第一部 君主列伝下 慕容燕及び拓跋

ごきげんよう、崔浩である。


ではここから慕容燕、

そして我らが拓跋系君主について語る。


ところで我が麗しき北魏帝らの紹介に当たり

一部いみなの呼び捨てをしておるが、

これは読者諸氏の分かりやすさを優先してのことである。

断腸の思いである。まかり間違っても作者の手抜きではないぞ。



・前燕 337 - 370


初代 慕容廆ぼようかい 269 - 333

 前半生が戦キチガイ。しかも負けまくっている。よくこんな大人に慕容部はついていったものだ。西晋に従ったり逆らったりを繰り返しながら周辺の鮮卑諸部族を牽制、そして鮮卑宇文うぶん部・だん部、及び高句麗こうくりの連合軍を撃破、東北地方における覇権を握る。面白いくらい八王の乱に絡んでいない。思いっきり劉淵と同世代の人ではあるので、おそらくお互いに存在は認知していたのだろう。劉淵の伝に載る「鮮卑」に慕容部がどれだけ関わっていたのだろうか。拓跋部は完全に敵対していたようだし。


二代目 慕容皝ぼようこう 296 - 348

 慕容廆の息子。国力拡充に努め、燕王を自称。なので燕の初代王はこの人という事にはなる。この当時東晋との関係は比較的良好であり、石虎率いる後趙に対する牽制勢力として大きな存在感を保っていた。やがて数十万を率いて攻め上がってきた後趙軍を、息子の慕容恪ぼようかくに撃破させていたりもする。戦続きの生涯ではあったが、死因は狩猟中の落馬。締まらない。


三代目 慕容儁ぼようしゅん 319 - 360

 慕容皝の息子。後趙~冉魏の混乱に乗じて南下、国土を大きく広げた。時を同じくして勢力を急拡大させた前秦、江南に大きな存在感を堅持している東晋と国境を接するに至り、以後両国との交戦状態に突入する。この状況が二正面作戦となり、戦線の維持に大きなコストを支払わねばならなくなったのが前燕滅亡の遠因、とも言われている。


四代目 慕容暐ぼようい 350 - 384

 慕容儁の息子。聡明な長男慕容曄ぼようようの夭折を受けての繰り上げ当選。叔父の慕容恪の後ろ盾があった間の前燕はむしろ最盛期とすら呼ぶべき勢いだったが、その死後宮廷内の不和等によって、前燕内最強の武力と言われていた慕容垂ぼようすいが前秦に出奔。また慕容垂出奔の直前に東晋の将・桓温との一大決戦である枋頭の戦いが起こっていたのも大きかった。これにより国力に大きなダメージを負った前燕は、前秦に攻め滅ぼされた。苻堅ふけんに捕らわれた慕容暐は「自分は前燕の社稷を全うできなかった罪人である」と述懐しているが、状況としては割と無理ゲーにも近かったのではないかとも思われる。その後反乱を画策したが漏洩し、殺された。


 なお弟たちの建てた西燕はよくわからぬので放置する。なんだあのクソ国家。



・後燕~北燕 384 - 407 - 436


初代 慕容垂 326 - 396

 前燕の慕容皝の息子。また慕容儁、慕容恪の弟。兄らとともに前燕最盛期を現出させるが、兄らを失ったとたん皇族らに猜疑の目で見られる。その為前秦に出奔するが、苻堅以外の人間からもやはり、軒並み猜疑の目で見られる。どう考えてもそうなるだけの性格をしていたとしか思えない。淝水後独立した時に苻堅と文通しているが「あんなに目を掛けてやったのに裏切るなんて許せない!」と言ってきた苻堅に対する返しが「いやいや、だって皆して僕のこと疑いの目で見るんですもん、あんな扱いされて心ささくれ立たない方がどうにかしてますって」であった。いや絶対お前ケンカ売るよーな目つきで周りの人間のこと見てたろ。

 後燕の皇帝を名乗ったのは苻堅死後。またそれは慕容暐死後でもあり、いったい慕容垂はどちらに義理立てをしていたのだろうか。ともあれ参合陂に息子の慕容宝ぼようほうを派遣したところ我らが道武帝に致命的大敗。これで後燕の衰運が決定づくのだが、その後の特攻よろしい逆襲で我々も手ひどい被害を受けた。齢七十のジジイの采配じゃねえだろうと戦々恐々としていたのだが、直後死亡。ジジイの最後っ屁は恐ろしい。


