花の上なる露の世に ~ド外道な巫女と死にたがりの氏神~
楠瑞稀
壱>- 靨(ゑくぼ)の中へ 身を投げばやと思へど 底の邪が怖い
穏やかに晴れた、昼下がりである。
空は青く澄み渡り、陽はさんさんと地に降り注ぐ。山の緑は輝きに溢れ、鳥は生命の賛歌を、あちらこちらでさえずっている。
そんな穏やかな風景の一画に、木に縄をかけ、首を括ろうとしている一柱の神がいた。
「なにやってんだ、てめえは」
「わっ」
低い声とともに背後から蹴り飛ばされ、やんごとなき足はみごと台の上から滑り落ちる。もちろん首には縄がかかったままだ。
「……っ!!? うっ……、ぐぅ……っ!!」
自重できゅっと締まる首を押さえ、空中で必死に足をばたつかす
水袋を叩き付けるような音を立て地面に落下した神は、苦しげに咳き込んだ後、恨みがましい目を向ける。
「い、いきなり何をするんだいっ、那智!」
「首吊ろうとしてた奴が、何を言ってやがる。てか、嫌なら浮くなり透けるなり、すりゃあいいだろ」
「あっ」
真っ向から正論を吐かれ、ほうけたように口を開けたまま固まる。
「しかも、初瀬は神なんだから首吊りじゃ死ねんだろ」
もはやぐうの音も出ず、気高き存在は顔を赤くして縮こまった。
その神の名は
そしてそれを縊死させかけた彼女は那智と言い、初瀬比古命の巫女である。
もっとも初瀬比古命の社は山の奥にひっそりとあり、仕えているのも那智一人だけだ。
油気の無い痛んだ髪に、女にしては高すぎる背丈。人情味を感じさせない三白眼に、痘痕面。それが那智である。
例え榊に緋袴ではなく、背に弓矢、腰に大鉈を下げ、猪の毛皮をまとっていても、彼女は巫女である。
その毛皮に乾き切らぬ血痕が飛び散っていても、紛れもなく巫女である。
神前にそぐわない赤黒い不浄の痕に気付いてしまった初瀬比古は、ひくりと青ざめた顔を引きつらせた。
「な、那智……、それってもしかして……?」
「ああ?」
恐る恐るといった様子で血を指摘された那智は、ひょいっと眉を持ち上げ、無造作に掌で擦りつける。そしてにやりと凶悪な笑みを浮かべた。
「喜べ、初瀬。また氏子が増えたぞ」
「那智っ、君は――っ!」
「いいじゃねえか、人助けも兼ねた立派な勧誘だろ」
那智は掌に移った血糊を舐めて、にやりと嗤う。
初瀬比古命のいるこの山の周辺は、治安が非常に悪く、野盗や山賊といった匪賊が良く出没した。
那智はそういった輩が現れたと聞くや嬉々として出向き、容赦なく叩きのめし、屈服させ、隷属させ、初瀬比古の氏子とするのであった。
お陰で、祀る者もなく神としての格をほとんど失っていた初瀬も、今や最盛期を超えるほどの神力を持つ一端の神である。
とは言っても、元々大した神力を持っていた訳ではないので、それなりではあるが。
「ああ、もちろん。初瀬比古の氏子は悪党ばかりだなんて噂が立ったら困るからな。ちゃあんと、良い子にしているよう説得しておいたから安心しろ」
「そういうことじゃなくって!」
「分かってる分かってる」
那智は初瀬の訴えをぞんざいにいなし、ひらひらと手を振って社に戻っていく。
その背中を睨みつけていた初瀬だったけれど、ふいに彼女の腕に返り血ではない血の染みがあることに気がついた。
「那智、その腕は……っ」
「ああ?」
那智は不自由そうに右腕を軽く持ち上げ、振り返る。
「誰かさんが、人を殺すなと仰るからな。安心してくれ、ちゃんと言いつけは守ってるよ」
そうしてさっさと背を翻す。
その後ろ姿を見えなくなるまで見送ってしまった初瀬は、大きく溜め息をついて、呟いた。
「……もう、死にたい」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
初瀬比古命は忘れられた神だった。
初瀬は山間の小さな集落の氏神であったが、村人が死に絶え、祀る者がいなくなってからは、朽ちかけた社で深い眠りについていた。
そのまま眠り続けていれば、恐らく百年も掛からずに、初瀬の存在は霧散し消滅していたことだろう。初瀬としてはそれで良かった。いや、むしろそれを望んでいた。
しかし、そんな初瀬比古を目覚めさせた者がいた。
深い眠りの淵から、波で打ち寄せられるように、ゆっくりと拡散していた意識が集約していく。
長らく聞くことのなかった、自分を呼び、救いを求める声。
久方ぶりにこの世界に顕現した初瀬の目に映ったのは、最低限清められてはいたがボロボロになった社でかしずく一人の女性。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
艶のない黒髪に囲われた、決して整っているとは言えない痩せた痘痕顔。
しかし、初瀬は思わず息を飲んだ。
「あんたが、この社の神か」
薄暗い社の中で、獣のように爛々と光る目が、すっと細くなる。
