第四部 冉魏春秋

ごきげんよう、崔浩さいこうである。

石勒せきろくという不世出の覇者を失い、

さて、中原には如何なる嵐が

吹き荒れたのであろうか。


当部にては、吹き荒れた嵐により

現出した、次代の物語を紹介致そう。


まずはざっくりと語る。

後趙こうちょうが割れ、前秦ぜんしん前燕ぜんえんになった。

このハンマーとなったのが

冉魏ぜんぎである。


則ち、如何に冉魏が生まれ、滅んだか。

この物語が、後の三国鼎立を生むのである。



○石氏の習性


敢えてこの書き方をする。けつ族の雄、石勒。彼にはコロニーを築き上げる習性があった。石勒が、これは、と見込んだ者を養子とし、ファミリーに取り入れ、疑似血族を築いたのである。まさにマフィアの如き振る舞いである。例えば、石樸せきぼくという人がいる。魏晋の名将石苞せきほうの子孫であるが、「姓が同じだから」なる理由でファミリーに迎え入れられた。また石虎せきこも石勒の親族の子であり、実子ではない。


そして、この中に一人の男が加わる。冉瞻ぜんせん。石氏入りに伴い、石良せきりょうと改名した。石勒軍内で勇躍するも、恐らくは劉曜りゅうようとの洛陽らくよう最終決戦にて戦死。


冉閔ぜんびんの、父である。



○石虎の時代


石勒は、後継者を実子の石弘せきこうとしていた。が、この当時、後趙の宮中では石虎が大きく権勢を伸ばしていた。重臣達は石虎の排除を目論むも、石勒存命中は、他ならぬ石勒に妨げられていた。ここには、石勒と石虎のただならぬ絆を感じられるかのようである。が、後趙の系譜にとりては、この絆が仇となった。


石虎は、己より弱い者に付き従う気はさらさらなかったようである。則ち、石勒以外には。であるから石勒には絶対的な忠誠を誓うが、それ以外のものに対しては、「弱い癖に幅を利かせて来る糞ども」とすら思っていた節がある。


石勒死後、たちまち石虎はクーデターを敢行。この時に殺されたのは、石勒の参謀であった徐光じょこう程遐ていか、皇太后りゅう氏、皇帝石弘。いわゆる「家」の倫理観に則れば、到底殺し得ぬ者ばかりである。だが、「石勒以外は皆憎むべき敵」というロジックさえ嵌めてしまえば、存外権力指向の武将上がりの振る舞いとしては、特異な行動、とまでは言えぬ。


そして、この点については重言と知りつつも付記しよう。この粛清劇、儒教的倫理観から言えば、どアウトにもほどがある。この行動一点のみ取り出しても、石虎を「陰惨な殺しを好む最悪のクソ」と中国史さま、具体的には司馬史観(※司馬光しばこうのほう)が演出したくなるのはやむなし、と言える。


が、どうしようもない、最悪の皇帝と描かれる割に、後趙は石虎の代で崩壊しておらぬ。寧ろ勢力を伸長している節すらある。この点については、敵対者であるしん目線での石虎評を見てみよう。下記一段落は、「小川茂樹」氏の漢籍翻訳を引用させて頂く。


「石勒の挙兵以来、石虎は常にその爪牙となり百戦百勝、遂に中国を平定するに至りました。その境土の據る所は、曹魏の版図に等しゅうものでございます。石勒の死に際しては、内外の将・相たちが石虎のことを誅殺しようと欲しました。石虎は衆心が彼と異なる中において独り決起し、石勒の嗣主(※石弘)を殺害し、その寵臣たちを誅滅してしまいました。内難を平定するや否や、千里の遠きに出撃して、わずか一回の攻撃で金墉きんよう城を抜き、再戦して石生せきせいを斬り、彭彪ほうびょうを捕らえ、石聡せきそうを殺害し、郭権かくけんを滅ぼし、その領土の根本をすべて奪い還してしまったのです。この戦績を詳察して、どうして石虎が有能だとか無能だとか議論する余地が出てくるのですか?」


