参>- 況んや興宴の砌には 何ぞ必ずしも人の勧めを待たんや
石段をゆっくりと登り、一人の娘が初瀬の社にやってきた。
女の身にはいささか億劫な道程だろうに、彼女は厭う様子もなく石段を上り切り、鳥居をくぐり、鈴緒を揺らして手を合わせる。
「初瀬様、初瀬比古様。昨日よりも昔から、明日のその先にいたるまで、わたしたちを見守っていて下さって有り難うございます」
深々と頭を下げ、女は感謝の言葉を口にする。
「千代、いらっしゃい」
初瀬はいつものように
「ねえ、千代。それはもしかすると、とち餅かい?」
目を期待に輝かせ尋ねる初瀬比古に、千代と呼ばれる女性はおかしそうに笑う。
「ええ、ええ。そうですよ。ほんに初瀬比古様は食いしん坊でいらっしゃる」
「仕方ないじゃないか。だって千代のとち餅は、他の誰の物よりも絶品なんだ」
屋根の下に二人して腰を下ろし、初瀬比古は捧げられたとち餅を美味しそうに頬張る。
最初は目を輝かせて食べていた初瀬比古だったけれど、徐々にその目は悲しげに曇っていった。
「どうしました、初瀬比古様? あんまり美味しくありませんでしたか?」
心配そうに顔を覗き込む千代に、初瀬比古は首を振る。
「ううん、違うんだ。今年は雨が多かったから、収穫が少なかっただろう? 村の皆は、怒ってないかい?」
「あらあら、そんなことを気にしてらっしゃったんですか?」
千代はまんまるな目をさらに丸くして、朗らかに笑う。
「お天道さんの気まぐれは、さすがの初瀬比古様だとて如何ともし難いと、皆分かっておりますよ」
「でも、役に立たない氏神で、ごめん……」
肩を落とす初瀬比古の頭を、千代は慰めるように優しく撫でる。
「初瀬比古様は、ほんに頑張り屋さんでいらっしゃるなぁ」
初瀬比古は子どものように、不安そうな眼差しで千代を仰ぎ見た。千代はふわりと笑う。
「いいんですよ。初瀬比古様は、此処にこうしておいで下さるだけで、充分お役目を果たしていらっしゃいますから」
「でも……」
「ねえ、初瀬比古様」
千代は、山間に埋もれるような村の様子を眼下に納めながら言う。
ここからは、収穫後の畑に鋤を入れる村人の姿や、走り回る子どもの様子が良く見えた。
「お天道さんは作物を育てて下さるし、お月さんは夜道を照らして下さいます。だけど、お天道さんもお月さんもわたしたちの為を考えて、毎日昇ったり沈んだりしてる訳じゃないですよね」
太陽も月も勝手に昇ってくるから、時には強すぎる日差しが田畑をカラカラに乾かしてしまうし、針のように細い月が夜を歩くのに役に立たないこともある。
「それでもわたしたちは、お天道さんやお月さんに感謝するんです。それと同じですよ、初瀬比古様」
「え、や……ちよ?」
初瀬比古は戸惑ったように首を傾げる。彼女はただただ、優しげに笑った。
「わたしたちは、皆、初瀬比古様が大好きだと言うことですよ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――薄れることのない記憶はまるで刃のようだと、初瀬はホロホロと涙を零しながら、何もない空間を漂う。
それが優しい過去であればあるほど、心をこれ以上ない程に切り刻み、苛むのだ。
いっそ忘れてしまえれば良いのに。
そうでなければ、この身ごと消えてしまいたい。
けれど、神である初瀬の願いは、これまで叶えられることはなかった。
初瀬は今は亡き村人たちを愛していた。
そして、それと同じだけの愛を那智や今の氏子たちに与えることはできないと、理解できてしまっていた。
むしろ彼らの有り様は、憎しみの果てに祟り殺してしまった山賊たちに近く、理不尽な恨みをぶつけてしまわないようにするだけで精一杯だった。
初瀬はそうしかできない自分を情けなく、歯がゆく思っていた。
(私は本当に、役に立たない神だ……)
初瀬の独白は、虚空に散る。
神である初瀬はいつだって、己で己を責めることしかできなかった。
(……っ!?)
