[2] 「小土星」作戦
12月16日、ドン河の上流から南西部正面軍の第1親衛軍(クズネツォーフ大将)と第3親衛軍(レリュウシェンコ大将)が南に向かって攻撃を開始した。「小土星」作戦が始められたのである。当初、ソ連軍の攻勢は遅れ気味だったが、2日後にはイタリア第8軍の2個軍団(第2・第35)を一掃させた。第17装甲師団も「冬の嵐」作戦に参加させた今、ドン軍集団には戦略予備が全くなかった。
南西部正面軍は第3親衛軍の第1親衛機械化軍団と、ヴォロネジ正面軍に所属する第6軍の第24戦車軍団を先頭に、チル河南方のタツィンスカヤとモロゾフスカヤにあるドイツ空軍の野戦飛行場に向かって進撃を続けた。
12月19日、マンシュタインは情報将校アイスマン少佐を孤立地帯の第6軍司令部に派遣した。後にドン軍集団司令部と第6軍司令部の間でテレタイプ(無線機と連動したタイプライター)による通信回線が開かれ、来たるべき包囲突破作戦の段取りについて具体的な話し合いが行われた。
第6軍の現状を知ったマンシュタインはただちに包囲突破の第1段階として、スターリングラードを維持しつつ孤立地帯の南を流れるドンスカヤ・ツァーリツァ河まで前線を拡張するようパウルスに命じた。第57装甲軍団はすでに孤立地帯から48キロ南のムイシコワ河に到達しており、作戦開始のタイミングとしては悪くないだろうと思われた。
しかし、パウルスは孤立地帯の放棄を含めた「雷鳴」作戦との組み合わせでなければ「脱出は実行不可能」と反論した。この点はマンシュタインも承知していたが、ヒトラーは「雷鳴」作戦の認可を頑なに拒み続けていた。
12月23日、マンシュタインは次のように打電した。パウルスがヒトラーの命令を無視して行動を示すことに期待していたのである。
「『雷鳴』作戦を今すぐ実行に移すことは可能か?」
パウルスの回答は次のような内容だった。
「現状の燃料備蓄量では、第57装甲軍団の待つ位置まで到達できる見込みは皆無です」
ドイツ空軍は11月24日から孤立地帯への空路補給を始めていたが、結果として第6軍に十分な物資を輸送することは出来なかった。第4航空艦隊司令官リヒトホーフェン上級大将は空軍参謀総長イェショネク大将に「輸送機の一部が北アフリカ戦線に転用されて機数が不足しており、第6軍への空路補給はできない」と警告したが、ゲーリングからは何の反応も無かった。
輸送機の不足に悪天候が重なり、日毎の平均到着量は約120トンに過ぎなかった。これは第6軍が必要と算定した量(300トン)の半分も満たない量だった。約28万人の兵士に対する食糧はわずかだった。積荷の4分の3こそ燃料だったが、そのほとんどが輸送機をソ連空軍から護衛する戦闘機に使用されていた。
パウルスは空路補給に関して疑問を覚えていたが、すでに第6軍内部では権威を失っていた。代わりに軍を掌握したのは、参謀長のシュミットであった。シュミットは総統大本営やB軍集団司令部が孤立地帯に対して十分な補給を行う責任があると周囲に説き、パウルスの意見を無視して、十分な燃料が空輸されるまでは脱出しないという軍全体の総意を取り付けていた。だが、第6軍への補給はさらに窮地に追いやられることになる。
12月23日、第24戦車軍団(バダノフ少将)が約240キロもの進撃を果たしてタツィンスカヤの北に位置するスカシルスカヤに到達した。タツィンスカヤには第6軍の空路補給のためのJu52輸送機の主力基地があり、ドン軍集団司令部が置かれたノヴォチェルカスクまでわずか180キロの地点だった。
第24戦車軍団はタツィンスカヤの飛行場に急襲を仕掛け、基地に置かれていた輸送機72機を破壊することに成功した。4日後に第48装甲軍団の反撃を受けて撤退せざるを得なくなった頃には、タツィンスカヤの飛行場は完全に破壊されていた。第4航空艦隊は遠くの粗末な飛行場に移動しなければならなくなった。
12月24日、ムイシコワ河にいる第57装甲軍団は第2親衛軍の第7戦車軍団(ロトミストロフ少将)による反撃を受けて大きな損害を受けた。あまりの損害の大きさに、第4装甲軍司令官ホト上級大将はついに退却命令を下達した。
この退却命令は第6軍の救出作戦が完全に失敗したことを意味していた。
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