晋書蔡謨さいも伝より、庾亮ゆりょうの北伐起議に対する蔡謨の反論である。ご覧のとおり、ある意味では手放しの大絶賛である。


石虎はとんでもない暴君である、と呼ばれる。が、その暴君が国を傾けたという話はついぞ聞かぬ。なので、当講座に於ける石虎の扱いは「よく分からんが、とにかくヤバいくらい強い」。ここで止まる。あとは、先人の後継者を蔑ろにすれば、あなたの後継者候補も当然蔑ろにされますよね、と言った辺りであろうか。伏線である。きっちり踏まえるように。


さて、そんな石虎の時代。かれの元には、綺羅星のような人材が集まっていた。以下にその人材たちを紹介いたそう。



○石虎陣営のやばい奴ら


冉閔

真っ先にこの人を紹介するべきであろう。武勇を大いに鳴らした石良(=冉瞻)の息子として、同じく武名を馳せた。劉聡りゅうそう劉曜石勒石虎と、連綿と続いた代々の纂逆系統(石勒は微妙に違うが、まぁ大枠ではこの範疇である)の輝かしきアンカーであり、且つ彼のみが勢力を維持し得なんだのには、結局のところ施政と時勢、両面からの理解が求められるのであろう。


蒲洪ほこう苻洪ふこう

西方出身の五胡、てい族の豪族。元々は劉曜に従っていたが、劉曜の敗北を受けて帰属。戦績などはあまり残っておらぬのだが、石虎政権下では西部方面の要としての立場をキープしていた。なお冉閔との仲は最悪であった。そのため石虎死亡後の後継者争いでドタバタする後趙より撤収、一旦東晋への帰属を挟み、独立。その際に予言を得、苻洪と改名。ただし苻洪本人は、政権を満足に樹立せぬ内に、同じ亡命者の麻秋ましゅうに毒殺された。


麻秋

その麻秋である。石虎政権下で主要将としての活躍を見せるも、割と敗北が多い。石虎には何とか見逃されていたが、冉閔からは容赦なく責め立てられていたようで、逃げるように後趙より脱出、苻洪に依った。そしてその勢力乗っ取りを画策してかれを殺したところ、その場で蒲洪の息子苻健ふけんに殺される。


姚弋仲ようよくちゅう

西方出身の五胡、きょう族の長。石虎の配下、また頼れる相談役としての存在感を示す。そして蒲洪と同じく冉閔よりは疎まれていたようで、石虎死後、各地を転々とし、最終的には東晋に帰属。東晋の対冉魏、対前燕戦線の要将となる。また彼の息子姚襄ようじょう姚萇ようちょうが、後年の五胡十六国時代を大いに血で彩るのである。



以上が特筆すべき人物である。そしてここで、蒲洪以降の人間について付記しておく。全員が西方系である。繰り返すが、西方系なのである。この点については、良くご記憶頂きたい。



○冉閔とは


ではここで、いよいよ冉閔についての話と参ろう。先に石ファミリー、正確には石虎の養子として仲間入りした、父、冉瞻(石良)。かれは漢人であった。即ち晋の中枢の者たちと同族である。更に言えば、そう高い身分の出でもない。同姓の著名人としては、孔子こうしの高弟が数人が見える程度であり、どう頑張っても名族ではない。いわゆるトップ名族にしてみれば、「こんな微賤の出のゴミにデケぇ面されてムカつく」となろう。


石勒石虎は仕方がないのだ。後趙というヤバい国を打ち立てるほどのレベルで、問答無用に強すぎる。しかし、冉瞻と閔親子。言ってしまえば、虎の威を借る狐、である。確かに彼らも強かった。だが、権威の淵源が別にある以上、石勒石虎のように突き抜けた存在とは、どうしてもなれぬのである。


石虎死後、後継者の座を争い、石虎の子らが同士討ちを始める。細かいので省略するが、彼らの内紛にも似たようなロジックでの説明が効こう。即ち、石虎の息子ともなれば、もはや絶対強者ではない。故に漢人官僚層の求心力が著しく低下、むざむざ石氏皇族内での同士討ちを許した、と見ることが出来よう。冉閔には申し訳ないが、権勢という意味では、「冉閔程度でも席巻できる」レベルにまで落ちてしまっていた。