二代目 慕容宝 355 - 398

 慕容垂の息子。まじめだが凡才と言うひどい評価である。慕容垂も慕容宝に武人としての箔付けをさせようと北魏戦を率いさせたのだろうが、まさかそこで致命的敗戦を被るとは思いもよらなかったのだろう。慕容垂死後は慕容詳ぼようしょう慕容会ぼようかい慕容麟ぼようりん段速骨だんそくこつ蘭汗らんかん蘭加難らんかなんと大裏切られ祭りを展開しており、もはや後燕の領土維持どころの騒ぎではなくなっていた。そして当てのない敗走にて各地をさまよったあげく、蘭加難に殺された。


三代目 慕容盛ぼようせい 373 - 401

 慕容宝の息子。どちらかと言えば才人寄りではあったが、転落コースを全力で滑り降りていた後燕にあってはどうしようもなかった。何とか父親の敵を討つことには成功するものの、即位後の酷薄な方針がたたり、度重なる謀反を受け、殺害された。

 

四代目 慕容熙ぼようき 385 - 407

 慕容垂の息子。バカ。無計画な遠征、皇后及びその妹への耽溺、華美な建築物の建造、それによって国政を傾け、結果皇后の葬儀の折を狙っての反乱を受け、殺された。何と言うか、よくもまぁここまで国難の時期に能天気なマネばかり出来たものである。とは言えストレスが限界点を超えると全てを投げ出したくなる気持ちはわからぬでもない。その結果死ぬのだが。


五代目 慕容雲ぼよううん ? - 409

 本来の名は高雲こううん。高句麗の王族で、慕容宝の養子となった。慕容宝配下として忠実な働きを見せたが、代が下がり、慕容熙の時にはもはや慕容氏に対して愛想を尽かしていた。慕容宝に養子入りした頃以来の友人である馮跋ふうばつと共に反旗を翻し、慕容熙を殺すと元の高姓に戻した。この人については後燕のラストエンペラー兼北燕のファーストエンペラーと言う扱いである。ただ配下の慰撫には無関心であったようで、即位直後子飼いの部下に殺されている。高雲死後北燕の皇位に立ったのは、馮跋。……おぉ、もう。何なのだこの恐ろしい世界は。


 なお馮跋は内憂外患に苦しめられた結果まともに国体も維持できず、勃発した後継者争いのさなか死亡。一応弟の馮弘ふうこうが跡を継いだが北魏の攻勢を受け、あえなく滅亡。馮弘は高句麗に亡命したが、殺された。正直西燕以上にグダグダな展開にしか思えず、事跡を追っていてどんどん興味がそがれていくのを感じた。



・南燕 398 - 410


初代 慕容德ぼようとく 336 - 405

 慕容皝の息子、慕容垂の弟。慕容垂亡き後の後燕をよく支えたが、苛烈な北魏の攻勢の前に後燕の領土が南北に分断、慕容宝とは離れ離れとなる。さてどうしてくれたものかと思案していたところ、甥の慕容麟に「この際だし皇帝になっちゃえば?」と唆され、皇帝に。割とノリと勢いで国を開いた人のように思えてならぬ。子供が女子ばかりであったので甥の慕容超を養子に迎えた。


二代目 慕容超 385 - 410

 慕容垂、慕容徳の甥。前秦の動乱に母親が巻き込まれており、生まれながらにして流遇の身になっていた。しばらく後秦に匿われたのち、慕容徳が慕容超の存命を知り、南燕に招聘。養子として迎えられ、また慕容徳死後にはその皇統を継ぐに至った。ジェットコースターのような人生にもほどがある。帝位についてからは奸臣公孫五楼こうそんごろうの讒言を容れ、要臣を排除した。後秦に臣従し、東晋への対抗を目論んだはいいがあっさり劉裕の反撃にあって滅んだ。



・鮮卑拓跋部 - 315


拓跋力微たくばつりきび 174 - 277

 よくわからないレベルでのご長寿さま。魏書で具体的事跡が載るはじめの拓跋部大人である。卓越した賢人徳者豪傑として書かれている。匈奴の蹋頓とうとんが短期的利益に目がくらんで魏に背き、滅ぼされたことを踏まえ、魏とは友好関係を結ぶべきと判断、太子の砂漠汗さばくかんを使者として遣わせる。友好関係は魏が晋に代わっても続いたが、拓跋部を脅威と見る衛瓘えいかんが離間工作を実施、砂漠汗と拓跋部の仲を裂いた。老耄した力微はこの策略に気付かず砂漠汗を殺してしまい、甚だ悔やんだという。その後砂漠汗は名誉を回復された。


