俺の名前

 やはりあの女性は、先輩にとって並々ならぬ関係にあるようだ。それも、考えうる限り最も悪い関係に。


「どうしちゃったんですか。先輩らしくないですよ」

「あれ? 君確か河川敷にいたよね。そっか、宛南ちゃんの関係者なんだ。じゃあやっぱり肩に刺してたのは〈無傷の秘剣〉なのかな。まさかとは思ったけど」


 意味ありげに顎をしゃくり、女性は俺を見据えた。


「なるほどね。でも意外だなあ。あの宛南ちゃんが他人に託しちゃうなんてねえ」

「おい、あの女と会ったことがあるのか。何故それを黙っていた?」


 先輩は非難がましい調子で突っかかってきた。どうして俺が責められるんだ?


「な、何故って言われましても」

「そんなの訊くだけ無駄だよ宛南ちゃん。君に下々の者の気持ちが判らないのと同じで、そこの彼氏にも君のことなんか理解できやしないんだから。真に君と判り合えるのは、のあたしだけなんだ」

「……こっ……」


 婚約者?

 婚約者だって?


「も、元婚約者だと? あんたが? この姉ちゃんの?」

「ショッショックですのっ先客がいたんですのねっ」


 いや。いやいや。いやいやいや信じられない。

 先輩を見る。

 きつく唇を引き結んで壇上を睨みつける先輩は、しかし何も言わなかった。沈黙……それは黙認を意味するのか?


「そうだよ。あたしはこの学校で宛南ちゃんに出会い、その神性に打ちのめされた。彼女の持つ〈世界の記憶〉に触れ、それを悟ったんだ。タロット大アルカナの最終にして最高のカード〈世界ザ・ワールド〉。その記憶を持つ彼女なら、必ずや神になれるってね。だから教職を捨て、彼女を完全なる神に浄化すべく、常に彼女に付き従うパートナーとなった」


 〈世界の記憶〉……先輩を、完全なる神にする……?


「円卓の家から〈不死の聖剣〉を盗み出したのもそのためだった。聖剣をその身に突き立てれば、文字通り不死身になれる。神なら当然あって然るべき属性だもの。だけど、宛南ちゃんは神になるのを拒否した。あたしの心臓に聖剣を刺して逃げたんだ」

「ではではっ今のあなたは不死身ということなんですのっ」


 おどおどしながら少女が尋ねた。


「試してみる?」


 女性がにこやかに言う。見ているだけで臓腑を抉られるような、いやな笑顔。


「ちょっとやそっとじゃ死ななくなったのは確かだけど。生身の人間でこれなんだから、〈世界の記憶〉の持ち主に刺したら、どえらいことになりそう」

「わたしとて生身の人間だ」

「なんだお前たちは!」顔を真っ赤にした体育教師がいきなり間に入り、怒鳴り散らした。「さっきから何を訳の判らんことを。おい、お前たち早くそこを降りろ。何をしている。今日は大事な卒業式なんだぞ」


 いかにも! と続けて聞こえたのは、バレバレの頭部増強を図った理事長の声だろうか。


「あーもう耳障りだなあ」


 女性が無造作に指を鳴らすと、ステージを埋め尽くしていた女子たちがわらわらと動き出した。ある者は階段を使い、またある者は壇上から直接飛び降り、集団は列を成して左右に流れていく。