一族内でキャッキャと殺し合う石氏宗族を、その武力だけは圧倒的な冉閔が眺める。雑魚の群れである。なので石氏を殺し尽くし、簒奪。魏を号し、皇帝を名乗る。


またこの後の行為が重要である。「胡殺令」と名のつく触れを出し、匈奴鮮卑らを虐殺せよ、と指示したのだ。以下に三点、そのアウトラインを窺える要素をピックアップする。


一:国内外に関わらず、

  胡人が武器を持っていたら

  問答無用で殺せ。

二:国内の漢人よ、胡人を殺せば、

  加官進爵を約束する。

三:にっくき胡族を掃討するためにも、

  他国よりの討伐軍の派遣を歓迎する。


いかがであろうか。どこのラノベ独裁者だよ、と言う話である。


確かに前後趙と言った胡族支配に、怨みを抱いているものは少なくなかったであろう。或いは冉閔自身、その恨みを隠して石虎に仕えていたのやも知れぬ。だが、冉閔が散々後趙に仕えてきた末の表明ともなれば、もはや壮大なる親殺しにしかならぬ。


さて、我々は結果からしか語れぬ。冉閔は人心掌握のために胡殺令が有効な手段と見做していたようである。そして結果として、世論の回答はドン引き、であった。鳥瞰的に振り返るが叶う我々は、概して当事者の極限状況下における判断ミスを嘲笑う向きがある。無論ある意味では、笑うが正着である。が、笑って終了、では、余りに勿体ない。


冉閔は正しいと思う判断をした。そして失敗し、政体を崩壊させていった、と言える。その流れの奥には、おそらく歴史の妙が埋まっているのであろう。深入りは当講座の範疇ではない故回避するが。



○後趙の残滓としての前秦


旧後趙圏勢力が崩れゆく中、大きな求心力を得ていたのが、西に逃れていた苻洪であった。ただしかれは、間もなく麻秋に殺された。息子の苻健が即座に父の仇を討つと、秦を号し、独立。胡漢を問わず、多くの人士が疎開先として秦を選んだ。


こうして次代の雄の一つ、前秦が姿を現す。ただし、ここから前秦は混迷の中に落ちる。急激に増加した人士の取り纏めに苦心し、多くの謀反に揺さぶられ続けるのである。強勢を誇る、と言うレベルにまで至るのには、いま少しの時間を要することとなる。



○旧後趙圏東部のこと


さて、ここで話を立ち返らせよう。石虎配下の人材についてである。あちらでは西方系の人材ばかり、と書いた。では東方系はどうであったのだろう。


いなかった。もしくは、鮮卑せんぴ慕容ぼよう部に滅ぼされた。恐らくは、後者であろう。敗者の記録は、どうしても残りづらいものである。


さあ、冉魏が大いに割った旧後趙エリアへと、いよいよ慕容がなだれ込むのだ。



○鮮卑慕容部とは


ここまで意図的に慕容の話を抜いてきた。何故ならば、この段階で彼らはほぼエイリアンだからである。


鮮卑慕容部。東北の片隅でうごうごする鮮卑の一部族である。が、三国時代や八王の乱における中原のカオスを嫌った士大夫層が、疎開先として彼らの住まうエリアを選択した。慕容部は、かれらを積極的に受け入れることにより、中原文化の恩恵に浴していった。


このころの慕容部と晋の関係性については、若き慕容廆ぼようかいが晋の前線基地に表敬訪問した折のエピソードに良く現れている。晋のスタイルに則った服装をして訪問した慕容廆に対し、基地の長官は完全武装で臨んだ。史書では、慕容廆がこの後「礼に対して無礼で返す者どもに付き合う義理もないな」と普段着に戻り、長官らと接見。このやり取りに長官は恥じ入った、とされている。


が、慕容を見渡してもだいたいがクレイジーマッドヒャッハーである。偶然慕容廆、そして後の慕容評ぼようひょう慕容恪ぼようかくなど漢人のお作法に通暁するものもいたが、並べて彼らは異物である。長官にしてみれば「怖ろしいに決まっている」存在であったのだ。



○慕容部の台頭


さてそんな慕容部、当初は周辺を同じ鮮卑のだん部や宇文うぶん部、異民族の烏丸うがん高句麗こうくりに囲まれていた。彼らと戦い、外交をし、何とか勢力を維持していた、というのが慕容廆の父、慕容渉帰ぼようしょうきまでの状況である。