初瀬は唐突に不穏な気配を察し、
どこか自分の庇護下であるはずの場所で、強い殺意が発されたのだ。
「那智……っ」
初瀬は自分の唯一の巫女を呼ぶが、社殿の何処にもその姿はない。
それもそのはず。那智は、収穫を狙う山賊を退治する為、吾作たちの村へ向かったのだ。
そしてこの気配は、その村の方から感じられる。
初め初瀬は、単に山賊が現れ、那智がそれを村人たちと撃退しているのかと考えた。
しかし、この焦燥感は那智の身に何かあったとしか思えなかい。初瀬の顔が青ざめる。
「那智、無事で……っ」
初瀬は急ぎ、自らの存在を那智のいるはずの村へと飛ばした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「よお、随分と趣味の良い友達ができたみてえじゃねえか。あたしにも紹介してくれよ」
口の中に溜まった血を吐き捨てながら、那智はにやりと笑ってみせる。
足元で呻き、這いつくばりながらも、刀に手を伸ばそうともがく男の腕を踏み折って悲鳴を上げさせると、周りを取り囲んでいた男たちは一様に慄き、僅かに身を引いた。
(肋骨が二、三本いかれてんな)
表情も変えずに、那智は怪我を確認する。だが、あとは多少の切り傷ぐらいで手足は動く。問題はない。
(さあ、どう料理してやろうか)
獰猛な獣のように歯を剥き出して、狂気を孕んだ目で彼女は嗤う。
警戒を露わにしながらもじりじりと、彼女を包囲する人の輪は再び狭まっていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
那智が村についたのは、もう日も暮れかけた時分だった。
女は僅かにしか見かけず、子供の姿は皆無といういびつな村の中を案内したのは、吾作と平八だ。
「ふうん。ちったぁ村らしくなってきたじゃねえか」
「お陰様で」
大きな図体を、精一杯縮こませて頭を下げるのは、吾作だった。
元々が、山賊どもを押し込めた掘立小屋の寄せ集めだ。集落の体も成してなかったものが、構成の歪ささえ目を瞑れば、今はかろうじて農村に見えなくもない。
このまま真っ当な暮らしを続けていけば、いつかは堅気と呼ばれるようにもなるだろう。
「こちらにどうぞ」
平八が見えているかどうかも定かではない細目をさらに細め、一軒の小屋を指した。それは村では集会場と呼ばれている、無人の家だった。
「賊はどんな感じだ?」
「へえ、収穫の様子を何度かちらちらと伺っているのは気付きました。もっとも昨日からは姿は見てません」
「なるほど、じゃあ来るのは今夜でもおかしくないってか」
空き家に入ると、板間には一枚、ムシロが敷いてある。
「後ほど、灯りと茶をお持ちしますんで」
「ああ。もしかすると一眠りしちまうかもしれないから、何かあったら起こしてくれ」
頭を下げる平八にそう答え、那智は背負った弓矢と腰の大鉈を外して、ムシロの上に腰を下ろした。
しばらくすると、年嵩の男が油皿と湯呑を持ってやって来た。
「暮らしはどうだ?」
ふいに那智が尋ねると、男は飛び上がらんばかりに狼狽し、おどおどと答える。
「そ、そりゃあ楽じゃねえよ」
「まあ、そうだろうな」
那智は鼻で笑う。ただでさえ、生きるのに厳しい山中で、ほとんど何もない所から畑を作る暮らしを始めたのだ。
一応、那智の方でも餓死しないぎりぎりの援助はしてきたが、それでも血を吐くような苦労をしてきたことは想像に難くない。もちろん、那智には欠片も同情するつもりはなかったが。
「で、でもよう」
年嵩の男はぼそりと言う。
