第二部 顕名群雄宰相
ごきげんよう、崔浩である。
当部では顕名、群雄、宰相を語る。
即ち、君主に準ずる時代の枠組みたりうる人物である。
・顕名
クソ南朝貴族の諸悪の根源である。先祖を辿ると戦国秦の大将軍
東晋中盤の主役である。傑出した文武の才でもって宮中を席巻、ひとときは旧都洛陽の回復まで果たす。それにしても、東晋についてはこの人を知るだけで父親が
王導と並ぶ五胡十六国時代の代表的宰相である。なお同じ姓だが王猛は北海郡の生まれなので、特に血縁らしい血縁はない。所謂偏屈、仕事の虫であり、誰に対しても遠慮すると言うことを知らぬ。それを笑って受け容れる苻堅に出会っていなければ、あっさりと殺されていたのではなかろうか。五胡十六国時代随一の主従と呼ばれる苻堅と王猛だが、くせ者同士がうっかり嵌まり合ったという印象がある。そして、それが見事な調和を産み出した。人と人との出会いの妙、と言う奴を感じずにはおれぬ。かれの死が淝水の大敗を招いたという美しき物語を紹介するのが五胡十六国時代初学者に向けての導入なのだが、まぁなんだ、申し訳ないが、アレは昭和だな。
淝水の戦いの舵取りを為した大功労者、と言う扱いである。ただしエピソードを読むと少々見栄っ張りの小者っぽい。例えば淝水勝利の速報を友人と碁を打っていたときに聞き、友人の前では「あぁ、うちの小倅が勝ったみたいですね」と澄まし顔でいたが、客が帰ったら狂喜乱舞して下駄の桁を折って、しかもそれに気付かなかった。また讒言により孝武帝に疎まれていたことがあったのだが、ある宴にて同僚が孝武にそのことを窘めてくれたのを見て「ちくしょう、なんだよお前……!」と感涙した。無論業績は業績で出色のものである。知れば知るほど面白い人物であるのは間違いがない。
・群雄
西晋の天下統一事業に於ける、
晋国オモシロ集団自殺「八王の乱」をその類い希な政治力にて勝ち残った。宰相枠に載せるべきなのやも知れぬが、懐帝
前燕を建てた
晋国属として
匈奴独孤部大人。鉄弗部劉衛辰に引っ掻き回されていい迷惑を蒙られたお方、と言う印象でもある。もとは拓跋部にお仕えになっていた。だがその拓跋部に、劉衛辰の手引きで前秦が侵攻。ここで拓跋氏はいちど半壊する。この時劉庫仁殿は、流亡の身となった道武、及び道武の母上を匿われた。その後拓跋の旧領を劉衛辰と分け合うことになったのだが、劉庫仁どのの心意気に感じ入ったか、苻堅は劉庫仁どのを特に尊重。「俺のおかげで拓跋潰せたんだろ!」と切れる劉衛辰を返り討ちになされた。相当苻堅好みの人物であったようだし、また劉庫仁どのにとりても、苻堅は具合の良い君主であったようだ。後日オモシロ慕容の反乱にて殺されるまで、前秦への臣節を貫かれている。また一方では道武の庇護者としても尽力なされている。我らが北魏の大恩人と呼ぶべきお方である。赫連のアホと同じ匈奴とは到底思えぬでな……
北燕二代目皇帝。初代は
なおあまり関係がないのだが、北魏の女傑馮太后は、このひとの血族である。
・宰相
参謀と言うよりは後世に言う諫義大夫が如き振る舞いである。劉淵の良き智の懐刀で、所謂軍略にはさほど関わっていなさそうである。息子の
懐帝司馬熾を失い、事実上崩壊した西晋の最後の防衛線となったひとである。謀り、騙し討ちを得意とする。その策謀にてひとときは劉曜の軍勢を退けたりするものの、結局は自分が虚報に躍らされる羽目に陥り敗北。愍帝司馬鄴と共に捕まる。その後劉聡がなした司馬鄴への嫌がらせの数々に対し激怒、憤死。すると劉聡から「麹允、お前の忠烈ヤバいな(笑)」とばかりの諡号(節愍侯)が送られた。この辺りの記述は非常に簡素であり、劉聡の真意がどこにあったかは分からぬ。ただ、劉聡が懐帝愍帝を公衆の面前で奴隷扱いしたところから鑑みるに、麹允への諡号追贈も、相当にタチの悪い嫌がらせとみるのが順当であるよう思う。
