第二部 石勒
ごきげんよう、崔浩である。
五胡十六国時代前半を彩る
天衣無縫の英雄、
この時代を眺めていても、
その人の存在感=その人のいた時代、
と言うくらいの存在感を示しているのは、
彼と
では、彼の人生は
どのようなものであったか。
そこを追ってまいろう。
当部は二部編成である。
前半で石勒にまつわる人物を語り、
後半で石勒の人生を語る。
と言うのも、先に人物を把握せねば
そのあまりに凄まじい戦績の
関連性が見出しづらいからである。
○石勒関与人物
・恩人、味方
石勒初期の盟友。石勒が奴隷として買われた家の隣人であり、またたく間に石勒と意気投合した。石勒と共に群盗を結成(ここに含まれているのが、のちの石勒十八騎)。この頃は八王の乱真っただ中。汲桑と石勒は
司馬穎の配下として活躍した。石勒と汲桑を部下として取り立て、軍権を与えた。しかし
・趙漢
言うまでもない、漢帝である。
劉淵の息子、漢三代目皇帝(二代目の
劉淵の族子、靳準を殺し前趙を開いた。結果から言うと石勒最大のライバル。石勒の戦史を繙くと、ほぼこの者との決戦のための道のりとすら言ってよい。
劉淵の学友。群盗として晋軍を大いに悩ませた後漢に帰属。将軍として際立った軍功を挙げていたが、だいぶフリーダムな人柄であったようで、劉聡からも石勒からも疎まれていた。最終的には石勒に殺された。
劉聡に仕えた佞臣。劉聡死後の漢を我が物顔で操ろうとしたところ、劉曜に攻め殺された。「靳準の乱」は、匈奴漢を滅ぼした原因、とすら言ってよい。
・後趙
石勒の絶対的信頼を受けていた参謀。お前が右侯でおれ明公、と呼び合う仲である。ただし第一印象はかなり悪く、「俺すごいよ! 使ってよ!」と激アピールぶっこんできた張賓に、当初石勒はドン引きしていた。少女漫画か。
張賓亡き後の参謀となったが「お前じゃものたんねーよ張賓返せ張賓」的な扱いを受けている(むしろ程遐は直接言われている)。一定の信任は得てもいるのだが、石勒張賓のこと好き過ぎだろう感が彼らとのやり取りを通じて伝わって来てしまう。なんとも切ない。
石勒十八騎
豚とか鹿とか、おい、という感じである。ところで西晋の官僚にも劉宝という人物がおり、この二人が同一人物であったら、サイコーに楽しそうな気がしてならぬ。まああり得ぬであろうが。
石勒の甥。ずば抜けた軍功を挙げた、石勒旗下最強の武将。後に石勒の嫡子
武将として、石虎の次に名前が来る。ところで十八騎の中に同じ孔姓の孔豚がおり、「いや、さすがに豚はねーよ、どう考えてもあだ名だろ」とは思わずにおれぬ。だとしたならば、実は孔萇のあだ名なのではないか、とも思うのだが、一方で十八騎とは全然関係のない人物がトップ武将として名を輝かせる下克上物語もそれはそれで美味しいのである。
・晋
晋の皇帝たち。まぁ、石勒はあまり関わっておらぬのだが。
石勒から見た「八王の乱」は司馬越対
司馬穎
汲桑とともにこの人の配下の配下となった。なので直接の関わりはない。この人の影響下にいる、という事は、当然劉淵のことを耳にすることも多かったであろう。ともなれば、間接的に劉淵と出会わせた人、という事になり、そして「そりゃこいつが永嘉の乱の原因だわ」と改めて爆笑してしまうのである。
司馬越の弟。石勒を奴隷の身に突き落とす原因となった「胡人狩り」の主導者。なのでとにかくこいつを○してやりたい、と言うのが石勒の宿願であった。王浚と結び并州での勢力を拡大。司馬穎を攻め滅ぼす。だがその後司馬穎残党ら(つまり石勒や汲桑)に攻め立てられ、殺された。
石勒の北部戦線に立ちはだかる難敵。王浚は
晋将。ともに石勒を大いに破っている。この時代はとかく漢側趙側の武将が目立つのだが、この両名の武威は異常、と呼ばざるを得ぬ。両名とも人物録で紹介したい気持ちもあったのだが、やはり八王を優先にすべきであろうという事で省略した。
司馬越の配下。
○石勒の生涯
・何者でもなかった時代
敗走しながらも再起の手立てを確保した石勒と汲桑は「司馬穎の復仇」を旗印として
・漢将として(劉淵期)
逃亡生活の末、石勒は劉淵へ帰属。勢力を拡大する漢の中でも突出した武勲を挙げる石勒は瞬く間に栄達。持節、平東大將軍、校尉、平晋王、都督山東征討諸軍事と言う物々しい官位を得ている。平たく言うと「東部戦線はお前に任せた」である。実際、この辺りの石勒は鄴を中心として縦横無尽に駆け回っている。