「おらだってもういい年だかんよう、腰落ち着けて暮らせんなら、その方がええがよ」
そう言い吐いて、男はそそくさと家を後にした。
那智はそれを冷めた目で見やり、湯呑に口をつける。もっとも、ほんの僅かに、上澄みを舐めた程度だったが。
そしてそのまま、ごろっとムシロの上に仰向けに転がり目を閉じた。
それから小半時ほど経ったころだろう。
那智は口の中に、ピリピリとした痺れを覚えた。そして感じる吐き気と、軽い眩暈。
目を開けると、油皿の火は消えていた。油はたっぷり入っていたはずなので、何らかの細工がされていたのだろう。
那智は音を立てずに弓矢を背負い直し、大鉈を掴むと、記憶を頼りに戸の脇まで移動して片膝をつく。
気配を殺して待つ事しばし。
緊張を打ち破るように戸が開き、いくつもの人影が屋内に雪崩れ込んできた。
人影らはムシロが敷いてある場所をまっすぐ目指し、そして誰もいないことに狼狽した。
「お、おい、いねえぞ!」
「どこいった!?」
「探せっ」
口々に叫ぶその時には、那智はすでに彼らの背後にいた。
「ふっ」
鋭く呼気を発し、大鉈を振るう。刃ではなく、峰で側頭部を殴打すると、男の一人は声もなく昏倒した。
「い、いたぞ!」
「
那智は騒ぎ出す男の懐に身を低くして飛び込むと、体当たりするように柄を鳩尾に叩き付ける。男は背後の二人を道連れにひっくり返った。
「う、うわああぁっ!」
背後から金切声を上げ、太い木の棒を大上段から振り下ろそうとする男の脇腹に、那智は向き直りざま大鉈を振り抜こうとする。
しかし反射的に刃を向けていたことに気付いた那智は、舌打ちして寸止める。床に飛び込むように棒を避けたが、あと一歩で間に合わず、それは那智の脇腹をしたたかに打った。
「……がぁっ、畜生っ!」
転がりついでに、男の膝横を蹴り飛ばす。相手は転倒するものの、走る激痛に那智の口から汚い罵声が飛び出した。
それを堪えて立ち上がると、残りは二人。
同時に襲い掛かってくる男のうち一人に、那智は落ちていた木の棒を拾い、投げつける。
男が手を抑えて武器を取り落す間に、那智はもう一人を下していた。
孤立無援となったことを悟った男は、瞬間、逃亡を考えたようで戸を見やるが、それは那智の後ろにあった。
破れかぶれになった男は、素手で那智に殴りかかる。那智はそれを、余裕を持って対処できるはずだった。
「てめっ!」
しかし、その大振りの拳を避けようとした那智は、視線を下ろして舌打ちする。
床に転がっていた筈の男が、絡み付くように那智の足に抱き付いたのだ。
「ぐぅ……っ」
拳が那智の顔面を殴打する。咄嗟に力の向きに顔を逸らして衝撃を殺したが、那智の口の中に血の味が広がった。
二撃目を許さず相手を返り討ち、足に縋り付く男を蹴り飛ばして、ようやく立ち向かってくる者はいなくなった。
「ったく、これだから初瀬のお願いは厄介なんだよ」
口端に滲んだ血を拭い、那智は毒づく。
かつての戦い方をしていれば怪我一つなかったはずなのに、お蔭でボロボロだ。
しかし那智は、毒づくだけで、己の選択を改めようとは思わなかった。
呼気を整え、僅かに脇腹を庇うようにして那智は集会場を出る。そんな彼女の目に映ったのは、松明を手に建物を取り囲む何十人もの人間の姿であった。
「……まったく、最高じゃねえか」
鼻面にしわを寄せ、うそぶく。
目を細めて周囲を睥睨した那智は、獣のように喉を鳴らし、嗤っていた。
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