第一部 君主列伝中 五胡十六国君主

ごきげんよう、崔浩である。

当部では五胡十六国時代君主を語る。

なお慕容燕、拓跋については部を分けさせて頂く。


では参る。



・漢(前趙) 304 - 329


初代 劉淵りゅうえん 251 - 310

 魏晋の時代に人質として差し出された匈奴王、すなわち単于の正統後継者。文武を修め、多くの人士に傑物と目されていた。そのお陰で警戒され、なかなか重用はされなかった。楽しい楽しい八王の乱をきっかけとして「匈奴どもを抑える」と言う名目のもと故郷に戻り、匈奴諸部の推戴を受け単于継承を宣言。劉聡、劉曜、石勒、王弥おうびと言う笑っちゃうほどのビッグネームを従え攻勢に出るも出だしが遅すぎた。攻勢に出たのが 304 年。さすがにわずか六年で天下に覇を唱えるのは厳しすぎた。


二代目 劉聡 ? - 318

 劉淵の三男。劉淵の配下武将として飛び抜けた武勲を挙げた。劉淵が後継者として示したのは長男の劉和りゅうわであったが、劉淵死後速攻で劉和を殺害、皇統を強奪する。ついでに次兄の劉恭りゅうきょうも殺す。その後劉淵の果たせなかった洛陽・長安陥落を果たし、楽しい虐殺タイム、凌辱タイムに耽る。その際に、例えば劉淵第一の軍師であった陳元達ちんげんたつを殺したり、佞臣の靳準きんじゅんに好き放題振る舞う契機を作るなど、国力衰減待ったなしモードを確立した上で死んだ。


三代目 劉曜 275 - 329

 劉聡のあとをついたのは劉粲りゅうさんという事になっているが、全力で悪政暴政に耽ったあげく靳準に殺されている。この靳準を倒し、帝位についたのが劉淵の養子である劉曜だった。ちなみにこの時に漢の国号を捨て、趙を名乗っている。劉曜は劉淵の時代にやはり大きな活躍をしていたが、同じく大きな功を上げていた石勒からは主であるとは認められず対立。酒を飲んで決戦に挑み酔っぱらって落馬して捕まった。何をやっているのか。そして石勒に殺された。一応息子の劉煕りゅうきが跡を継いだが一瞬にして殺され、前趙は滅んだ。



・後趙 319 - 351


初代 石勒 274 - 333

 奴隷出身。五胡のうち羯と言う種族は、実質「石勒は匈奴でも鮮卑でも羌でも氐でもない、じゃあ何だろう、とりあえず羯って種族ってことにしちまえ」と名付けられたようなものであり、五胡十六国時代を見渡しても異様な存在感を示している。劉淵軍に帰属して、石勒十八騎と呼ばれる優れた部下を率いて軍内での存在感を確立。劉曜から独立した後、厄介極まりない東晋の将・祖逖とは何とか休戦状態を保ちつつ劉曜を撃破した。祖逖の影におびえながら国内を整備、国家の基盤を作り上げるさ中に死亡。


二代目 石虎 295 - 349

 石勒の甥。石勒の跡を継いだのは息子、石弘せきこうであったが「石弘なんぞより俺の方がふさわしいだろ」と簒奪、殺害。劉聡と同じパターンである。しかもこの人が怖いのは、一回嫌がる石弘を強引に帝位につけ、その上でわざわざ殺しているところだ。ここには石勒の配下の権勢を大きく削ぐ意図があったようだ。

 暴君と言うイメージがあるが、更にそれが後世の曲筆であるという説も出回っている。そのようなわけで実態を捕えるのが難しい人物だが、石勒の後継者選びを尊重しなかったのと同じく、自らの後継者の扱いについても杜撰であったのは間違いがないようだ。そのため死後後継者争いが泥沼化し、更には養子として迎え入れていた冉良ぜんりょうの息子、冉閔ぜんびんによって石虎の一族は皆殺しにされた。


 その冉閔が前燕によって滅ぼされたのは、前部に書いたとおりである。



・前秦 351 - 394


初代 苻洪ふこう 284 - 350

 元々の名前は蒲洪ほこう。劉曜、石勒、石虎に服属していた。冉閔によって中原が荒れると西進し、自立。そこで「苻姓に改めれば王になれる」と言う予言を聞き、苻姓を名乗る。やがて石虎時代よりの部下であった麻秋ましゅうの裏切りに遭い、毒殺された。


