第2話

《昨日、京浜メガフロートに上陸した、えー、怪獣、怪獣は――》

《多くの映像がインターネットに投稿され――》

《国防軍は総力を挙げて、この怪獣の発見及び駆逐作戦に臨むものと思われ――》


 テレビのリモコンの『切』ボタンを押しながら、


「全く、世の中何が起こるか分からないわね」


 と、洋子は呟いた。

 

 今俺たちがいるのは、マイホームのダイニング。美海はまだ眠っている。

 差し込んでくる朝日を浴び、小鳥のさえずりを聞いていると、あんな大ハプニングに巻き込まれたのがほんの昨日のことだとは信じがたい。

 

 昨日、すなわち俺が怪獣と遭遇した日、洋子と美海は二人で銀座に出向いていた。ショッピングに興じていたのだそうだ。本当は三人で映画館に行きたかったが、美海がいつ泣き出すか分からないので別行動をとることになった。

 俺も銀座に同行できれば良かったのだが、どうにも苦手意識が先行してしまった。あれだけ商店が並んでいると、目移りして酔いそうになってしまう。

 

 そんな中をウィンドウショッピングしていた洋子と美海。怪獣の上陸という俄かに信じがたいニュースには、しかしすぐに気づいたという。洋子はやたらとニュースに敏感なのだ。携帯端末の情報欄はいつも十分置きにチェックしている。


「あなたにも命令が下るの? 怪獣を攻撃しろって」

「さあな……」


 俺はトーストに食いつきながら答えたが、頭の中は、今日行われる報告会のことで一杯だった。

 これだけ情報が流出していれば、誰も俺の見間違いだとは思わないだろう。実際に死傷者も出ている。

 しかし生憎、その怪獣を直接目視したことがあるのは、軍部の人間でもごく一部。それもあれほど間近で見たのは俺だけときている。

 全く、どれほど質問責めに遭うことやら。

 

 それよりも、問題は目の前にいる女房の方だ。

 洋子がニュースに敏感になったのは、俺が海外派遣の命令を受けてからのこと。日本から派遣された軍人が戦闘に巻き込まれたという情報を耳にする度、ぞっと肝を冷やしてばかりだったという。

 殉職した仲間たちには申し訳ない限りだが、ニュースで取り上げられる殉職者名簿に俺の名前がないのを知って、洋子が一体どれほど安堵したことか。俺はそれを分かったつもりでいた。


 しかしその安堵感は、極度の緊張状態が解けた際にもたらされるものだ。

 早い話、洋子は俺が殉職することが恐ろしくてならないようなのである。


 結婚前、俺は自分の役職、階級、そしてどれほど危険な職務に就いているかを、洋子に何度も伝えた。

 一度出動がかかったら、帰ってこられる可能性は百パーセントではない。むしろ、帰ってこられない可能性の方が高い任務だってある。

 そう言い聞かせたのだが、洋子は頑として俺との結婚に異を唱えなかった。

 その意志の強さを見て入籍に踏みきった。そんな経緯が俺たち夫婦にはある。


 しかし、いざこうして今回の怪獣騒ぎを見たら、流石に心に揺らぎが生じたらしい。


 何せ、相手は怪獣なのだ。俺たちが訓練を積んできた対人戦法が通用しないことは明らか。確かに、心配するなと言う方が無茶な注文なのだろう。


「あなた、さっきから聞いてる?」

「ん? あ、ああ、すまん」

「全く、人がどれだけ心配しているのか……」


『知りもしないで』とでも続けたかったのだろうが、洋子は言葉を切った。

 すっかり冷めたコーヒーカップを揺らしながら、視線を落としている。

 俺もスープに口をつける。しかし俺の手の中にあるのは、カップの熱ではなくあの赤ん坊の温もりだった。

 

 もし、あれが美海だったとしたら。

 もし、あの父親が俺だったとしたら。

 もし、母親である洋子までもが、あの事件に巻き込まれていたとしたら。


 俺はカップを置き、咳払いを一つ。


「とりあえず、今は俺たち国防軍人がやるべきことをやる。それだけの話だ」

「何よ? 『やるべきこと』って」

 

