弐>- 思ひ出すとは忘るるか 思ひ出さずや忘れねば


 その日珍しく、初瀬の社を訪れる者がいた。

 絶えて久しい集落の外れにある境内に、偶然人が迷い込むということはない。

 それは間違いなく、ここを尋ねて来た客人なのであった。


「――と言うことですので、何卒お力添えを願えないかと……」


 そう言って頭を下げるのは、傷痕だらけの顔の大男と、狡猾そうな印象の狐目の男だった。

 二人はその容姿にそぐわぬ態度で、びくびくとしながら額を床に擦り付けている。彼らが恐れているのは勿論神である初瀬……ではない。


「……ふうん、山賊ねえ」


 男たちを睥睨しているのは、板間に敷いたゴザの上に胡座をかき、煙管を吹かしている那智だった。

 那智の一言で、男たちは可哀想な程に身を震わせる。


「別にいいんじゃねえの。自業自得だろう、吾作、平八?」


 ぎょっとした様子で、それぞれ名を呼ばれた男らは顔を上げる。


「お前たちは、何度農村を襲った? 何回その年の収穫を奪って、何人を殺した? 自分たちが同じことをされれば、少しはやられた側の気持ちも理解できるんじゃねえの?」


 そうやってクツクツと愉快そうに笑う那智の前で、二人は頭を伏せたまま身を震わせている。


 彼らは那智によって壊滅させられた元山賊の頭と補佐役で、今は小さな村を作り、一味ともども田畑を耕して暮らしていた。勿論全員が、初瀬の氏子である。

 今日、彼らが来たのはその村が余所から来た山賊一味に狙われている、という理由からだった。

 元が山賊なだけあり、その手口を知り尽くしている彼らは、何度も偵察が寄越され、収穫後を狙って村を襲おうとしている輩がいることを察していた。


「もちろん、過去に自分たちが行った非道については重々承知しています! しかし、ここで食料が奪われるのを許しては、餓死するしかありません!」

「じゃあ、死ねよ。ああ、もちろん貧に窮したからと言って山賊に戻ろうとか思うんじゃねえぞ。そんなことしたら、どういう目に合うか分かってんだろうな?」


 さらっと無慈悲な言葉を投げつけられ、平八は言葉もなく顔を青ざめさせる。

 その様子があまりに可哀想だったので、初瀬はついつい口を挟んだ。


「あの、さすがにその言い方はないんじゃないでしょうか……?」

「――ふうん?」


 ふうっと煙を吐き出し、那智が初瀬を振り返る。温度のない冷淡な眼差しに、初瀬はびくりと身をすくめる。


「わっしからも、重ね重ねお願い申し上げますっ!」


 この機を逃すかとばかりに、吾作は再度深々と平伏する。


「どうやら賊を率いているのは、都からやってきた『非道』のナムチと呼ばれる大悪党だそうで、一線を退いた我々では抵抗できるはずが――、」

「……分かったよ」


 那智がやれやれと溜め息をついた。

 軽く音を立て、灰落としを煙管で叩く。


「初瀬に感謝しな。氏神自らがそう言うんだ。手を貸してやるさ。収穫が終わる前に、連絡しろ」

「あ、ありがとうございます! 那智様!」


 深々と頭を下げる二人に目を向けることもなく、煙管を詰め直す那智。

 初瀬はその様子を、もの言いたげな眼差しで見つめていた。





 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇





 集落跡から少し山に分け入った所に、小川が流れている。この渓流から引いた水が、かつての集落の生活用水であり、また田畑を潤す重要な水源でもあった。

 今は知る者もいないが、この渓流を集落の者たちは初瀬川と呼んでいた。


「入水するには、ちょっと浅すぎるんじゃねえか?」


 水の中に立ち尽くしていた初瀬は、振り返る。

 夏であっても痛い程に冷たい水に浸かっているにも関わらず、初瀬の足は赤くなることも、寒さに震える様子もなく、ただ着物の裾を流れに任せている。


「いくら私でも、ここの水で溺れようとは思いませんよ」


 初瀬は苦笑するように口元を緩め、首を振った。

 同じ『初瀬』の名を冠するこの渓流は、言ってみれば彼の分身とも言えるものだった。

 もっとも、ざあざあと水は岩にぶつかり飛沫を散らし、魚が銀の背びれをひらめかし跳ねる。川は止めどなく流れ続け、一瞬たりとも同じ姿を留めない。

 それは、信仰がある限り常しえに存在し続ける初瀬比古とは、正反対の有り様にも思えた。


「――那智は、収穫を狙う山賊を退治するつもりなんですか?」

「ナムチを名乗る賊が、この辺りに根城を移したという話は、みかじめ料――じゃない、お布施を受け取りに元山賊どもの村を回った時にも耳にしていたからな」


 独り言のように、ぽつりと落とされた呟き。川下へ向かう流れを見ていた初瀬のその言葉に、那智はあっさりとうなずいた。


「調子に乗る前に、叩いておく必要はあると思っていたからな。丁度いいだろうよ。だが、初瀬――お前はどうやらそれを良く思ってないらしいな」


 初瀬ははっとした様子で、那智を振り返る。


「それなら吾作らが来た時に、そう言えば良かったろうに」

