第三部 東晋黎明

ごきげんよう、崔浩さいこうである。


五胡十六国時代は、イコールで

東晋とうしん王朝蟠踞の時代である。

いくら島夷に過ぎぬとは言っても、

やはり彼の者らの存在感は捨て置けぬ。


故に、王者の責務として、

彼の者らについても解説を加えておこう。


ここでは、後々前秦ぜんしん前燕ぜんえんと熾烈なる

三つ巴の戦いを為すことになる東晋が、

ただの亡命政権から、どのようにして

両国と向こうを張るだけの国力を得たか、

そのいきさつを語ることとする。


では、参ろうか。



○東晋王朝とは


まずは大雑把に言い切る。持病持ちのいじめられっ子が、いじめっ子にキレてリベンジを決めた。が、持病が悪化して死んだ。これが東晋という国のアウトラインである。


上記は、三つのフェーズに分けられる。

・いじめられっ子期

・リベンジ期

・持病悪化期

である。当部はこの内、いじられっ子期を取り扱う、とご認識いただきたい……のだが、あらかじめ当部にて、東晋の全体像を載せてしまおう。そのほうが、今後の話が見え易かろう。


ここで本来記すべきは元首、皇帝であるが、この国の場合下手に元首を載せると逆に分かりづらくなる。よって、中央-軍部という形で権勢を握った人物を列挙する。


I いじめられっ子期

王導おうどう王敦おうとん祖逖そてき劉弘りゅうこう

庾亮ゆりょう郗鍳ちかん陶侃とうかん

司馬昱しばいく殷浩いんこう庾翼ゆよく


II リベンジ期

司馬昱-郗愔ちいん桓温かんおん

桓温

謝安しゃあん桓沖かんちゅう謝玄しゃげん殷仲堪いんちゅうかん


III 持病悪化期

司馬元顕しばげんけん劉牢之りゅうろうし桓玄かんげん

劉裕りゅうゆう


言うまでもないが、東晋ガチ勢に見られたら殺されかねぬほど乱暴な推移である。あと「そこで郗愔、そこで殷仲堪かよ!」というツッコミは取り合わぬ。


さて、東晋という国は、三つに勢力カテゴリを分けてしまうのが良い。中央、北府軍、西府軍である。中央が、いかに中央の権力争いを抑え込んだ上で二大軍閥を統御、最終的に北伐、即ちリベンジに向けて体制を整えられるか、が、この国に関する理解を進める上での最重要タームである。


そしてその観点より語れば、バランス調整に苦心した結果北府の劉裕が中央のクソどもと絡みつき、滅んだ、と言うのが東晋の末期である。

中央=皇帝とならぬ辺り、なかなかに闇が深くて趣深い。


そんな東晋くんは、ではどのようにしていじめられっ子からの脱却を図ったのであろうか。それが、当部における紹介の期せる所である。



○つーか、 何でいじめられてたの?


三國志の最終的な勝者は晋である。だがその晋は八王の乱でグダグダしまくったところに、劉淵りゅうえん劉聡りゅうそう石勒せきろくの胡族リレーを喰らい、ズタボロにされた。ここまでは前回までの復習である。


では、ズタボロにされた晋は、その後どのように振る舞うべきであろうか? これ以上ボコされないために防備を固める、となろう。


ならば、どこでそれを為すべきか。晋が最後まで苦戦を強いられた国、のあったエリアがよい。長江という天然の万里の長城、しかも周辺は湿地帯。馬という機動力に大きく依存している騎馬民族らに取りてはもっとも攻めにくい場所である。実際に石勒が攻めようとして諦めているのであるから、相当に騎馬民族にとっては厳しい自然環境であるのが伺える。



○いじめられっ子、亡命先で


八王の乱の勝者は司馬越しばえつであった。


東晋の興りを語る上で、この者は外せぬ。と言うのも、八王の乱を勝ち抜いた段階で、司馬越は晋の勢力確保のために様々な手立てを講じていた。そのうちの一つが、傍系の親族である司馬睿しばえいに、三國志における呉エリアを抑えさせることであった。