「あたしは那智。巫女としてあんたに仕えることにした。よろしく」
彼女はにやりと、剣呑に笑う。
それが、初瀬と那智の最初の出会いだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
那智は、ひどく変わった巫女だった。
乱暴な口を利き、獣肉や酒を好み、暴力を厭わず、尊大に振る舞う。
それは巫女としてだけでなく、女として、さらには人としても変わっていると言ってしまって良いだろう。
かつて初瀬が氏神として集落を守護していた頃は、村でそんな人間を見たことはなかった。なので、出会ってから二年の月日が経過した今でもまだ、初瀬は那智が苦手なのである。
那智のそうした態度は、氏神である初瀬の前でも改める気はないようで、にもかかわらず何故彼女が巫女であろうとするのか、初瀬には不思議で仕方がなかった。
そもそもどうやって、那智が山間の廃村の社に眠っていた初瀬を見つけたのか。そして祀ろうと思ったのかすらも謎だ。
もっとも目覚めた当初であればともかく、力の戻った今であれば那智の過去を読み取り、どういった理由で彼女が自分の巫女になろうと決めたのか知ることも不可能ではない。
彼がそれをしなかったのは自らの望みでないとしても、巫女として側につかえてくれている彼女に対する気遣いと言う名の遠慮であり、また下手に薮を突っつき蛇を出すのを避けたかったというのもある。
正直な話、人間が餓えた虎を前にするのと同じような感覚で、初瀬は那智が怖かったのだ。
境内の片隅に、紫色の可憐な花が咲いている。
その花をぼーっと眺めていた初瀬に、背後を通り掛かった那智が声をかけた。
「それ、トリカブトじゃねえぞ」
「なっ、な――っ」
初瀬はぎょっとして振り返る。
「あと、神は毒でも死なないと思うぜ」
「知ってますよ、そんなことっ」
「どうだかな」
鼻で笑って去っていく那智を、初瀬は恨めしそうに見送る。
廃村どころか、この地域一帯の氏神として復活を果たした初瀬であるが、実のところ。彼自身がそれを望んだことは、一度としてなかった。
初瀬の本性は、飽くまで今は無き集落の氏神なのだ。村が滅んだからには、村とともに己も消えるべきだというのが初瀬の考えだった。
(初瀬比古様――)
初瀬は自分を呼ぶ、懐かしい声を思い出す。
自分を尊敬し、頼ってくれた素朴な村人たち。そして甘くくすぐったい声で名を呼び、慕ってくれた彼女の姿。
しかし、それは神である初瀬であっても、取り戻せない遠い所にあるものだ。
だとしたら、もはや自分の存在には意味はない。
それゆえに消滅を望んで眠りに着き、初瀬は人間で言う所の緩慢な自殺の道を歩んでいた。
もし可能なようなら、今だって何も感じない深い眠りの淵に沈んでしまいたかった。
それを邪魔するのは他でもない、那智である。
だから今日も初瀬は、那智に訴えかける。
「ええっと、那智さん。貴女が集めた氏子の皆様も、だいぶ貴女の元にいることに慣れてきたようですし、そろそろ私は引退させてもらいたく……」
「却下」
「即答するのではなく、一度真剣に考えてみては……」
「駄目だ」
取り付く暇もなく、すげなく那智は返す。
「では、せめてどうして駄目なのかだけでも、教えてください」
初瀬がそう頼むと、那智は溜め息をつき、渋々といったように答えた。
「お前には、やってもらわなくちゃいけないことがあるんだよ」
「やるべきこと、ですか? 私は何をさせられるのですか?」
那智はその冷たく無機質に見える瞳で、初瀬をじっと見つめる。
初瀬は思わずたじろいだ。
「教えない」
那智は素っ気なく答えて、身を翻した。
「ま、待って下さい!」
しかし、初瀬も今度ばかりは逃がさないとばかりに、那智の袖を掴む。
「何も答えてくれないのなら、せめてそれくらいは――、」
「うっせえな! いい加減しつこいんだよ、このうじうじ神!」
那智は掴まれた腕を逆に捻り返し、素早く足払いを掛けた。
「わあっ!?」
初瀬は、なす術もなく地面に仰向けに転がる。
「な、何をするんですっ」
慌てて起き上がり、文句を言うと、那智は呆れた顔をした。
「だから、嫌なら浮くなる透けるなりしろっての。学習能力のない奴だな」
「で、でもだからって! それにうじうじ神だなんてひどいです!」
確かに自分は明朗闊達な神ではないが、その言い方は酷いと初瀬は落ち込む。
しかも、氏神とうじうじが無駄に掛けられてるし。
「いいから、てめえは大人しく神様やってればいいんだよ。余計なことは考えるな」
乱暴にただ吐き捨て、那智はすげなくその場を立ち去る。
初瀬はその背中を、ただ悲しげに見ているしかなかった。
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