二代目 苻健ふけん 317 - 355

 苻洪の息子。父を殺した麻秋を討ち、皇帝を名乗る。なので前秦の初代皇帝はこの苻健である。毎度実代数とズレておるが、まぁ気にせぬように。最初東晋との協調路線を取っていたが陰険な殷浩いんこうの策謀で内部を揺さぶられたり桓温に攻め込まれたりで対応にてんてこ舞いとなる。が、その甲斐もあり関中での勢力を確固たるものとした。


三代目 苻生ふせい 335 - 357

 苻健の息子。元々は兄の苻萇ふちょうが皇太子だった。苻生自身は凶相であったこともあり、いつ祖父の苻洪に殺されてもおかしくないほどの虐待を受け、それがもとで大きく性格を歪ませたと言われている。例えば「残」「偏」「欠」「少」などの文字を使った者を殺すなど、後の明の朱元璋しゅげんしょうレベルの行いも為している。とは言えこの手の暴君は蛮行をいやでも大袈裟に書かれるものであり、やはり全蛮行を為したとは考えづらい。一説には彼を殺した苻堅が簒逆行為を正当化するために悪事を盛ったのではないか、とも言われている。


四代目 苻堅 338 - 385

 苻健の甥。凋落した稀代の名君と言う扱いであるが、ポスト淝水の行いが非常にマッドであることを考えれば、苻生を倒すまでの流れも徳行に基づいたものであると無邪気に信じるのは少々厳しい所がある。理想に敗れた、と言う従来の通説は、美しい物語ではあるが美しすぎるため棄却したい。何にせよいくらでも叩けば埃が出てきそうな名君であり、後日彼の戴記は腰を据えて読み込んでみたいものである。


五代目 苻丕ふひ ? - 386

 苻堅の長庶子。弟で、後に東晋に帰順する苻宏ふこうが皇太子であったが、淝水以後の混乱によって苻堅が姚萇ようちょうに殺されると、皇帝を名乗った。ほぼ自称レベルの代物であり、正統性はないに等しい、が、それでも苻堅を慕っていた将兵らは苻丕についたようだ。しかし西燕との一戦で大敗、敗走。その途上東晋軍に攻められ、死んだ。


六代目 苻登ふとう 343 - 394

 苻堅のいとこの息子。傍系の宗族だが、相次いで皇帝を失っていった中擁立された。淝水の戦いに関与しなかった氐族の軍勢を接収することに成功したため一大勢力足りえ、苻堅を殺した後秦との決戦に臨んだ。始めこそ後秦軍に対して優位に立ちまわっていたものの「大界の戦い」にて大敗を喫し、勢力を損なう。その後は以下の離反などもあり徐々にすり潰されていき、最後は姚興ようこうに殺された。

 息子の苻崇ふすうが跡を継ぐも、やはりあえなく攻め滅ぼされ、前秦は滅亡した。



・後秦 384 - 417


初代 姚弋仲ようよくちゅう 279 - 352

 劉曜、石勒、石虎に服属。特に石虎の時代には石虎より重んぜられ、勢力基盤を確立した。冉魏がらみの争乱に巻き込まれた際には後趙寄りの立ち回りをし、前秦と刃を交えたりもする。その後東晋に服属したが直後に死亡。大動乱をうまく切り抜けた立ち回りの絶妙さは、五胡十六国時代の人物中でもトップクラスであるように思われる。


二代目 姚襄ようじょう 331 - 357

 姚弋仲の息子。父とともに東晋入りし、その死後には跡を継いだが、陰険な殷浩が全力で嫌がらせを仕掛けてくるのに堪忍袋の緒が切れ、前燕討伐を命じられたのをいいことに全兵力を率いて前燕に寝返る。そして自立を宣言した後当時東晋が占領していた洛陽を攻撃するが見事に敗北。更にその後西に逃れては前秦と衝突、敗死した。父親とは違い、立ち回りと言うよりも迷走と呼ぶのがふさわしい生涯だった。


三代目 姚萇 331 - 394

 姚弋仲の息子、姚襄の弟。兄の敗死を受けて羌族を引き連れ前秦に投降。苻堅は歓迎したが、王猛をはじめとした配下たちは猜疑の目を向けていた。その為戦果にて忠誠を証明する必要があり、実際に凄まじいまでの戦果を挙げた。ところがこれが更に姚萇への警戒心を高めさせる結果につながった。淝水後の混乱の中失策があり、それを理由に苻堅に殺されると危ぶんだ姚萇は独立を宣言。後秦を建てる。