これを申し上げると石勒ファンに失礼なのは承知なのだが、バカにハサミの使い方を見事に教えた人、と言う印象である。無論石勒自身は文盲とは言え非常に聡明な人物であるが、そのかれに漢人的統治機構をつくらしめたドラスティックな方向転換のすさまじさを語るには、どうしても極端な表現を用いずにおれぬのである。石勒とは「右候☆」「明公☆」と呼び合うほどの蜜月振りであったという。気が付くと敵軍をしばしば穴埋めしている石勒だが、張賓に限らず臣下ラブな側面もしばしば見せている。
劉曜にとっての陳元達、と言った装いの関係である。ただしもう少しダイレクト且つラディカルな関係で、しばしば劉曜に諫言しては投獄されている。その後他の臣下に諫められて「俺が悪かった、正直すまんかった」と釈放されるまでがワンセットである。よく愛想を尽かさず付き合ったものだ。ただし政権末期には消息をくらませているので、上手く逃げ延びたのやも知れぬ。まぁ殺されたのやも知れぬが。文武に渡り傑出した才を示していたが、そのようなかれが劉曜に忠義を尽くし続けた動機はなかなかにドラマを感じさせる物がある。
庾氏は八王の乱勃発時、逸早く江南の地に疎開している。この一件を見るだけでも行動力実行力の高さはよく窺える。八王の乱収束後赴任してきた、のちの元帝司馬睿に大層気に入られ、姻戚を結ぶ。その後順調に権勢を伸ばし、一時は王導をもしのぐほどとなった。しかしそのやり口はあまりに苛烈であり、多くの者からの反感を買う。結果蘇峻の乱を招き、妹の
陶侃亡き後、陶侃の軍府を継承。更にその軍府は西府として、弟の庾翼を経て桓温へと引き継がれる。
後趙の
前秦では栄達できなかったが、後秦朝でその才覚を花開かせ、宰相レベルの抜擢を受けた。苻堅が姚萇に捕まり、まさに殺されよう、と言うタイミングで初めて苻堅はまともに尹緯と話し、その才覚を知る。「君のような人物を重用できなきったのであれば、衰亡もやむなしだな」……というコメントは、さすがに盛っているだろうとも思うのだが。さてその才覚であるが、姚萇、姚興の二代をよく扶翼し、後秦を押しも押されぬ大国へと育て上げた。この手の伝説はできすぎているので、講談を打つのであればさておき、史実として眺めよう、と言うときには真っ先に棄却する方が良いようにも思う。がまぁ、面白ければ全てよし、でもある。
我が父である。無論親族枠でねじ込んでいる、わけではない。ただし道武への参画は案外遅く、参合陂以後である。とは言え元々声望の高かった父であったから、参画後は即座に要職に上り詰めるのであった。国号「魏」も父の提唱が受け容れられたものである。道武亡き後の朝政を
劉裕を支えた謀臣。同じ姓であるが普通に赤の他人である。謀臣とは言っても「お前は戦の駆け引きに口出しするな」と劉裕に言われていたりするので、
赫連マジキチ勃勃に常に建設的献策を呈し、しかも特に仕置きを受けている形跡もない。実際に献策の内容を繙くとごくまともであり、それが却ってこの人のマッドさを裏打ちする。……と言いだすのは、さすがに陰謀論にも過ぎるであろうか。「あの赫連勃勃から全幅の信頼を受けていました」で全てを語れる気もしたが、それだとさすがに勃勃さんに頼りきりであるため、敢えて文字数を稼いでおいた次第である。
我が主上、太武帝のはじめの皇太子である。夭折されたため皇阼を踏むことは叶わなかったが、かれが登極しておったら、……おや、あまり if の想起が叶わぬな。まァ結局のところ孝文帝もかれの血統である以上、かれが長生きしたところで六鎮の乱は起こっていたであろう。太武弑逆よりも前に薨去されているのだが、そこまでの治績にて太武より全幅の信頼を得ていた。さすがにべた褒めにも過ぎるので、幾分は夭折の皇太子に対する贔屓の引き倒し的要素も考慮に入れねばなるまい。また宦官
……主上、近辺にはおわさぬよな?
以上、顕名群雄、そして宰相の二十五名。
次部は名将二十五項二十七名となる。
引き続き面白い人物目白押しである。
では、また次部。
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