拓跋悉鹿たくばつこつろく ? - 286

 拓跋力微の息子。衛瓘の離間工作によって拓跋部内が大きく乱され、その収拾に追われた。この時拓跋部は大きく勢力を削減されるに至っていた。


拓跋綽たくばつしゃく ? - 293

 離間工作の影響がその後どうなったかは特に語られていないが、勢力回復に尽力はしていたようだ。匈奴の宇文部と通婚するなど、周辺諸勢力との友諠を図った形跡がある。ところで宇文部は鮮卑ではなかったのだろうか。この辺りのあやふやさは、おそらく細かく考えたら負けなのだろう。


拓跋弗たくばつふつ ? - 294

 拓跋砂漠汗の息子。偉人ではあったそうだが、即位後即死亡。


拓跋禄官たくばつろくかん ? - 307

 拓跋力微の息子。大人位を継ぐと内政の拡充に努めた。また 304 年に劉淵が漢王を名乗り勢力を拡大。これに対抗すべく司馬騰しばとうが拓跋部への援軍を要請した。この要請を受け漢軍を大いに破った、とされているが、晋書にこの記事が全く載っていないのが胡散臭すぎて素敵である。とは言え資治通鑑には載っている。この内容を秘匿するべき理由がなぜ晋書にあるのかは気になるところであるが、元々晋書は拓跋に関する話そのものを避けている印象もあるので仕方がないのやもしれぬ。



・代 315 - 376


初代 拓跋猗盧たくばついろ ? - 316

 拓跋砂漠汗の次男。劉琨との深い友好関係を築いている。また劉琨を通じて晋との友好関係をさらに深めた。その結果が晋よりの代王の爵位進呈に繋がった。代の建国である。こうして国の基礎を作り上げた拓跋猗盧であったが、長男の拓跋六脩たくばつろくしゅうを軽んじ、末子の拓跋比延たくばつひえんに後を継がせようと思っていた。そのため拓跋六脩に憎まれ、殺された。また拓跋六脩は拓跋比延も殺した。


二代目 拓跋普根たくばつふこん ? - 316

 拓跋猗盧の甥。拓跋猗盧殺害事件が起こった時には国境付近を守護していたが、報を聞くや即王宮に馳せ参じ、拓跋六脩を攻め滅ぼした。その果断さにより二代目の代王に推戴された。しかし代王暗殺事件の波紋は大きく、国内に内乱が頻発。一部の部民は劉琨に帰属した。そのような混乱のさなか拓跋普根は即位後わずか一カ月で死亡した。拓跋普根の息子が次の王に据えられたが、その名前は残っていない。そして彼も、即位後まもなく死んだ。


四代目 拓跋鬱律たくばつうつりつ ? - 321

 拓跋弗の息子。皇統序列がちぐはぐな辺りに、当時の代の混乱ぶりがうかがえる。匈奴鉄弗部の劉虎りゅうこ烏孫うそんなどを攻略、代の勢力を強壮なものとした。劉曜や石勒も代とは何とか友好関係を築こうとしたが、すべて棄却したという。名君とも呼ばれるべき存在だが、それゆえに拓跋普根の母・惟氏に疎まれ、殺された。


五代目 拓跋賀傉たくばつがじょく ? - 325

 惟氏によって立てられた、拓跋普根の弟。ただし代王になった当時親政できる年齢ではなかったという事なので、兄とはかなり年が離れていそうではある。親政を開始してもその号令に従うものは極めて少なく、憂悶の内に死んだ。弟の拓跋紇那たくばつこつながその後を継いだ。


六代目、七代目 拓跋紇那、拓跋翳槐たくばつえいかい

 拓跋紇那の即位後まもなく石虎が侵攻してきた。迎撃こそしたものの形勢不利と判断、後退の判断を下す。また拓跋鬱律の息子である拓跋翳槐が拓跋紇那に攻撃を仕掛ける。拓跋紇那は宇文部へ亡命。以降拓跋紇那と拓跋翳槐はしばしば対立し、お互いに代王の座を奪い合う争いを繰り広げる。最終的な勝者は拓跋翳槐だったが、この政争にほぼ精力を使い果たしたのか、拓跋翳槐は弟の拓跋什翼犍たくばつじゅうよくけんを後継者に指名すると、間もなく死亡した。