 その後苻堅は西燕の慕容冲ぼようちゅうとの戦いの中単身五将山ごしょうざんへ出奔、すかさず姚萇は軍を派遣し、苻堅を捕える。そこで姚萇はなぜか苻堅に「ぼくに禅譲しなよ、ね?」と苻堅に持ち掛けた。回答は「バカか死ね」であったので、姚萇は苻堅を殺した。殺した上で懇ろに弔ったり「ぼくは悪くないんだ!」と謎の許しを乞うなど、この辺りの姚萇のオモシロ度は常軌を逸している。

 その後苻堅の霊による復讐におびえながら死んだ。

 

四代目 姚興 366 - 416

 姚萇の息子。姚萇が全幅の信頼をもって後継に指名していて、そしてその信頼通りの活躍を見せる。ちなみに皇太子時代に劉勃勃りゅうぼつぼつ、後の赫連勃勃かくれんぼつぼつを服属させており、正直読んでいて「姚興後ろ、後ろー!」と叫びたくなってしまうのは我のみではあるまい。各地に転戦、多くの敵対勢力を服属させ、後秦の最盛期を築き上げた、まごうかた無き名君と呼ぶべき存在であるが、柴壁の戦いによる敗戦を境に衰運の途を辿る。南燕の慕容超ぼようちょうにたかられるわ劉裕にたかられるわやっぱり赫連勃勃は自立して好き勝手始めるわ周りの国々もなんか力をつけて好き放題し始めるわ親族は反乱を起こすわで疲労困憊の態となる。特に東晋内で急激に勢力を伸長させていた劉裕には頭を痛めており、桓玄かんげん残党の桓謙かんけんを利用して蜀で自立を宣言した譙縦しょうじゅう、五斗米道の盧循ろじゅんなどと結び劉裕包囲網を築こうとするがあっさり粉砕、却って劉裕の東晋内発言力を強化する手伝いをする。

 そして後継者問題を微妙に宙ぶらりんにしたまま死亡。これによって後秦は決定的衰運に乗る。


五代目 姚泓ようおう 388 - 417

 姚興の息子。真面目だが気弱であったという。そのため弟らは姚泓の帝としての器を疑っており、やがては反乱を起こすに至る。更には赫連勃勃が好き放題に暴れる。まさに内憂外患と言う状態にあって、これまで嫌がらせ程度であった劉裕が軍を率いて攻め込んできた。武勇に優れた勇将、叔父の姚紹ようしょう存命中はそれでも何とか防いでいたが、姚紹が陣没するとたちまち後秦軍の防衛力は瓦解、洛陽、長安共に攻め落とされる。どこまでも外部に翻弄され続けた生涯であり、伝を読めば読むほどと暗澹とさせられる。



・成漢 304 - 347


初代 李特りとく ? - 303

 流民集団の親分の成り上がりである。八王の乱……とは関係のない別の反乱によって生じた流民らを糾合、漢中に流れた。しかし流民たちは十万にも届こうという大集団であり、狭隘な漢中かんちゅうの地では到底収容しきれるものではなかった。そこで朝廷に請願、益州、すなわち三国志に言う蜀の地へ移住する。そこで出会った趙廞ちょうきんと言う人物の元にいったん就くものの、弟の李庠りようを殺されたため反旗を翻し、殺す。また朝廷から派遣された羅尚らしょうとも対立。この戦いの中で成都に拠り、自立を宣言するも、その後敗死した。


二代目 李流りりゅう 248 - 303

 李特の弟。李特の敗死を受けて流民集団の取りまとめ役を引き継ぎ、羅尚への抗戦を継続するが、間もなく病に倒れた。李特の息子、李雄りゆうの将器を重んじており、「この者であれば我らの悲願を為してくれるであろう」と後継者に指名、死亡した。


三代目 李雄 274 - 334

 李特、李流が叶わなかった羅尚打倒を果たす。そして 304 年に成都王を自称。劉淵の漢王自称と同年のこの宣言は、実質五胡十六国時代の幕開けである、と言われている。そして蜀に住まう賢人・范長生はんちょうせいを、幾度もの招聘失敗にも懲りず臣下として迎えた。その卓抜した内政の手腕を生かし、30年間の治世は蜀の地に稀に見る平和をもたらしたという。名君主ではある、あるのだが、後世に残るミソを残しているのがよろしくない。


