[3] 中央部での進撃

 南部での成功に続いて、スターリンは中央軍集団の戦区でも戦果を広げようと考えていた。2月2日、スターリングラードの解放が完了すると同時に、「最高司令部」に対して、スターリンはドン正面軍を解体して、はるか北方に新たな正面軍を設置するよう命令を下した。

 ドン正面軍司令官ロコソフスキー大将は第21軍・第65軍と、新編成の第2戦車軍をヴォロネジおよびリブニ地区に集結させて、中央正面軍を設置するよう命令された。これ以外のドン正面軍に所属していた3個軍(第24軍・第64軍・第66軍)はスターリングラードに置かれ、中央正面軍もしくは南西部正面軍のいずかに編入されるまで待機するよう命じられた。

 モスクワの「最高司令部」と赤軍参謀本部は、中央軍集団に対する攻勢計画を三段階にして構成していた。

 第1段階は2月12日に始まり、西部正面軍(コーネフ大将)・ブリャンスク正面軍(レイテル中将)によってオリョール突出部を壊滅する。第2段階は2月17日から25日にかけて、この2個正面軍と中央正面軍が協同してブリャンスクを奪回し、デスナ河の橋頭堡を確保する。第3段階は2月25日から3月下旬にかけて、カリーニン正面軍(プルカーエフ中将)・西部正面軍をスモレンスクで合流させて、南方の各正面軍と協同してルジェフ・ヴィヤジマ突出部の中央軍集団を壊滅する。この攻勢全体は南部での予想される成功と合わせて開始されるので、3月中旬までにはドニエプル河に達することになっていた。

 しかし、中央正面軍に与えられた時間は五日間しかなく、攻撃開始点に配置されていたのは第2戦車軍と第2親衛騎兵軍団だけだった。第21軍・第65軍はスターリングラードから貧弱な道路と鉄道で移動中であった。ロコソフスキーは「最高司令部」が提示した日程に反対したが、それでも出来うる限りの努力は尽くさねばならなかった。結局、中央正面軍は2月25日まで攻勢に出ることが出来なかった。

 2月22日、ブリャンスク正面軍の第13軍・第48軍が第2装甲軍(シュミット上級大将)の南翼に対して、攻勢に出た。続いて西部正面軍の第16軍(バグラミヤン中将)が、ドイツ軍の北翼をジドージラから攻撃した。しかし、雨とドイツ軍の防御戦術によって第16軍の進撃は阻止され、結局、わずかしか進撃することが出来なかった。

 2月25日、中央正面軍は攻勢を開始した。第13軍に北翼を援護された第65軍はドイツ軍の抵抗を排して背後を深く進撃した。第2戦車軍とクリュウコフ機動集団(第2親衛騎兵集団と狙撃兵、スキー部隊)は、セブスクからノヴゴロド・セヴェルスキーに向けて急転回した。

 3月1日、中央正面軍の攻勢はある程度の成功を収め、第2装甲軍と第2軍の前線を突破した。この時までにブリャンスク正面軍の第70軍(タラソフ中将)は前線の突破を果たし、ドイツ軍がオリョールとブリャンスクに撤退するのを阻止するため、第65軍(バトフ中将)の北翼で攻勢に加わった。

 しかし、ドイツ軍の抵抗は部隊を巧妙に撤退させていく内に頑強なものになり、さらにルジェフ突出部から撤退してきた第9軍(モーデル上級大将)が突破を果たしたソ連軍に襲いかかった。この危機に対し、ロコソフスキーは3個軍(第21軍・第62軍・第64軍)の増援を要請したが、3個軍とも未だ行軍中で意味をなさなかった。

 3月7日、クリュウコフ機動集団はノヴゴロド・セヴェルスキーの郊外に到達し、冬季戦の中で最大の前進となった。だが、情勢はドイツ軍の有利になりつつあった。オリョールに迫った部隊はますます増大するドイツ軍の抵抗に直面して停止を余儀なくされた。ロコソフスキーは第2戦車軍をオリョールに送って勢いを取り戻そうとしたが、今度は中央と南翼が弱くなり、そこから第2軍がかき集めた混成部隊を駆使して反撃に出た。

 そして、南方で起こった崩壊が中央正面軍の進撃を完全に停止させた。

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