八王の乱収束の時点で、劉淵率いる匈奴漢は、既に晋にとって最悪の敵であった。ならば晋は、匈奴漢を跳ね返せるだけの国力を確保せねばならぬ。孫呉以来、江南の地は開発が加速度的に進んでいる。これをさらに推し進めることで、晋の国力に資さん、というのである。


これを好機と見たのが、司馬睿の側近。すなわち、王導である。中原は八王の乱でズタボロ、しかも匈奴漢は急拡大。ともなれば、中原にはいま以上の戦乱が吹き荒れよう。故に、旧呉のエリアを確たる拠点としてキープするべきである、そう、司馬睿に進言した。


王導の見立ては正しかった。やがて司馬越は病死、その配下は石勒に殺される。そして命からがら逃げ延びた残党は、司馬睿を頼り、逃げ込んできた。一方で洛陽は、懐帝司馬熾しばしのアレなアレによって崩壊。中原には愍帝びんてい司馬鄴しばぎょうや司馬越の弟の司馬模しばも、その息子の司馬保しばほなどの勢力はいたが間もなく殲滅。まともな勢力を保つのは司馬睿のみとなっていた。石勒に攻め滅ぼされた劉琨りゅうこんは、西晋系人士の署名を集め、司馬睿に最後の希望を託す。こうして傍系であったはずの司馬睿が、晋の遺志を継ぐものとなったのである。


ここから司馬睿と王導は、あの手この手で旧呉土着氏族への慰撫に動く。が、誰もがそこに納得するわけでもない。むしろ反感を抱く者の方が多い。ここで活躍したのが、王敦である。元々武勇、統率力に秀でていたかれは、硬軟様々な手腕を織り交ぜ、多くの豪族を屈服させ、あるいは鎮圧する。これら風下に立った豪族らに、王導が調整を為した。


 ここでは陳敏ちんびんの乱、周勰しゅうきょうの乱を引き合いに出しておこう。共に王敦らによって握りつぶされた、土着の豪族である。



○いじめられっ子、仲違い


王敦の武力外交力、王導の調整力。この二つが上手く絡み合うことで、東晋朝はなんとか船出が叶った。とは言え司馬睿、即位して元帝は、東晋朝設立における一連の政争戦争で、二王の発言力が非常に大きくなってしまったことを懸念していた。朝廷内でも、元帝の前にはちらりと二王にお伺いの目が飛ぶ始末。そこで元帝、二王の権力削減を狙う。王敦、王導に不利な人事施策を次々に発布。この元帝の動きに王敦は切れた。と言うよりも、身を危ぶんだ。


王敦の乱。東晋初期に起こったこの乱は「結局鎮圧されました」で話が終わっている。が、内訳を見ると割とエグい。ひとときは元帝を追い詰め、謝罪さえさせているのだ。そして元帝は憂悶のうちに死んでいる。


ここで脇道に逸れる。元、と言う諡号は王敦が送っている。そしてこの諡号は、魏のラストエンペラー曹奐そうかんにつけられた諡でもある。ここに、王敦の意図がほの見えている。後を継いだ明帝司馬紹しばしょうに、本来どのような役割が期待されていたか。漢の献帝、晋の恭帝、劉宋の順帝を引き合いに出されるべきであろう。


だが、明帝は傀儡で終わる器ではなかった。王氏の専権をよく思わぬ名族ら、殊に筆頭たる庾亮らの主導により、再び二王は中央より切り離される。再度の決起を試みた王敦ではあったが、ここで寿命が尽き、死亡。男児のいない王敦の軍府には後継者らしき後継者もなく、速やかに鎮圧される。


王敦の死後、王導も罰されかける、が、持ち前の政治力も有り、またその功績も勘案され、執行は免れた。と言うよりその後にも顕官についているところからすれば、明帝に王敦を売ったことすら考えられる。なかなかにかぐわしき大宰相さまである。ともあれ、こうして東晋暁初を大いに揺るがした王敦の乱は収束するのである。