そしてこの時期「君子営」と呼ばれる官僚組織を創成している。ここに張賓も参加していた。
この石勒の動きを警戒したのが、王浚。部将の祁弘に命じ、
期、来れりと見たか、ここで漢軍が
・漢将として(劉聡期前編)
劉聡旗下として二度目の洛陽攻めが敢行されるが、これも失敗。ここで石勒は東部戦線から南部戦線に配置換えがなされる。
この頃、懐帝司馬熾と司馬越が対立していた。司馬越が苟晞を従えて石勒と睨み合っていた所に、裏で懐帝が苟晞に「おいお前司馬越暗殺しろよ」と密命を下す。司馬越にしてみればいろいろ無理ゲーである。苟晞と対立しながらも、東に逃れようとした。が、その途上で死亡。あとには司馬越の指導力を頼りにしていた王衍以下の青瓢箪たちが残された。
内輪もめだなどと言うバカバカしい事態が起こっていることを察していたかはともかく、司馬越残党の動きを怪しんだ石勒は残党に追撃をかける。そこでチワワのごとく震える王衍を発見。「あっ……(察し)」案件である。王衍以下のモヤシ達を大ナタに掛けた。
この石勒の虐殺で、西晋の国力衰退は待ったなしとなった。いよいよ劉聡が三度目の洛陽攻撃の号令を掛ける。石勒もこれに参加、三度目の正直で、洛陽がついに陥落。この洛陽陥落が、一般に
さて洛陽と言う「最大の敵のシンボル」が失われると、共通の敵を見出しにくくなった漢国内の統制が緩み始める。特に漢族である王弥と、胡族たちの間柄には完全にヒビが入っていた。何度か起こる暗殺未遂事件。その末に石勒が王弥に「めんごめんご、俺たちが仲違いしてちゃだめだよね。仲直りのために、宴を開くよ!」と招待状を出す。何も疑わず宴に参加し、酔いつぶれる王弥。石勒の本当のプレゼントは永遠の眠りであった。
驚いたのは劉聡、劉曜である。いくら不仲と言えど、王弥は押しも押されぬ漢の驍将である。それを、殺す。「気持ちはわかんないでもないけど何やっちゃってんだよお前」と一応劉聡も激怒したが、とは言え今ここで石勒に離反されては地獄である。特に罰らしい罰もなく、石勒の地位は留め置かれた。
・大いなる挫折~独立(劉聡期後編)
王弥謀殺がなった頃、石虎が石勒軍に合流する。元々劉琨の元に人質として捕らわれていたのであるが、解放されたのである。この時劉琨は石勒に「今からでも遅くない、晋に帰属して、劉聡のアホぶっ殺そうぜ」と誘っている。これに対して「いや俺晋に義理なんかねーしヤだよ、まぁ石虎返してくれてあんがとな」と返書を送っている。
洛陽陥落後、再び南部戦線に戻った石勒。石勒が得意とするのは騎馬による機動戦である。しかし南部では湿地、河川が馬の足を取る。戦い方の変更を余儀なくされ、それの準備に手間取っていた。そこに疫病が襲い掛かる。「あっこれ無理なやつだ」。石勒は速攻で南部戦線に見切りを付けた。ちなみに、南に見切りつけようぜ、は張賓の進言であった。以降張賓の存在感が一気に増していくこととなる。
なお、この撤退劇は劉聡の命令範囲外である。つまりこの段階で、石勒は劉聡から事実上離反したようなものであった。
引き返した石勒軍は鄴よりやや北にある都市、
しかし襄国を攻め立てる王浚の軍は精強であり、瞬く間に石勒は敗亡の瀬戸際にまで追い込まれてしまう。ここで大逆転の武功を挙げたのが孔萇であった。孔萇の働きのおかげもあって、王浚の軍勢を何とか退けた石勒は、王浚に対して臣従の如き姿勢を示し、油断を誘った。そしてこれに王浚がコロッと騙された。お、おう。
多くの献上物と共に、王浚の元に赴いた石勒。歓待の宴の場を設える王浚。そして石勒は王浚の本拠に入るや、たちまち伏兵を動かして王浚を捕えてしまう。この顛末に劉琨は「いえーい王浚バーカバーカwww」的コメントを残している(※)。残念ながら明日は我が身なのであるが。
そんな劉琨の勢力を裏付けていたのは、鮮卑拓跋部。この拓跋部に内乱が起こった。防衛力がガタ落ちになる。ここを狙わない石勒ではない。瞬く間に攻め込み、優勢に事態を進める。そしてここで、劉琨陣営で内輪もめが発生。進退窮した劉琨は鮮卑段部の元へ逃亡するが、そこで、劉琨は殺された。こうして劉琨の勢力圏も石勒の手中に帰した。
なお、この頃劉曜は洛陽から西進、