四代目 李班りはん 288 - 334

 李雄の兄、李蕩りとうの子。蜀解放の戦いのさなか戦死した李蕩の存在を重んじての計らいだったとされるが、それなら李雄は子供を作るなよ、と言う話である。李雄は名君ではあったが、張茂ほどのド聖人にはなれなかったようだ。そりゃ皇帝の息子なら自分の方が後継者にふさわしいだろって思うはずである。その為李班は、皇位継承直後さくっと李期りきに殺された。


五代目 李期 314 - 338

 李雄の息子。まぁ李期の気持はわからないでもないのだが、しかしこいつ何の根回しもなしで李班殺したのか。皇族の大半からの総スカンを食らい、内紛が巻き起こった。バカか。バカなのか。結果親族の李寿りじゅに実権を握られ、しかもそれを不満に思って反逆しようとして殺された。救いようのバカとしか言いようがない。


六代目 李壽 300 - 343

 李特の甥。大きな武力を保持している人間が納得いかない人事押し付けられりゃそりゃ切れるだろってもんであるが、いや本当李雄はアホなのか。もっとも李寿は李寿で諫言してきた人間を殺すわ、石虎の苛政を、多分苛政を行う意味もあまり把握しないままで運用するわでどうしようもない人間のようだが。


七代目 李勢りせい ? - 361

 李寿の息子。バカ。忠臣を遠ざけ、荒淫に耽り、無事桓温に攻め込ませる隙をどでかく作って差し上げ、うまうまと滅ぶ。成漢の滅亡が 347 で、死亡が 361 年とか、よくもまぁ生き恥を晒せているものである。さすがにこの者くらいになると李雄がどうこうとかまるで関係ないな。



・後涼 384 - 403


初代 呂光りょこう 338 - 399

 氐賊の名家で、代々苻氏に仕えていた。苻堅の命を受けて西方征服の都督に任じられた。このことからもその手腕を苻堅に高く買われていたのがうかがわれる。しかしながら征服戦争に出ているさなか淝水の戦いが勃発、しかも前秦は惨敗。お出掛けから帰ってきたら家が焼けていました、レベルの話である。なので呂光は新しく家を建てた。前涼の遺児の涼復活の野望を挫き、代わりに涼王を自称。エグいことをなさる。しかし呂光自身には王としての器がまるでなかったようで、あっさりと北涼、南涼が分離。失意の中病を得て死んだ。


二代目 呂纂りょさん ? - 401

 呂光の後継者は嫡子の呂紹りょしょうであったが、長庶子であった呂纂は弟に天王の座がもたらされるのが許せなかった。ので殺した。またこのパターンか。そして皇帝の座につくや勢力拡大、と言うよりは裏切り者粛清のために南涼を攻め、負ける。なので標的を変えて北涼を攻めようとしたら南涼に反撃を食らいそれどころではなくなる。凄まじくグダグダである。その後酒浸りの日々を送った末、いとこの呂超りょちょうに殺された。


三代目 呂隆りょりゅう

 呂光の甥。呂超の兄。とは言え実権はほぼなかった。この状態で国としての勢力を維持できるはずもなく、姚興にあっさりと攻め滅ぼされた。以後後秦の武将としての地位にはありつくが、姚泓と姚弼よういくの兄弟ゲンカに巻き込まれ、姚弼に連座して殺された。


 後涼は初代から既にグダグダで素晴らしいな。



・西秦 385 - 431


初代 乞伏國仁きっぷくこくじん ? - 388

 鮮卑。前秦の武将として活躍したが、淝水の大敗を受け反旗を翻した叔父の乞伏歩頹きっぷくほたいを討伐する、振りをして叔父と合流、周辺諸部族を糾合し、自立を宣言した。しかし、勢力を固め切る前に死亡した。