「別に、そう言う訳じゃありません。彼らは私の氏子ですし、人を助けるのは、……良いことです」


 たとえ自分の望みでなくとも、今や彼らもまた自分の氏子であり、庇護下にある信者であることに相違ない。

 しかし――、


「隠すなよ。初瀬は山賊が嫌いだもんな。山賊上がりのあいつらを助けることも、本当は許せないんだろ」

「違っ――、」


 咄嗟に出た否定の言葉を飲み込んで、初瀬はぎゅっと唇を噛んだ。帰る道を見失った迷い子のように、所在無さげに立ち尽くす。


「私はもう……、神とは言えないのですよ」


 俯き、流れる水のきらめきを無感動に視界に納めながら、初瀬はぽつりと言う。


「私の集落は、賊の手によって滅びました。収穫を狙い、女子供を浚おうと、無頼の輩が押し寄せたのです。私はそれを防ぐことができませんでした」


 待ちに待った収穫を終え、疲れ切って眠る村人たちの家屋に襲い掛かる火の手。逃げ惑う村人たちの悲鳴を掻き消す、げびた山賊たちの嘲笑。血の臭い。炎の熱さ。

 夜が明けた時、優しい村人達が集う平和で穏やかな集落には、消し炭と、為す術もなく斬り殺された無残な死体しか残らなかった。

 目を閉じればいつだって、初瀬の瞼の裏にはその凄惨な光景が蘇った。


「私は怒りと憎しみで、祟り神へと変じました」


 怒りに我を忘れた初瀬は、山賊たちを一人、また一人と祟り殺していった。

 ささやかな力しか持ち得ぬ初瀬に取っては、それこそ身を削り取って行う復讐だった。


「力を使い尽くした私は、そのまま眠りにつきました。それは消滅へと繋がる眠りでしたが、私はそれで良かったんです」


 滅んだ集落で、これ以上何を守れというのだ。

 何一つ守れなかった自分には、もはや何の価値もない。


「いえ、違いますね。私はもう……なにも、護りたくない。辛い記憶から、早く解放されたいのです」 


 人ならば、寿命で死ぬこともあるだろう。

 月日の流れが、記憶を朧にすることもあるだろう。

 しかし、神である初瀬にはその恩恵は与えられない。

 初瀬は、喉も枯らさんばかりに叫ぶ。


「私は愛していたのです! 集落の者たちを! 彼らがいないのなら、もう、私は私が存在する意味を見出だせない……っ」


 季節の移り変わりとともに、今も山には新緑が芽吹き、鳥は歌い、紅葉は色付き、雪に閉ざされる。

 それは、村が失われる前と何一つ変わることはない。

 しかし、山菜を手に山から下りる老爺の笑みも、夏の暑さに喘ぐ女の苦笑も、秋の収穫を祝う賑やかな祭り囃子も、初雪に騒ぐ子どもたちの笑い声も、もうどこにも存在しないのだ。


「どうか、お願いです。私を眠らせてください。私はもう、死んでしまいたいのです……っ」


 初瀬の訴えは、悲嘆に暮れ、身を切られんばかりに、ただ悲しみの色だけに染まっていた。

 水のせせらぎも木々のざわめきも、鳥の声さえも、彼を慮るように音を途絶えさせる。

 しかしただ一人、そんな配慮から無縁の者がいた。


「知るかボケ」


 那智はけっと吐き捨てた。


「死にたきゃ、勝手に死ね。だが、こっちの用を終わらせるまでは、死ぬことは断じて許さねえぞ」

「那智っ、後生ですから!」


 初瀬は悲鳴のように声を張り上げて、顔を両手で覆う。その様子を冷めた表情で見ていた那智は大きく溜め息を零すと、ずかずかと川の中に足を踏み入れた。


「ふざけんなよ、初瀬」


 強く襟を引き寄せると、初瀬はそのまま川の中に膝から崩れ落ちる。それを斬りつけんばかりの眼差しで見下ろし、那智は言った。


「お前が死にたいのは、お前の勝手だよ。だがな、こっちにだって都合ってもんがあるんだ。じゃなきゃ、何の為にあたしが巫女になったのか分かりゃしない」

「何の為ですか……?」


 呆然と那智を見上げ、尋ねる初瀬の問いに彼女は答えなかった。那智はただ、まっすぐに初瀬を見下ろしている。

 その目は余りにも苛烈で、このまますべてを焼き尽くすような視線に貫かれて死ねるだろうかと、初瀬はぼんやり考える。

 那智は初瀬の襟を掴んでいた手を突き飛ばすように離し、乱暴な足取りで身を翻す。

 尻餅をついたまま初瀬は、その背に向かって叫んだ。


「お願いですっ。どうか、次の山賊退治が終わったら、私を解放することを真剣に考えてくださいっ」


 那智はぴたりと足を止めると、肩を震わせて怒鳴り返す。


「うっせえな! 分かったよ、考えれば良いんだろ!」


 その答えに、初瀬はほっと安堵する。

 しかし、振り返ることなく、那智は続けざまに言い捨てた。


「だけどな、あたしはこれまでただの一度だって、あたしも、他の誰をも、初瀬に護って欲しいと願ったことはねえよっ」


 そして走り去る那智の様子は、まるで泣きながら逃げ出す子どものようにも見える。

 その様子に戸惑いを覚えるが、それでも初瀬は追いかけることもできず、ただ川の流れの中を座り込むだけだった。

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