※ 正確なコメントは「石勒は天命を知るや過ちを省み、連年の咎を反省し、幽州を抜いて善を尽す事を願い出てきた。今この願いを聞き入れ、任を授けて講和する事とした(勒知命思愆,收累年之咎,求拔幽都,效善將來,今聽所請,受任通和)」。石勒のヤツが反省して謝ってきて、手土産に王浚ぶっ殺すって言ってきたから許してやらないでもない、と言った辺りになる。
・靳準の乱
石勒が北部戦線をあらかた平定したころで、劉聡が死んだ。あとを受けて立った劉粲は靳準によって殺された。靳準は更に劉聡の一族も皆殺しにする。とは言え「バカだろお前」とすぐさま劉曜に殺されたことはこれまでも何度か書いている。
ここを厳密に書くと、靳準ブッころレースが劉曜と石勒との間で繰り広げられていたのである。勝者は劉曜。なので石勒はいったん劉曜の風下に立ったが、この後和平交渉と言う名のマウンティング戦が勃発。めでたく両者の関係が修復不能となる。
ここから、両者の動きは最終決戦に向けて収斂していく。石勒は周辺の不穏分子つぶしに奔走した。中でも恐るべきは東晋愚連隊、祖逖であった。祖逖に対しては旗下随一の石虎を当てている。どれだけ警戒していたかがよくわかる。
ちなみに省略しているが、ここから洛陽決戦に至るまでには十年の歳月が流れる。そしてこの間で祖逖が、張賓が死亡している。
・洛陽決戦
各勢力の戦線が入り乱れた結果、洛陽は一種の空白地帯になっていた。ここに真っ先に入ったのが後趙、
そして、洛陽決戦。
この戦いは劉曜が酔っ払ったまま出陣し、あっさり捕まったように書かれている。が、ここは待った、と言わざるを得ぬ。戦いの前、石勒は言っている。「やつに迎撃に出られていれば最悪、引きこもってくれていれば最良だ」と。そして劉曜が引きこもっているのを見て「天はおれに味方した!」と絶叫した。見方を変えれば、この戦いがどれだけの大博打であったかを語っていよう。
この決戦の結果劉曜の捕縛に成功、後に斬首。前趙は指導力の決定的な喪失を被り、敗亡の途を辿る。劉曜死亡の報を受け、長安では劉曜の嫡子
・即位~死亡
前趙滅亡を受けて、配下たちが石勒に皇帝位即位を請願。形式に則り石勒は何度か辞退をしたのち受諾、即位する。その後国内の統治に意を砕く。東晋との間には、皇帝就任後目立った動きはない。
やがて石勒は病を得、床に伏せるようになる。ここで石虎が次代の権勢を得るべく陰謀を巡らせ始めているかのように書かれている。それがどこまで真実なのかはわからぬが、程遐や徐光が石虎を退けるよう度々石勒に建言していたこと、そしてその二人が石勒死後に処刑されているところを考えれば、少なくとも嘘ではない、のであろう。
石勒死後、嫡子石弘、劉皇太后と、石勒の近親が次々と消された。ただし石虎時代には一定の安定がもたらされていた節もある。「石虎が悪逆非道の王でなければならぬ理由」が、歴史のどこかに落ちているのであろう。ただし、それは未だ見出すことができていない。
○結語
余り文字数を割きたくないために、
石勒の闇の部分は記述より排除している。
というのも、数万人規模の虐殺、
十万人規模の強制移住など、
かなりとんでもないことをやらかしている。
また一方では、かっとして部下を殺しては
「あああ、なにやってんだ……」
と悔やんだりなど、北斉の名君(笑)たちに
負けずとも劣らぬ暴虐な
振る舞いもなしている。
反省までワンセットでなくとも
よいのであるが。
良くも悪くも、
やはり石勒は騎馬民族の王、なのである。
一方で、諫言提言等に対する振る舞いは、
斯様な暴力性を抑え込み、
徳治を為せるよう苦心した
形跡が見て取れる。
並外れた獣性を、
並外れた精神力で抑え込んだ王。
それが石勒、
と言うひとだったのではあるまいか。
獣性を押さえる、と言うキーワードは、
苻堅にも似たようなところが
あるように思う。
作者として思う事は、
やはり「戦績がおかしすぎる」である。
劉裕が基準となっておるため、
この人生≒戦争、と言う事跡は、
追っていて眩暈がする。
なぜ生き延びておるのか。
劉裕、割と平和な時代に生まれた、
と言ってしまっても構わぬ気がしてきたぞ。
大いなる石勒、そして良くも悪くも
彼の後継として大任を果たした石虎。
この巨大な二名を失い、
再び中原にカオスがやってくる。
一度東晋について目を向けたあと、
次なるカオスを眺めていきたい。
では、また次部。
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