二代目 乞伏乾歸きっぷくけんき ? - 412

 乞伏國仁の弟。前秦とは比較的優良な関係を保ちつつ勢力を伸長させる。しかし強勢を誇っていた後秦の攻撃を受け、南涼へと亡命。このとき西秦はいったん滅亡する。南涼で暗殺の危機に見舞われたので更に後秦に亡命、ここで武将としての功績を残す。その後、後秦の勢力が衰えたのを見計らい再度独立を果たす。不屈の自立心を備えた乞伏乾歸だったが、その最後は姪の乞伏公府きっぷくこうふに殺されるという呆気ないものだった。


三代目 乞伏熾磐きっぷくしばん ? - 428

 乞伏乾歸の息子。乞伏公府を殺すと、更に南涼を滅ぼし、国内外の体勢を整え、北涼との戦いを繰り広げる。志半ばにして斃れるとその後を弟の乞伏暮末きっぷくぼまつが継いだが、この人は苛烈な政治によって民心を大きく失い、やがて 431 年、夏に攻め滅ぼされた。


 西秦は覇王として天下に鳴らすわけにもゆかず、何とか動乱の中を生き抜こうと足掻いたように感ぜられる。それは結果を見れば、ずっと周辺国家に翻弄され続けた、とも言えよう。



・南涼 397 - 414


初代 禿髮烏孤とくはつうこ ? - 399

 呂光さんアンタとはやってられませんマン第一号。始め呂光が強勢を誇っているうちは敢えて逆らうまいと臣属し、その威勢が衰えると独立した、と言うのが史の伝えるところである。内外に人士を養い、国力を拡充させていたが、落馬して死んだ。「やれやれ、こんなことをしたら呂光どもを喜ばせてしまうではないか」と自嘲したという。

 

二代目 禿髮利鹿孤とくはつりろくこ ? - 402

 禿髮烏孤の弟。後を継いだとは言ってもわずか二年ほどの在位期間であり、事跡らしい事跡もあまり残っていない。亡命してきた乞伏乾歸を暗殺しようと企んだとか、その程度である。


三代目 禿髮傉檀とくはつじょくだん 365 - 415

 禿髮烏孤、禿髮利鹿孤の弟。しばしば夏や北涼の侵略を受けることに危機感を覚え、国力拡充のためには領土が必要と侵略戦争に打って出るも見事それが裏目に出る。出征の隙を西秦に衝かれ、あっという間に滅ぼされた。降伏の翌年、禿髮傉檀は毒殺された。


 禿髮傉檀の息子に北魏の武将、源賀げんががいる。かれの元の名は禿髮破羌とくはつはきょう。凄い名前だし北魏で大活躍している人だしで、非常に面白い人である。



・北涼 397 - 439


沮渠蒙遜そきょもうそん 368 - 433

 呂光さんアンタとはやってられませんマン第二号。呂光が西秦討伐失敗の咎を沮渠蒙遜の伯父に押し付け、処刑したことに憤り反旗を翻す。はじめ後涼の地方長官であった段業だんぎょうを推戴する形で勢力を立ち上げたが、ある程度の実力を蓄えた段階で段業を殺害、独立する。硬軟織り交ぜた巧みな外交戦略を得意とし、勢力入り乱れる涼州にあって着実に勢力を伸長。北魏、東晋、宋いずれとも友好的な関係を築き上げ、勢力維持を果たした。

 息子の沮渠牧犍そきょぼくけんの代にあっても北魏との友好関係は続いたが、北魏から迎え入れた側室の暗殺未遂事件が発生。この事件の対応を誤ったところ北魏の侵略を受け、攻め滅ぼされた。



・夏 407 - 431


赫連勃勃かくれんぼつぼつ 381 - 425

 匈奴鉄弗部の生まれ。なおこの部族は赫連勃勃が十歳のころに北魏と争い、ほぼ壊滅させられている。そう言った苛烈な幼少期を生き延び、長じるに従い聡明で美しく、残虐で信義に欠ける立派なキチガイに育ったという。北魏の追及から逃れるため後秦入りし、そこで武将としての才能を開花。だが後秦が北魏と盟を結ぶと聞き、不倶戴天の敵に尻尾を振るとはと激怒、離反。夏の建国を宣言し、以降全方面に向かってケンカを売り続ける。しかしあまりにも独裁的存在であったため、その死後は後継者たちもうまく国体を維持できず、北魏に併呑された。その意味では、国名も「赫連勃勃」と呼んでしまった方がふさわしいようにも思われる。



以上である。

次部にて慕容垂系国家、

及び我らが偉大なる拓跋氏を紹介する。


では、また次部。

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