「お、おい、何をする」

「何をって、先生が降りろって言ったんでしょ」


 一分と経たずに、先輩を除く卒業生女子は体育館の壁沿いに等間隔に並び立った。見上げると、二階に相当する採光窓部分の通路にも人影が並んでいる。

 鬼と化した生徒たちに、館内はすっかり取り囲まれていた。


「な、なんの真似だ」


 体育教師らの怯えた様子に、壇上の女性は白衣の裾を翻して、


「見れば判るでしょ。外に出さないための包囲網よ。もし逃げ出そうものなら」


 と言葉を止めた直後、取り囲む女子生徒が一斉に壁を殴りつけた。太鼓の連打じみた音が鳴り響き、打たれた箇所は凡て罅割れ円形に窪んだ。砲丸をぶつけた跡のように。


「し、信じられん……なんて、力だ」


 パラパラと壁材の剥げ落ちる音が、空虚に聞こえた。


「抵抗しないほうが身のためだよ。でないと、次は先生の顔に穴が開くかも」


 冗談めかして言い、女性はくすりと微笑んだ。

 恐ろしかった。こんなに笑顔の恐ろしい女性を、俺は未だかつて見たことがない。


「腕力は多少ありそうだが」先輩が口を開いた。「こっちの同級生もいつぞやの鬼連中と変わらぬ、覇気のない顔をしているな。完璧な鬼化には見えぬが」


 先輩の言う通り、どの顔も人形のように無表情で、魂が抜けてしまったかの如くだ。


「受験疲れだったりして、ははは」女性は声に出して嗤い、「凶暴性は無用だからね。この娘らは忠実な兵隊になったんだ。完璧ってのはそういうこと」

「人の尊厳を踏みにじるか!」

「それが人から最も遠い存在の吐く台詞? 本当は君の役目なんだよ。あたしは代理でやってるだけ」


 白衣とは対照的な、黒いハイヒールを履いた女性の両脚が続けざまに躍動する。

 床に飛び降りるかに見えた彼女は、だが着地することなく不自然な浮力を得て上昇し、やがて何もない中空で立ち止まった。

 その背後に、背丈の倍はあろうかという漆黒の翼が二枚生えていた。


「犬飼宵子! 雷獣らいじゅうキノかみ!」


 有翼の女性が発した予想外の大音声に、少女と化け猫がびくっと身を強張らせた。

 少女は判るが、何故化け猫まで反応する? 今女性が呼ばわった二つ目の呼称が、化け猫の実の名前なのか?

 それにしても様子がおかしい。呼ばれた少女も化け猫も、ふらふらと歩を進め吸い寄せられるように女性の許へ近づいていく。


「召使いにペット! 武器を構えよ、無防備過ぎるぞ!」

「無駄だよ。魔術師のあたしに呼ばれちゃったんだ。


 少女の手には弓矢の本来の姿である木のバトンが、そして他方の手には化け猫の所有物だった五芒星の金貨が乗っていた。恭しい動作で少女が両手を差し出す。

 二つの品は、こうして白衣の魔術師の手に渡った。

 本名を知られると、支配される。迷信どころか、よもやそれが魔術師の手管だったとは。


「あたしより先に集めるつもりだったんでしょ。当てが外れて残念だったね。〈小アルカナ〉を四つ凡て揃えれば、それこそ鬼を超えるものを創り出せる。それを阻止したかったんだね。報われなくて残念だけど」


 きつく柄を握った先輩の拳が震えている。表情は判らないが、その背中はさながら落胆を背負っているかのようだ。


「理科準備室に落ちていた〈無形の棍棒〉は、貴様が置き残したのではないのか」

「あたしだよ。でも効能はちっとも知らなかった。変わった棍棒くらいの認識」


 魔術師はバトンの瘤で兜の側面を軽く叩いた。


「報われないとはいえ、お世辞抜きで君は凄かったよ。さすが論理の呪縛から解き放たれた、超論理の世界の住人なだけあるね。推理も何もあったもんじゃない。超人的な嗅覚でもない。人智を超えし紫の瞳が、それを可能にしたの? まるで〈小アルカナ〉のほうから近づいてくるみたいに、難なく三つまで集めてのけたんだ。そんな芸当あたしにも、いいえ誰にもできることじゃないよ。やっぱり君に任せておいて正解だった」

「任せておいて? ……泳がされていたわけか、わたしは」


 先輩が悔し紛れに剣を振る。フォンと心地好い音がして一陣の風が飛び立つ。

 その先にいた魔術師の全身を巨大な翼が覆い、繭のようなフォルムで風を弾き返した。


「酷いなあ、かつてのフィアンセに向かって」両翼の隙間から女性が悪戯っぽく顔を覗かせた。「ふふ、どう? むしろ堕天使でしょ、魔術師っていうより。お気に入りなんだ、この恰好。神に近づけるのは同じ神か、あるいはだけ。シッダールタ然りナザレのイエス然り。人の身では分不相応なの」

「言うのは勝手だが、わたしは神などではないぞ」

「今はまだね。確かなのは、君が論理の破壊者ってこと。君は超論理で真相を掴み取るけど、超論理故に説明も不可能。そんな社会不適応者が一般社会に受け容れられるわけがない」

「わたしは社会不適応者でもない!」

「じゃ、そこの彼に訊いてみる?」


 女性が俺を見て言う。

 鼓動が早まる。病的なまでに。


「君が神ではなく探偵の道を選んだ際に、助手として見込んだその彼自身に。彼が君をどう思っているか、訊いてみたくない?」


 ま……まさかこの人、俺が告白しようとしてるのを知っていて、そんなことを?