八代目 拓跋什翼犍 318 - 376

 拓跋鬱律の息子、拓跋翳槐の弟。拓跋鬱律の殺害事件以降内紛を繰り返した代は衰運の中にあったが、拓跋什翼犍の治世で大幅に勢いを取り返す。前燕との修好に努め、姻戚関係も結ぶ。一方、劉虎以来しばしば対立してきた匈奴鉄弗部は劉衛辰の代に至って前秦と結んだ。苻堅率いる前秦の軍勢を迎撃しようにも、この頃拓跋什翼犍は重い病を患っており、この危機に対応できる将帥は代にはいなかった。一旦は前秦が軍を引くことで小康状態を取り戻しこそしたものの、代建国以来の最大の危地にあたり、拓跋氏内にも亀裂が入っていた。長庶子の拓跋寔君たくばつしょくくんが己が立場を危ぶみ、拓跋什翼犍及びその弟らを殺害。英主を失った代は、その後の前秦の攻撃に為すすべもなく攻め滅ぼされた。

 なお拓跋寔君であるが、苻堅によって車裂きの刑に処せられている。とかく苻堅はこの手の裏切り行為に乗じつつも裏切り内通してきた者に対しては憎悪にも近しい処断を下すのが恐ろしくてならぬ。行き過ぎた仁者ポーズと言う感じでマッドさがにじみ出ていてよい。



・北魏 386( - 442 華北統一)


先代 拓跋寔たくばつしょく ? - 371

 拓跋什翼犍の息子。拓跋寔君とは別人と言うこの厄介さ。なおこの人は宋書には存在していない(宋書では道武帝は拓跋什翼犍の息子となっている)。部民の反乱に際して父を庇い、わき腹に矢傷を負った。その傷がもとで夭折したという。


初代 道武帝(拓跋珪たくばつけい) 371 - 409

 拓跋寔の子。鮮卑賀蘭部の賀野干がやかんの庇護を受けて育った。また匈奴独孤部の劉庫仁りゅうこじんの後見を得て 386 年に代王を自称、同年には国号を魏に改めた。以降柔然じゅうぜん庫莫奚こもけい高車こうしゃなどを次々と下し、395 年には後燕を、396 年には匈奴鉄弗部の劉衛辰りゅうえいしんを、402年には後秦を大いに破り、華北での覇を唱えるに至るが、この頃より精神に異常をきたす。多くの無実の者を手に掛けるようになり、果てには母親すら手に掛けかねない勢いであったため、次男の拓跋紹たくばつしょうがクーデターを敢行、道武帝を殺害した。


二代目 明元帝(拓跋嗣たくばつし) 392 - 423

 道武帝の嫡子。クーデターを起こした拓跋紹を即捕縛、処断。その後皇帝位についたが、ここで国が大いに乱れたという話は聞かれない。過去の事例からすれば大いに内紛が起こってもおかしくはないにもかかわらず、である。それだけ晩年の道武帝の行動が異常であったのだろうか、あるいは。国内の統治機構の整備、外では華北残余勢力や劉裕との対決など激務に追われる中死んだ。


三代目 太武帝(拓跋燾たくばつとう) 408 - 452

 明元帝の嫡子。即位するや柔然じゅうぜん、夏を攻め、また北燕、北涼を滅ぼし、苻堅以来の華北統一を実現させた。英雄王と呼ぶべき存在ではあるが、その苛烈な性分により、我をはじめとした多くの重臣を殺害している。その因果が巡り巡ったか、宦官の宗愛そうあいによって殺されるという、英雄王らしからぬ惨めな最期を遂げている。


 しかし道武帝以来推し進められていた漢族式統治機構の確立の賜物か、太武帝の不慮の死によっても北魏は致命的な動揺を受けるには至らず、むしろ混乱を収束させた馮太后ふうたいごうと、その孫である孝文帝(拓跋宏たくばつこう)によって北魏は最盛期を迎えることになる。



 ○   ○   ○   ○



 以上、西晋~五胡十六国時代の君主らを紹介させて頂いた。

 思ったよりクソ君主が少ないのが意外であった。

 と言うか慕容氏は本当にどうにかならんか。

 何だあのクソ君主率は。

 名君がド級名君であるせいで、落差が激しすぎるではないか。


 こうして眺めても、やはり諸涼政権はとにかくわかりづらい。

 ただ、以前よりは多少見分けやすくはなったやも知れぬ。


 それにしても、五胡十六国時代に限定しても、

 ずいぶんとたくさんの偉人がいるものである。

 これで時代のレンジ、地域のレンジを制限しなかったら

 どうなってしまうのか、と空恐ろしくなるな。


 それでは、またいずこかにて。

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