第三部 名将
ごきげんよう、崔浩である。
戦の華、名将。
ここを語らずして何が人物録か、であるな。
・名将
劉淵配下武将のひとりとして飛び抜けた武功を上げた。文武両道、乱世の奸雄の相を示す。劉淵死亡後の趙漢の不和を眺めると、
拓跋猗盧の弟、拓跋禄官の息子。匈奴百万驃騎を率い、天下に漢の名を復せしめたイダイなる劉淵サマを食い破った武将である。漢の北部戦線における敗退は、南部東部それぞれの戦線にも大きな影響をもたらしたことであろう。ただしこの点は晋書から完全にスポイルされており、おかげで晋書のみでは趙漢起義の流れをうまく掴めない。と言っても、資治通鑑の記述も非常に淡泊であるのだが。後世の人間としては漢対拓跋など殆どドリームマッチのようなものであるし、あまつさえ拓跋の勝利ともなればいくらでも金の取れる戦であろうに。ともあれ、その武威は周辺勢力征討にも大いに発揮された。ただしその息子たちはのちに拓跋部に大いなる禍根を残すこととなる。有能な親族の扱いの難しさを象徴しているようにも感ぜられるのである。
揚州の地にあった、地方反乱が起これば叩き潰し、を繰り返したいぶし銀のひと。こういう人がいてくれると政権の安定度は全く違ってこよう。すこぶる地味であるが。史書を覗くと、ごろごろと鎮圧した反乱の名が上がっている。
荊州の名将にして能吏、
東晋が誇る愚連隊。中原で石勒が、並み居る晋系の勢力を潰し回ってていたころ、祖逖は「あのイキり羯族うぜぇので殺していいですか」と東晋政府に打診。無論返事は何言ってんだ馬鹿である。すると祖逖もふざけんなボケと数千程度の手勢を連れて石勒軍に殴り込みを掛け、しかも連戦連勝した。この件については一つ、愉快なエピソードがある。祖逖を裏切り石勒のもとに逃げ込んできた人物がいた。かれに対し、石勒の取った行動は、その者の首を撥ね、祖逖の元に送り返した、である。どれだけ懼れていたというのか。東晋黎明期の大英雄であるが、ただの戦キチなだけの気もせぬではない。
東晋北方守護を語るにあたり、大きな存在感を示す。建康の東に位置する軍事拠点「京口」を開府した武将である。この軍府を拠点とした軍閥は、後に北府軍と呼ばれることとなる。即ち系列としては
石勒配下の第一将。石勒には譜代将として十八人の子飼いがいるのだが、彼らをごぼう抜きしてのトップ襲名である。居並ぶ「石勒が勝った」の陳列を眺めれば、その多くにこの人が絡んでいる。後趙は石勒一人を眺めるだけでも楽しいが、配下の勇将乱舞もまた追っていて心躍る、気がしてならぬ。実はあまり詳しく調べていない。明らかに沼なので、敢えて情報を遮断している所はある。
五胡十六国時代を眺めると、驚くほど「なにやっとんねや慕容」とツッコミを入れたい箇所に満ちている。だいいち父の
東晋前中期は、庾氏の存在感が非常に大きい。
苻堅期の前秦が誇る武威二枚看板として名高い。ところでもう一枚の
桓温の甥。兄弟が二十名以上いる。弟の
淝水の戦いにおいて、伯父の
謝玄の部将として淝水の戦いで大きく名を上げた。謝玄亡き後の混迷する北府軍中において、第佞臣司馬元顕の力を借り、北府軍トップに辿り着く。しかし力を借りた相手が悪すぎた。東晋軍中、東晋宮中から総スカン状態となる。そこに忍び寄ってくるのが桓玄である。「お前司馬元顕の下にいたらジリ貧だけど大丈夫? ヤバくね?」と囁いてくる。焦った劉牢之はその口車に乗り、司馬元顕を裏切り、桓玄につく。しかしそこで桓玄の掌返しに遭い、追い詰められ、自殺。東晋宮中にしかいないのに「翻弄」カテゴリに入れたくすらなってしまう。一般評は度々裏切った卑怯者だが、どう考えても立ち回りが下手くそであったとしか思えぬ。ところで後に宋を開く劉裕は、この人と同郷劉姓である(親族ではない)。そのためもあり、おおいにかれに引き立てられた。劉牢之のしくじり先生っぷりは、劉裕の立ち回りに多大な影響を与えたことであろう。
後秦末期の名将。姚興の弟。末期なので、所謂征服戦争的武功が高いわけではない。かれの存在がひときわ輝くのは、対東晋戦、即ち
北魏将筆頭は、なんと言ってもかれであろう。道武の立志より側に従い、多くの武功を挙げ、道武躍進の原動力となった。道武亡き後も武の大黒柱としてよく北魏をお支えくださった。それでいて武一辺倒でもなく、政治にも参画、その発言はしばしば重んぜられた。
本名は
宋の対北魏戦守将の一。史書に名が残っている以上、間違いなく名将なのである。しかし伝を眺めると「
檀道済
劉裕系の将軍として出色なのは王鎮悪と、後はこの檀道済である。面白いのは間違いなく王鎮悪なのだが、知名度で言えばかれになろう。ただし、かれの活躍のメインステージは大体宋が立ち上がった後である。その意味ではこのピックアップに相応しくないのだが、まァその辺りはこの人物録が初級編ということでご寛恕願いたい。ともあれ我ら北魏にとりても本当に鬱陶しくて仕方ない将軍であったが、内輪もめの挙げ句勝手に殺されてくれたので我らは大喝采であった。
正直鮮卑どもの人名はよく分からぬ。やはり漢化し、漢人が如き姓名にて名乗るべきである。まぁ徒に主張し続けるとまた主上より死を賜るので程々にしようとは思うのだが。それに、よく分からぬ名であろうとも于栗磾殿は強い。それで十分でもあろう。強く、しかし慎ましやかな性情の于栗磾殿を、主上は大層信頼しておられた。愛用する黒き槊(要は武器である)にちなんで「黑槊將軍」なるオリジナル官位を授けるなど、普通のかわいがりようではない。嫉妬はしておらぬ。しておらぬぞ。
劉裕の後秦討伐で、兄弟共に大いに武功を上げた。何せ父親が
なお子孫の
王鎮悪(AC-D2氏推挙)
劉裕麾下、第二位の武将。一位は檀道済である。前秦の大宰相
北魏の驍将。南涼を統べた
以上である。
では、また次部。
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