多少の棘を含ませた洋子の物言いに、俺は一瞬、息が詰まった。しかし、


「今は怪獣の調査だな。敵戦力がどれほどのものか、しっかり把握しておかないと」

「要は砲弾やミサイルがどれだけ効くか、って話でしょう? 決まればすぐにでも作戦は実行される」

「そうだな」


 俺はトーストの最後の一片を口に放り込みながら、淡々と答えた。


「そうやって矢面に立たされるのは、あなたたちでしょう? 信義さん」

「その話題はナシだ」


 頭ごなしに、俺は洋子の言葉を遮った。


「お前には、俺の職務に伴う危険は何度も説明してきたはずだ。今さら抵抗されても困るんだが」

「……」


 しばしの沈黙。了解済みのことだったとはいえ、流石に言い過ぎたかと俺が思い始めたその時、


「あ、美海……」

 

 キッチン奥の寝室から、賑やかな泣き声が響いてきた。俺と洋子は同時に席を立ち、俺は乳児用ミルクを作りに、洋子は美海をなだめるために、それぞれ足を踏み出した。


 キッチンの流し台で、ぬるく調整した粉ミルクを作る。無意識に手を動かしながら、俺は美海の泣き叫ぶ声を聞いていた。

 聞き慣れているはずなのに。

 騒がしくも愛おしいはずなのに。

 今日の美海はよほど腹を空かせているのか、その泣き声はやたらと鋭く鼓膜を打った。


「あなた、ミルクを」

「ああ、今持っていく」


 そう言いながら壁の時計に目を遣ると、時刻は既に午前九時を過ぎていた。報告会兼作戦会議は午前十時からなのに。

 俺は慌ててベッドルームに駆け込み、


「悪い洋子、もう出なきゃならない」

「あら、そうなの? 今度美海が泣いたら、あやすのはあなたの番だったのに……」


 こんな時に何を言っているんだと、怒声を飛ばしそうになる。辛うじて俺は、こみ上げてきた怒りを喉元で押さえつけ、


「行ってくるぞ」


 とやや乱暴に言って制服に袖を通した。

 鏡に向かって襟を正し、『少佐』の階級賞が輝くのを確認する。制帽を被り、どこかに乱れがないか確認をしていると、ちょうど美海を抱いた洋子の姿が目に入った。


「ほら美海、お父さんにバイバイって」


 美海は不器用に、しかししっかりと、片腕の肘から先を俺に向かって振った。

 急激に先ほどの怒りが鎮まっていくのを感じる。代わりに高まってきたのは、これ以上犠牲者を出すまいという義務感、そして、何としてでも二人を守りたいという願いだった。

 俺は振り返り、洋子が美海から視線を上げるのを待った。


「何? あなた、急ぐんでしょう?」

「ああ、いや――」


 俺は一度、大きく息をついてから、


「今度休暇が取れたら、お前が行きたいって言ってた洋食店、連れてってやる。行こう。美海と三人で」


 洋子は一瞬、ポカンと口を開けた。しかしすぐに頬を引きつらせ、腰を折って笑い出した。


「な、何だよ?」

「だってあなた、まるでプロポーズする時と同じような顔つきしてるんだもの!」


 今度は俺が、顎を外す番だった。


「プロポーズ? 俺がか? 今?」

「ええ、そうよ。たった今まで」


『お父さんも変でちゅね~』と洋子は美海に告げた。軽く美海を揺すりながら、視線を落とす。


「さ、あなた、急ぐんでしょう? 早く」


 微かに声を掠れさせる洋子。だが俺はその異常を明確にキャッチした。

 洋子に一歩歩み寄り、そっと顎に手を遣って上向かせる。カタンと軽い音を立て、フローリングにミルクの瓶が落ちる。

 俺はため息をついた――やっぱり泣いていたんじゃないか、洋子。


 すると、再び美海が泣き始めた。わんわんぎゃーぎゃーと、先ほどよりもひどい。だが、洋子は全く気にしていない、否、そちらに気を回していられない様子だった。両目を見開き、俺を見つめ返してくる。


「約束は守る。それが家族としての、俺の任務だ」


 ふっと前傾姿勢になって唇を求めてきた洋子を、しかし俺はやんわりと拒絶した。


「必ず戻る。その時まではお預けだ」


 これは、俺自身に対する一種の戒めでもあった。ここで洋子の優しさに触れてしまったら、戦場での判断に支障をきたすかもしれない。


「行ってくるぞ」


 それだけ告げて、俺は玄関まで歩いていった。洋子は普段通り、


「お早いお帰りを」


 と告げただけだった。

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