○いじめられっ子、いじめっ子でもあった

 でもいじめられっ子に逆襲された


講座第一席にては、王導の次に祖逖を挙げている。だが、ご覧の通りここまでは影も形もない。それもその筈である、基本として祖逖は後趙との国境エリア、即ち辺境におり、中央にはほぼ関わりがなかった。そして中央は上記の通り、ひどいドタバタぶりである。いくら祖逖が兵を出してくれと言ったところで、出せるだけの余裕がない。


結果として祖逖は、石勒の侵攻に対し大きな楔を打ち込むことに成功しておるわけであるが、朝廷からすれば「何勝手にいちびっとんねん」である。なので祖逖に対しても、それなりの恩賞しか出なかった。そんな祖逖、大丈夫かこの国、と憂悶を抱きつつ死去。後には弟の祖約そやくがつく。


一方、王敦の乱の鎮圧にあたっては、多くの微賤の出の将兵が活躍していた。中でも名を轟かせていたのが、蘇峻そしゅん。東晋にこのひと有り、と呼ばれるレベルの驍将であった。


ところがどっこい、王敦の乱が治まると、王導の後釜についたのは庾亮。結局のところは名門貴族である。王敦の乱の原因を綱紀の緩みと見て取った庾亮、名族目線での強烈な締め付けをはじめる。これによって割を食ったのが、中流以下、分けても兵士たちであった。


命を賭けて戦いった。なのにろくろく恩賞も与えられず、それどころか暮らし向きは更にきつくなる。ふざけんなクソ貴族どもと言った怨嗟が英雄の蘇峻に集まるのは当然の流れであった。


いじめられっ子の東晋くん、恐らくはほぼその自覚なしに下々をいぢめる。結果、祖約と蘇峻が合流。王敦の乱以上の規模の大反乱が起こる。


この乱は、蘇峻らが冷遇されていた、と言うだけで話は片付けられるまい。王敦以来押し潰されてきていた地元士族らの鬱憤が爆発した、と言う属性もあろう。


蘇峻率いる反乱軍は、あっという間に建康を陥落させる。首都陥落である。ただ事ではない。この時、夭折した明帝の後を継いだ成帝は捕まり、明帝の皇后であった庾文君ゆぶんくんは幽閉の憂き目に遭う中で、死亡。幽閉の中死亡。おっと繰り返してしまった。なにせ庾文君、かの庾亮の妹である。ともなれば(自主規制)。


こうして東晋は再び存亡の危機にさらされる。と言うかここから事態が打開さできてしまっているのが、正直なところ意味不明である。



○いじめられっ子、近所のヒーローに頼る


はじめに名を上げた西府、北府。ここまでにはまだ存在感がない。が、この大規模な乱を受け、にわかに存在感を増しはじめる。


西府。エリア的には荊州に拠点を置く。永嘉の乱にてグダグダになっていた中原であったが、この地を治めていた劉弘が文武に渡って抜群の成果を上げ、エリアの安定化を実現させていた。西晋滅亡後、東晋とは友好的中立と言った装いである。そして劉弘が病死すると、属僚の陶侃が後を継いだ。


北府。建康にほど近い京口という町に拠点を置く。なおこの町は呉の孫権そんけんが建業の前に都としていた町であり、既に強大な防備拠点が築かれていた。またこの町には中原から多くの難民が流入していた。これらを吸収し、にわかに人口が増大していた。これを活用し、元帝の腹心であった郗鍳が軍を編成。王敦の乱にても大きな武功を上げている。


蘇峻の乱から命からがら逃げ延びた庾亮は、陶侃率いる西府に亡命する。そして陶侃に蘇峻討伐を依頼。陶侃自身も庾亮の締めつけ政策の被害者ではあったのだが、割とすんなり承諾している。こうして動き出した陶侃、北府との連携を取りつつ、建康に進撃。そして見事蘇峻らを倒すのである。


この乱により、西府軍北府軍は、東晋に取ってなくてはならぬ存在としての地位を確立した。



○いじめられっ子、体制を整える


さて蘇峻らは討ち果たされた。その間もなく王導、庾亮、陶侃、郗鍳が立て続けに病死。一気に東晋の世代交代が起こる。中心に立つのは元帝の末子、会稽王司馬昱しばいく。後の簡文帝である。その周りには、蔡謨さいも何充かじゅう、殷浩といった辣腕官僚が北府を、庾亮の弟庾翼が西府を、同じく庾冰が中央の補佐として固めた。


