[4] 脱出
大多数のドイツ国民は、第6軍の決定的な敗北がどれほど近いかということなど想像もしていなかった。スターリングラードが包囲されたというニュースを国民に知らせてはならない。ヒトラーがそのことを厳しく命じていたためである。1月になっても、「スターリングラード地域の部隊」という曖昧な語句とともに相変わらず作り話が伝えられた。
1月9日、ラシュテンブルクの総統大本営でヒトラーと会談したフーベが孤立地帯に戻ってきた。パウルスとシュミットは、フーベからヒトラーがスターリングラードにおける敗北の可能性を断じて認めようとはしないことを打ち明けられた。
タツィンスカヤがソ連軍に攻撃されてから、輸送機の数は大幅に減少した。空軍の努力を認めつつも、第6軍が憤懣やる方なかった出来事もあった。貨物を開けてみたら、中にマジョラムと胡椒しか入っていなかった。第6軍の補給参謀は「どこの馬鹿がこんなものを詰めやがった?」と怒鳴った。一緒にいた将校は「少なくとも胡椒なら接近戦で使えるんじゃないか」と冗談を飛ばした。
1月10日午前6時5分、「鉄環」作戦は発動された。7000門の火砲が反動で砲架ごと跳ね上がって唸りをあげた。黒い煙の尾を引いて空に向かうカチューシャ・ロケット砲が55分間に渡って絶え間なく発射された。
ドン正面軍は第21軍(チスチャコフ少将)と第65軍(バトフ中将)がカルポフカの突出部から攻撃を開始し、第66軍(ジャドフ少将)はドン河の北から第6軍司令部が置かれたグムラクに向かって進撃した。
この期に及んで、ヒトラーは第6軍にさらなる援助を与えねばならないと決断し、航空機総監ミルヒ元帥に空輸作戦を監督するよう命じた。ロストフ西部のタガンログに到着したミルヒは「特別参謀部」を設置したが、上官のゲーリングから孤立地帯への飛行を禁じられてしまう。ミルヒと参謀たちは第6軍の実情を把握する手立てを奪われていた。
1月16日、第21軍は重要な補給基地であるピトムニクを奪取する。第6軍は包囲網の東半分に押し込まれた。第6軍の残兵たちの中で動ける者は負傷兵を引きずりながら、氷の道を約13キロ先のグムラクに向かった。ドイツ空軍の大尉がこのように記録している。
「みな疲れ果てているようだ。あちこちの部隊で落伍兵がかなり増えてきた。所属部隊と連絡が取れなくなったのだろう。食糧と避難所を都合してくれと懇願する」
ドン正面軍司令官ロコソフスキー中将はこの時、全軍に停止命令を下した。第6軍の抵抗は頑強であり、最初の3日間でドン正面軍は兵員2万6000人を失っていた。日毎に損害が次第に大きくなり、部隊を再編する必要に迫られたためであった。
1月20日、兵力の再編を終えたドン正面軍は攻勢を再開した。第65軍はゴンチャラの北西を突破して、第6軍最後の補給基地であるグムラクに迫った。この時、グムラクの飛行場からは第14装甲軍団長フーベ中将など装甲部隊の将校や、重傷を負った第4軍団長イエネッケ大将、一部の技術者や特殊兵が脱出した。
1月21日、グムラクの飛行場と第6軍司令部の撤退は混乱を極めた。トラックの燃料が不足していたため、負傷兵と軍医が野戦病院に残された。補給が全くなくなった第6軍はスターリングラードに向かって退却した。市街地に近づくにつれて、敗北の惨状はますます眼を覆うばかりとなる。
「戦車に踏み潰された兵士、身も世も無く呻く負傷兵、凍結死体の山、燃料切れで放置された軍用車両、吹き飛ばされた砲などの種々の兵器類。見渡す限りそんな光景である」
1月22日、グムラクの飛行場が陥落した。第6軍司令部はヒトラーからさらなる追い討ちを受けた。
「降伏は論外である。部隊は最後まで戦うべし。できれば、なお戦闘可能な部隊で要塞を縮小して守れ。勇敢なる行為と要塞の堅持によって新たな前線を確立し、反撃を開始する機会が生まれた。かくして第6軍はドイツ史における最も偉大なる一幕に歴史的貢献をなしたのである」
1月25日、ヒトラーは第6軍を完全に見限っていた。第6軍は廃墟から蘇る不死鳥のごとく「新生」する。この着想は総統の脳裏で断固とした計画となった。ヒトラーの主席副官シュムント少将は次のように記した。
「総統は20個師団の兵力を持って第6軍を新たに編成せよと命じられた」
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