瞬く間になるものだろう。ただ、私はやらないだけである。面倒なのではない。時間を惜しんでいるのだ。料理など出来なくとも今の御時世飯を食べることが出来る。料理とは時間の掛かる物である。私は料理に省く時間をもっと自身の向上のための時間に掛けているのである。面倒などと凡人のような発想が故の判断では断じてない。よって私は自身の食べ物を作るときは極力労力を行使しないシンプルな物しか作らないのである。無駄を省き、しかしながら美味いものをと考えた末に行き着いたのが、うどん、納豆、生卵、味どうらくの最強の組み合わせである。
過去に親友である一歩に最強の組み合わせであるこのうどんを振る舞ったことがあるのだが、奴は「くっせぇ。匂い強すぎるぞ。俺は好きにはなれねえ」と言い放った。きっと彼は今まで日本の文化である納豆を食べて育たなかったのだろう。同じ日本国民として残念でならない。それに引き替え私は納豆の匂いに何の抵抗もない。そんな私こそ日本の誇りと言っても過言ではないだろう。そもそも万年アレルギー、蓄膿症の私は匂いをほとんど感じないのである。
思い立ったら即日と私は至高なるうどんを作ることにした。しかし、ここで一つ問題が発生した。私は今籠城中なのであり、買い出しになど行けるはずがない。うどんは調理が非常に簡単であるので大量に乾麺があるが、納豆と卵が今我が城の中にあるかどうか不明である。もしも冷蔵庫の中にそれらが無かったのならば私の今日と言う日の価値が無くなってしまう。籠城を決意した日に大量に食材を買いだめしたが、それから二週間も経過しているのであり、冷蔵庫の中にそれらが残っているかは何とも言えないところである。
しかしながら、まず冷蔵庫を開けないことには何も始まらないので私は冷蔵庫を開いてみることにした。冷蔵庫を開けると大量のジャガイモが目に入った。それなりに保存が効くので大量に買っていた。他の野菜が早く無くなってしまったので冷蔵庫の中はジャガイモの保管庫のようになってしまっている。そもそも料理が苦手である私はジャガイモをどのように調理すれば美味になるのか全く分からないのである。蒸かしてマヨネーズを使えば美味いと言うかもしれないが、二週間にもわたる籠城生活の末にマヨネーズは既に消えているのであり、私にはこのジャガイモ達をどうすることも出来ないのである。すまないジャガイモ達よ。いずれ素晴らしき私の一部なる時を待っていてくれ。
申し訳無さからジャガイモから目を逸らし、冷蔵庫の奥に目をやると、鯖の缶詰、ツナの缶詰、フルーツ缶、おでん缶、など缶詰のオンパレードである。籠城するにおいて、必需品たちである。そもそも冷蔵庫に入れる必要はないのだが、私の部屋にはもう食べ物を置くスペースなどなく、自然と冷蔵庫の中に食べ物は運ばれていくのだ。
それらの奥に彼らはいた。卵は奇跡的に一つだけ残っていて、納豆も一パック残っていたのである。素晴らしい。神など曖昧なものは信じてはいないが、この瞬間は神に感謝すらしてしまった。いや、むしろこの瞬間のためにこれらを残していた自分自身に一番に感謝をするべきであろう。
多少気になるところがあるとするならば、卵の消費期限が八日前であり、納豆に関してはパックだけが残っていたのでいつの物なのか皆目見当も付かないことである。
しかしながら現代の冷蔵庫は優秀である。多少消費期限が切れていようと問題なかろう。さっそく私は調理に移ることにした。
鍋いっぱいにお湯を沸かし、うどんを放り込み十二分、念入りに水で絞めて、納豆のパックを開き、掻き混ぜる。色が黒ずんでいて、普段より粘り気が無くなっている気がしたが気のせいであろう。そして生卵の黄身をそれらの上に投下し、味どうらくを入れ、さらに掻き混ぜる。
多少の不安はあったものの、無事に完成し、私はそれを食した。食べてみれば何てことない。いつもと同じ味である。素晴らしきうどん。謳われよ味どうらく、そしてこの組み合わせに栄光あれ。このうどんの美味さは天下一品である。無論匂いは何も分からなかった。
「今日も和泉は残ってるな」
机の涎を拭き終えた一歩が私の肩に手を置き、馴れ馴れしく話しかけてきた。
「彼女は帰りのバスが混み合うのが苦痛らしい。だから時間を置いてから帰るのだ。流石、賢明だ」
私は美しき女性が帰るまでの時間を退屈でないように声を掛けることにした。
窓際に座る彼女に近づき、彼女が見ているものを私も見てみようと外に目を向けた。二階の窓際からは帰路に就く凡人学生諸君が蟻の行列のように一方向に向かっている。少しばかり目線を左に寄せるとグランドと山が見えている。グランドには野球部とサッカー部が部活に勤しんでいる。レフト方向が異常に長く、サッカーグランドにそのまま繋がっている。もはや、野球グランドとサッカーグランドの境が何処なのか皆目見当も付かない状態である。よく見るとマラソンのトラックも、そのグランドの中に混ざり合っている。九十度角度を変え、ライト方向を見てみると、ライト方向はレフト方向に比べると狭く、山に抜ける道に繋がっていた。山からは初夏の虫の音色聞こえてくる。
「和泉は何時も残りながら外を見ているが、何を見ているのだ?」
窓際の席に腰掛け外を眺めている彼女の背後から声を掛けた。
「外」と、こちらを一瞥もせずに彼女は答えた。
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