しかし慕容廆の代で西晋への臣属を宣言。大きく晋の技術力を獲得、国力を拡充させる。更に、このタイミングで起こるのが、八王の乱である。


八王の乱に際し、多くの晋系人材が外部に流出した。この際、既に漢人のスタイルを大いに取り入れていた慕容部は、亡命漢人らにとっても非常に魅力的な疎開先であったことだろう。加えて永嘉えいかの乱をきっかけに匈奴や羯が中原でわちゃわちゃするのである。漢人らも「これはもう故郷に戻れんわ……」と言った気持ちにもなろう。


こうして慕容部は、鮮卑元来の攻撃力に漢人の技術力が乗る、とんでもない厄種に育ったわけである。結果慕容廆の息子、慕容皝ぼようこうの代では、宇文部段部との力関係も逆転。いわゆる幽州平州エリアでの覇を唱えるに至る。そしてえんの地にて覇権を築いたことから、燕王を自称。更に、それを東晋朝に追認させる。


とは言え、この頃中原では別の厄種が育っていた。後趙。そう、石勒石虎である。どちらも当代随一の武力を誇り、且つ外敵に対する凶暴性については脅威、としか呼べぬ。特に石虎と燕との間では激しい戦端が開かれている。これに勝利こそしているものの、結局燕エリアと中原とでは生産力に大きな開きがある。慕容から攻め込むなど、到底出来たものではなかった。


そう、なかったのだ。



○冉閔と慕容氏


当段では、散々冉閔について書いた。このオモシロ冉閔大暴走により、中原の防衛力は一気に低下。


この頃慕容皝は死亡、その跡を息子、慕容儁ぼようしゅんが継いでいる。この慕容儁にしてみれば、冉閔のおいたは千載一遇のチャンスである。およそ二十万の兵を引き連れ、南下。瞬く間に東半分を手中にした。


この慕容南下については、かなりのエポックメーキングな出来事と認識している。と言うのも、秦漢しんかん以来、漢人政権は北狄の辺寇こそ許せど、いわゆる中華と呼ばれる領域への侵入は何とか防いでいた。


五胡の嚆矢として名を誇る匈奴きょうど漢~前趙は魏晋の迂闊な外交戦略が生んだ悪性腫瘍であるし、後趙も同じく司馬騰しばとう司馬穎しばえいのやらかした先見の不明の賜物である。故に一般的な五胡十六国時代の端緒とされる事蹟「北から来た蛮族に漢族がシバかれた」には、どちらも適合せぬ。慕容の南下こそが、このステロタイプに適合する、五胡十六国時代中初めてにして最後の例なのである。


冉魏の領域を大いに削り取った慕容燕の前に、冉閔は剥き出しとなる。いかに冉閔と言えど、一騎当二十万はファンタジーにも過ぎる。こうして、当代随一の姦雄は数の論理の前に、あえなく踏み潰された。


なお冉魏を滅ぼした後、燕は「東晋は天下の覇たるにたらず」と帝位を自称。ここに東晋との完全なる手切れを宣言した。



○冉魏春秋


石虎の「武」の結晶として、冉閔は世に名を馳せた。しかし、漢人士大夫層は単純なる武力による支配を受け入れぬ。結果純粋武力たる冉閔軍閥は勢力を上手く保持出来ず、早々と瓦解した。


また冉魏としてはこの上なく不運なことに、東北の外れに漢人を上手く扱える蛮族が現れてしまっていた。「殺胡令」の失敗は、この「スマートな蛮族」の対比として見ると、なかなかに趣深いものがある。


石勒石虎が築き上げた、胡漢融合の形。これを稀代の梟雄冉閔がブッ散らかし、中原にカオスを撒き散らす。そのカオスを氐族の苻氏が、鮮卑の慕容氏が回収し、中原に新たな戦乱の構図を築き上げる。


秦燕、そして漢族の国、晋。


若き英雄たちが彩る、次なる世代の戦いは、梟雄が残した禍々しき足跡の先に生まれるのである。


それでは、また次部。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る