真に真たるために。
主観的感動の体験は、言ってしまえば、言葉にしてしまえば、本当にそれだけのことに成り下がってしまう。
「そんなことで」という評価を得るのに抵抗を感じたとしても、記憶にしろ感情にしろ行為にしろ、体内から引きずり出して外気に触れさせるのは自分だ。
あれほど感動的だった経験が一瞬にして陳腐なものへと変化する時、他人は必ず証人となる。逆説的に言えば、貴重なものを雑踏の中へ投げ込む行為は、証人なくしては成しえず、むしろその行為は常に立合人を求め、証人を観客とならしめる為に遂行されるのだと言えよう。
中身の知れない箱を、貴重な物だからと散々に言い含められて掴まされるようなものなのだろうか。
いや、我々はさらに無恥であるという意味において罪深いのだろう。
箱の中には、確かに大切な物があると信じて疑いもしないのだから。
箱の中に何かを詰め込んだのも自分であって、他のなんびとでも在りえない。
世界と自分の相対性の中で生まれたものを、自分の深くへと追い込んで世界から隔絶させること。そこまではいいのだろう。ガラクタをそうと気づかず、後生大事に抱え込むことの一体何がいけないというのか。ただ、そんな宝物を改めて世界と繋ぎ合わせようとしても、上手く機能はしない。
暗がりの中で正体もわからず目にした影が、荘厳で神聖でいかにも偉大なものに思えても、明け方の光りに晒してみれば何のことはない、単なるありふれた一塊に過ぎないということは往々にしてあるのだ。
見間違い、勘違い、そうした如何ともし難い人間らしい過ちが、我々をして時に盲目とならしめるのだろうか。
けれど何より注視すべきは、我々がガラクタを大切に抱きかかえていることではなく、ガラクタではなかろうかという疑念を抱きながら掌中の珠を愛でる哀しさではないだろうか。
決して、人類の哀しみを卑下しているのではない。
ただ一人の人間として、わたしもまた不安に駆られるのだ。
唯一の救いは、自分が得たものを大切にし続けることも、また手放すことも自身の意思によってなすことが可能であるということだろう。そして、投げ打ったところで、それはもう二度と誰のものにもなりはしない。
感情や感覚は独りよがりで、他人との共感を容易には受け付けず、ある事象の真価は、自身に問い続けることでしか見出せないのだ。故に、安易な言葉になどせず、感情さえ幽かな震えとしてしか感じ取れない、深奥に閉じ込めておきたい。時とともに成熟させ、一時の感興を越えた何物かになることをわたしは願う。そうしてようやく、自分にとって真に真であるものが、その他の人間にとっても真となりえるのだろう。
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