そして西府の属僚として、桓温が登場するのである。



○「北伐」の成立条件


北伐という言葉で、はじめに思い浮かぶのは概ね三國志の諸葛亮しょかつりょうであろう。東晋でなされる北伐も、特に諸葛亮のなしたそれ以上の理解は必要ない。即ち、捲土重来のための軍事行動である。


ただし、言うは易し、である。いま簡単に書いたが、実際にこれを行うために必要な物はかなり多い。兵力、兵糧は勿論のこと、もっとシンプルに必要なものがある。


権力、である。


ここなくして兵力の動員は叶わぬ。諸葛亮は出師の表の段階で絶対的とも呼べる権力を得ていた。が、桓温はそうではない。故に、桓温北伐の道程は、ほぼ桓温の権力掌握の道程となるのである。



○桓温とは


出自である龍亢りゅうこう桓氏は、祖先を戦国時代の斉桓公に求められる、れっきとした漢代以来の名家である。ただしトップクラスの顕名であるか、と言えば、残念ながら違う、と言わざるを得ぬ。桓温の家譜も祖父より先は遡れぬし、名家とは言っても権勢を持てていたかといえば、ノー、であった。


では、その桓温。どのようにして名を馳せたのか。


晋書には残らぬが、世説新語を辿ると、どうにも司馬昱の学友としての立場ではあったようである。学識や品行、それに加えて家柄が求められる立場であるから、この段階でも一応の高位にはあった。しかし、蘇峻の乱。ここで桓温は、父桓彝かんいを喪う。蘇峻の配下江播こうはんに謀殺された、とのことであった。


そこで桓温、蘇峻の乱平定後、単身での復讐を敢行する。この時すでに江播は死んでいた。桓温の刃が向いたのは、三人の息子。おい。だが当時の道徳観において「この復讐劇は絶賛された」とあるので、そこはもう、そういうものとして飲み込んでおかねばならぬ。


この大立ち回りが、桓温の声望を一気に押し上げた。もとより司馬昱よりの信任も相当に厚かったのであろう。桓温は妻に司馬興男しばこうなんと言う人を迎える。東晋暁初の危地を救った、かの明帝の娘である。そして庾文君の娘でもある。即ちこの段階で、桓温は皇族司馬氏と、宰相庾氏の姻戚となった。


そしてこの話が、前段に繋がってくる。西府の属領として就任。この時の西府軍トップは庾翼、即ち庾氏である。瞬く間に西府軍内での地位は向上。庾翼が病死した後、少々のいざこざはあったものの、西府軍統領の座が桓温に引き継がれた。


その桓温、西府軍を引き受けるや、電撃戦にて成漢せいかんを滅ぼす。成漢と言えば五胡十六国時代の幕開けを彩った国の一つである。いくらこの当時の成漢がグダグダの極致にあったとは言っても、国ひとつを手飼いのみで滅ぼしてしまうのだ。これは並大抵の武勲ではない。


こうして、桓温の名は中国全土にとどろくのである。そして彼の出現が、この後に新たな三国時代を招くこととなる。



○そして新三国時代へ


蘇峻の乱平定後の東晋では、それほど大規模な反乱はない。無論ないわけではないが、特筆すべきもの、という意味では皆無と呼んでよいに等しい。この間政情も危ういバランスを保ちつつ安定。これによって東晋は国力の増大を実現した。


その間、何度か北伐(笑)が起こっているが、どれも結果からすれば「とりあえず祖逖みてーに胡賊どもから領土分捕り返すポーズとっといた方がいんじゃね?」的装いを感じてしまう中途半端なものであった。いや当人たちは大真面目であったとは思うぞ、思うのだがな。


この情勢に一石を投じるのが殷浩であり、桓温なのであるが、かれらの北伐はこの頃の五胡勢力の趨勢と絡めねば中途半端となろう。よって当部はここで幕となる。


リベンジする準備を整えた東晋が挑む相手、後趙、前燕、前秦。彼らが一体どのような存在であるか、が次部では語られることとなろう。


では、また次部にて。

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