[2] B軍集団の壊滅

 1943年1月中旬、「最高司令部」と赤軍参謀本部は「小土星」作戦の成功を基に、ドン軍集団に続いてB軍集団に対する攻勢を徐々に拡大させていった。この一連の攻勢はドン河上流の敵を一掃して、今後の作戦のために地ならしをすることだった。

 ドン河流域における第3次攻勢は目標となる2つの町の名前を取って「オストロゴジスク=ロッソシ」作戦と名付けられた。ヴォロネジ正面軍(ゴリコフ大将)が南北からの両翼包囲によって、ハンガリー第2軍(ヤーニ大将)を壊滅させるという内容だった。作戦の調整役として、赤軍参謀本部から作戦部長兼参謀次長アントーノフ中将がヴォロネジ正面軍司令部に派遣された。

 1月13日、ヴォロネジ正面軍の第40軍(モスカレンコ中将)は2時間に渡る支援砲撃の後、突出部の北翼から進撃を開始した。「オストロゴジスク=ロッソシ」作戦の発動である。翌14日には中央部の第18狙撃軍団が敵を牽制しつつ、第3戦車軍(ルイバルコ中将)が南翼から攻勢を開始した。

 ヴォロネジ正面軍の攻撃を受けて、イタリア第8軍の中で唯一損害を受けていなかった山岳軍団(ナスチ中将)の4個歩兵師団(第2「トリデンティナ」・第3「ジュリア」・第4「クネンゼ」・第156「ヴィチェンツァ」)はドン河流域から数日の内に消滅した。当初は10万人の兵力を擁していたイタリア第8軍は約1か月間の戦闘で、約8万5000人の将兵を戦死または行方不明者として失った。本国からの補充兵を含めた約3万人が凍傷などで戦線から離脱した。

 1月16日、第3戦車軍は南部のロッソシを奪回した。ドン河沿岸の陣地を放棄したハンガリー第2軍の3個軍団(第3・第4・第7)は戦線を再構築できぬまま、ソ連軍に次々と撃破された。北部のオストロゴジスクで3個歩兵師団が包囲された。

 1月19日、第7騎兵軍団は攻撃開始点から100キロ離れたオスコル河畔のヴァルイキに到達した。ハンガリー第2軍はドン河とオスコル河の狭い回廊に閉じ込められ、次々と壊滅していった。当初は総兵力20万人を擁していたハンガリー第2軍は事実上、崩壊してしまった。戦死者と負傷兵は合計で約13万5000人を数え、6万人を捕虜として失った。

 モスクワの「最高司令部」はドン河流域からドイツ軍を一掃するため、「オストロゴジスク=ロッソシ」作戦に続く攻勢として「ヴォロネジ=カストルノエ」作戦に認可を与えた。作戦の内容はヴォロネジからカストルノエに至る突出部にいる第2軍(ザルムート大将)を両翼から包囲するものだった。主攻勢はヴォロネジ正面軍が担当し、ブリャンスク正面軍(レイテル中将)から第13軍の支援を受けることになっていた。

 1月24日、ハンガリー第2軍の掃討を終えた第40軍と第4戦車軍団は南翼から再び攻勢を開始し、第4戦車軍団は日没までに16キロ前進することに成功した。新たな包囲網が形成される恐れが生じたたため、第2軍司令官ザルムート大将はヴォロネジを放棄せざるを得なくなった。同軍の3個軍団(第7・第13・第55)は西方への撤退を開始した。

 1月25日、突出部の正面から前線を突破した第60軍が半年ぶりにヴォロネジの市街地に入った。装軌車でなければ行動できないほどの豪雪にも関わらず、ソ連軍の攻勢はさらに勢いづいた。

 1月26日、突出部の北翼では第13軍と第38軍が攻撃を開始した。

 1月28日、第13軍はカストルノエで南翼から進撃してきた第40軍と合流した。第2軍の一部が包囲されてしまったが、ソ連軍の包囲網には兵力不足によって間隙が開いていた。包囲されたドイツ軍の各部隊は重装備を放棄しながら、どうにか西方に脱出することに成功した。

 B軍集団はもはや1個軍規模にまで兵力が低下して、ソ連軍の攻勢を押しとどめる力は残されていなかった。ドイツ軍が1942年6月に開始した「青」作戦で占領したロシア南部地域の大部分が「天王星」作戦から約3か月に渡るソ連軍の攻勢によって、全て失ってしまうのである。

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