 いや、それはありえない。ただ単に俺をからかっているだけだろう。きっとそうだ。


「やめろっ!」


 先輩の叫びは、これまで浴びせられたどの罵声や怒号よりも激越だった。


「あたしは神話を紡ぎたかったのに」表情に反して女性の声色は重苦しい。「宛南ちゃんはミステリを選んだ。卑近で矮小なミステリ如きに」


 空中で羽ばたく魔術師のほかに、動く者は誰もいない。束の間の静寂が館内を包んだ。


「天照宛南!」


 弾かれるように先輩が身を起こした。

 まずい。魔術師に本名を呼ばれたら。


「先輩!」


 俺は先輩の許に走った。振り向いた先輩の腕が高々と持ち上がる。

 まさか、もう操られているのか? だとしたら、先輩はその剣で俺を……。


「ぐあっ!」


 打ち下ろされた剣は……いつものように、俺の左肩に収まった。


「あれ、せ、先輩?」

「これで、安心だ」大量の汗が先輩の頬を伝う。「世話ばかり、焼かせおって」

「うわ凄いな、まだ自力で動けるんだ。さすがとしか言いようがない。論理の超越者の面目躍如だ。けど、裏を返せばそれ以上の反撃は無理ってことだよね」


 空飛ぶ魔術師の眼鏡の奥で、不吉な影が蠢いたように見えた。


「や、やめろ」疲労の限界に達したのか、先輩はとうとう膝を屈してしまった。「其奴の名を、呼ぶな」

「呼びたいのは山々だけど、それできないんだよね。彼の名前知らないし。〈鬼化粒子〉で鬼にしちゃうってのも手だけど、いかんせん準備不足だしねえ……ま、いっか。鬼の記憶覗いちゃおうっと。そのほうが手っ取り早い」


 お、鬼の記憶を覗く? そんなこともできるのか、この魔術師。


「ここの生徒なんだから、これだけいれば誰かしら知ってるでしょ、君の名前。さて、誰にしようかな」


 銀縁の眼鏡が館内を見渡すようにそろそろと動いた。ああやって鬼と化した女子生徒の記憶を盗み見ているのか。

 俺も万事休すか……。

 暫くそんな動きを続けたのち、あらら? と珍妙な声が洩れ聞こえた。


「ちょいとちょいと、どういうこと? 名前、全然見えてこないんだけど」


 名前が見えない? どういう意味だ。


「何これ。彼の名前、誰も知らないってこと?」


 ……なんてこった。

 友達付き合いのない俺は、名前すら憶えられていないのか。これぞケガの功名か。それにしても哀しい、大ケガの功名である。心が折れそうだ。


「しょうがないな。じゃあこっちで」


 と、眼鏡が眼下に佇む少女と化け猫に向かう。

 ひとたび支配下に収めた生き物なら、鬼でなくとも記憶を探れるのか? だとしたら、いよいよまずい。付き合いは短いながらも苦楽を共にした家来同士。お互いの名前くらい知っているはず。俺だって知っていた。少女のほうは。


「えーっ君たちも知らないの」


 感情のない顔で、少女と化け猫が頷いた。喜びと哀しみの振り子は更に大きくなった。俺、自己紹介とかしてなかったっけ?

 ……してないか。いや、してなくてもそれなりの期間一緒にいれば、名前くらいなんとなく判るもんじゃないのか?

 ……ないのか。ないんだな。だからこんなことになってるんだよな。

 せめて苗字くらい……いや、もういい。


「ならば、わたしの名推理で、当ててやる」


 せ、先輩!

 先輩が息を切らしながらも口を開いた。

 来た。遂に来た。とうとうこの日が。

 先輩が、推理をしてくれる日が、やって来たのか。

 苦節数ヶ月、先輩の探偵道を矯正するため堪え忍んだ日々が、やっと報われるのだ。感激も一入ひとしおだったけれど、ここで当てられては俺が非常に困る。

 いやそれ以前に、先輩は俺の本名も知らずに愚か者だのたわけ者だの罵り続けていたことになるのか。堂に入った酷さだと改めて思った。


「……判らぬ」


 だろうな。俺は脱力した。


「うーん参ったな。教師なら誰か知ってそうだけど、そのためにいちいち鬼に仕立てるのは本末転倒だし」


 まだだ。諦めるにはまだ早い。というより、このままでは納得がいかない。


「待ってください」俺は先輩を呼んで、「スマホでID交換したとき、俺の名前が表示されてたはずです。見憶えがなくても、今それを見れば」

「すぐに〈家来1〉に書き換えた。元の名前は、記憶にない」


 さ、さすが先輩。そうとしか言いようが、ない。


「あーもういいや」追い払うような仕種で手の甲を振り、魔術師はどこまでも黒い翼を大きく拡げた。「犬飼宵子に雷獣キノ神! そこの彼を取り押さえちゃって」


 数分前まで仲間だった一人と一匹が、同時に振り向いた。そのまま音もなく詰め寄る。


「お、おいやめろって……うわ、うわわ、乗っかるな、お、おも、重い……いてっ!」


 少女に頭を叩かれたのは、図らずも体重を指摘してしまったせいか。ともあれ、バリバリの肉体労働組に実力行使に出られては為す術もない。

 ろくに抵抗もできず、俺は魔術師の足許に引っ立てられた。

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