[3] 立案

 モスクワの「最高司令部」は1月中旬、「ヴォロネジ=カストルノエ」作戦と平行して、B軍集団の壊滅によって生じたドネツ河上流の戦線に対する新たな攻勢作戦を立案しようとしていた。もはや目前の事態に対応するだけで精一杯のドイツ軍にさらなる追い討ちをかけるためには、「ヴォロネジ=カストルノエ」作戦の完了後、即座に別方面で攻撃を仕掛けることが有効だという意見で一致していたからであった。

 こうした研究の成果として、1月20日から23日にかけて、赤軍参謀本部は2つの攻勢計画を立案した。

 1つ目は石炭や鉱物資源が豊富なウクライナ東部のドンバス地方を奪回し、そのままドニエプル河まで突進する「ギャロップ(スカチョーク)」作戦である。2つ目はハリコフ奪回を目的とした「ズヴェズダー」作戦である。

 南西部正面軍司令部が計画した「ギャロップ」作戦の内容は集中的な戦車運用法に基づいており、ドイツ軍の「電撃戦」を彷彿させるものだった。まず、最初の戦車部隊がアゾフ海沿岸のマウリポリに進撃して1週間以内に同市を制圧する。続いて、第2の戦車部隊がクラスノグラードに突進してドイツ軍の重要な補給路があるサポロジェとドニエプロペトロフスクを制圧する。攻撃開始日は1月29日とされた。

 1月26日、モスクワの「最高司令部」は次のような内容の一般命令を南西部正面軍司令部に下達した。

「ヴォロネジ正面軍が実施した一連の攻勢作戦の成功により、敵の抵抗は完全に打ち砕かれた。敵の防衛線は広範囲にわたる綻びを見せており、充分な戦略予備を持たない彼らは、各地で分散して孤立状態に陥っている。現在、南西部正面軍の北翼はドンバス地方の北側へと大きく張り出しているが、これはドンバスとカフカスおよび黒海沿岸に残る敵兵力を包囲殲滅する上で、絶好の状況であるといえよう」

 ドン河流域の掃討を終えたヴォロネジ正面軍司令部では、「星」作戦の計画が進められていた。「最高司令部」は攻撃開始日を2月1日にするよう指示を出し、南西部正面軍の「ギャロップ」作戦と連動して、ハリコフとビエルゴロドの解放を命じた。さらに、最高司令官代理ジューコフ元帥の提案により、クルスクも攻略目標として加わることになった。これはヴォロネジ正面軍で戦局に対する楽観視が広がっていたことを証明している。

「最高司令部」と赤軍参謀本部、攻勢作戦を担う南西部正面軍・ヴォロネジ正面軍司令部においても、新たな攻勢の成功を疑う者は誰一人としていなかった。そして、この両作戦が成功すれば、南部におけるソ連軍の圧倒的優位は保障されたも同然であった。

 ドン河流域における退却戦の終了に伴い、ドン軍集団司令官マンシュタイン元帥はドン河の西を流れるドネツ河を軸とした防衛線の再構築に取り掛かった。マンシュタインは1月から3月にかけて、ヒトラーの機動防御に対する強情な反対と、スターリングラードの勝利で意気上がるソ連軍の両方を制するために必要な処置をとり続けたのである。

 ドン軍集団の麾下には「第4装甲軍」と「ホリト軍支隊」という2つの上級司令部が存在したが、ここに配属されている装甲師団や歩兵師団はいずれも「冬の嵐」作戦からチル河・ドン河流域の撤退戦で消耗していた。その穴埋めとして、休暇帰還兵や後方作業員などの「寄せ集め部隊」が臨時に編入されていた。そのため従来の指揮系統に則って部隊を指揮することがもはや不可能になっていた。

 1943年初頭から東部戦線におけるドイツ軍では、特定の指揮官の直属下に2~3個師団を編入した「支隊」や「戦闘団」が各地で必要に応じて編成された。この時期以降から、応急的に編成された「支隊」などが機動防御や撤退作戦を展開する状況が東部戦線の各地で繰り返された。

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