鬼と先輩と家来ども
「おい、危ないぞ」
先輩の声がして、俺は我に返った。慌てて辺りを見回す。
商店街は角を生やした集団でごった返していた。剥き出しの敵意が鬼の側にない三人と一匹に集中している。回想前より確実に人員は増えていた。
「こんな状態でよく考え事なぞできるな。感心するわ」
「あ、いや、すいません」
〈記憶屋〉の出来事が心の片隅に微かに漂っている。それから少女と化け猫は〈記憶〉を定着させるべく個別に取り組み始め、先輩は鬼に関する有力な情報を店員から聞き出していた。
ただ、さすがに今それを思い出していては現実の危険に対処できそうもない。
「倒しても倒してもきりがないんですのっ」
「くそっ囲まれちまった。どうすんだ、これじゃあ埒が明かねえぞ」
「鬼はな」先輩が一歩前に出る。「自らの急所を角の一点に集約する代わりに、それ以外の部分をほぼ無敵にしているのだ。だからお主らのゴリ押しではさほどダメージを与えられぬ」
先輩は俺から剣を引き抜き、手近にいた四十絡みの鬼の額を水平に薙いだ。放物線を描いて円錐形の角が転がり落ちる。
切り口からは一滴の血も流れることなく、平らな額を取り戻したかつての鬼は、今目覚めたばかりのように辺りを見回していた。
「あれ、ここは……僕は一体」
「おおっ人間に戻った!」
「さっすが女神先輩ですのっお見事ですのっ」
「そういうわけだ。お主らは今まで通り連中を足止めせよ。その隙にわたしが……」
けれども、その直後に新たな難題が立ちはだかった。鬼は鬼でない生き物に狙いを定めて襲いかかる。猫の大群の中に、一匹だけ鼠が出現したらどうなるか。こんな場所でただ独り人間に戻ってしまった者は、その瞬間から圧倒的窮地に立たされることになる。
「た、助けてくれっ!」
あっという間に四方を囲まれ、男性は群がる鬼たちの陰に消えた。伸ばした片腕が虚しく宙を掻く。
「やっやむを得ないのですのっニャトランそこの角をっ」
「その名前で呼ぶんじゃねえ!」
悪態こそ吐いたが連携は見事だった。化け猫が鎖分銅を投じて地表を叩くと、弾かれた角の切れ端が稲妻を伝って少女の手許に渡る。それを鏃に刺し、今度は少女が素早く矢を放つ。
鬼の塊に吸い込まれた矢は、やがて一体の鬼によって手折られ地に落ちたが、その鬼こそ誰あろう、一度は失われた角を取り戻した先程の四十絡みの男性だった。だが進化した少女の腕前を以てしても、鬼たちに囲まれた男の額に寸分の狂いなく射込むことは無理だったらしく、角が貼りついていたのはもっと横の、左のこめかみ部分。
「けっ結果オーライですのっ」
「だよな、ほら、襲われずに済んだし、めでたしめでたしだよな」
「でも、これで振り出しに戻っちゃったような」
黙れや! 黙らっしゃいですのっ、と同時に責められ、俺は縋るように先輩を見た。
「取り敢えず、ここを離れて安全な場所に向かう必要がある」先輩は敢えて〈逃げる〉という表現を避けたようだ。「このままでは多勢に無勢。これだけの数の角をいっぺんに切り取る術は今はない」
武器を使って血路を開く先輩たちの後ろを、俺はそれこそ金魚のフンみたく付いていくのが精一杯だった。哀しいかな、いざ本格的な戦闘が始まると俺は足手まといに成り果ててしまう。前の記憶屋で何も買わなかったのが、今更ながら悔やまれた。恐怖体験を忘れるだけという使えない俺の〈記憶〉と、なんでもいいからトレードしたい気分だ。
丑寅市で勃発した鬼の大量発生事件は、こうして不毛な鬼ごっこに移行していったのだった。
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「どうします? これから」
剣を収め腕組みして遠方を見据える先輩に向かい、問いかける。
態勢を立て直すべく、鬼退治ご一行は近場の公園に身を置いた。潜伏というほど緊迫したものでないことは、一人乗りブランコに興じる少女とその頭頂に乗っかった化け猫の様子からも明らかだ。外出禁止令の影響で道路を走る自動車もなく、聞こえるのは鳥の囀りとブランコの規則的な
「ここから十分も歩けば学校ですのっ」
返事がしたのはブランコのほうからだ。
「行ってどうすんだ」化け猫が言い返す。「休校で誰もいねえだろ」
「理事長さんと人体模型ちゃんに手伝ってもらうんですのっ」
「なんだよ、仲間がいるのか。なら話が早え。さっさと行こうぜ」
「ならぬ」先輩がきっぱりと言った。「家来は三人と相場は決まっている。それ以上は増やせぬ」
知らなかった。定員制なのか。やはり先輩にとっての名探偵とは、桃太郎か玄奘三蔵の感覚なのかもしれない。
「ではではっ一人仲間を増やす代わりにっあそこの下僕先輩に暫く引っ込んでてもらうんですのっ」
「そうだな。うちの神社の留守番でもしててくれや。あ、境内の掃除もよろしく」
哀しい提案だが、身の安全を図れるという意味では名案でもある。しかし先輩は意外にも難色を示した。
「まあ戦力外ではあるがな。折角の鞘だ。捨ておくわけにもいくまい」
ありがたき幸せである。俺は平身低頭して謝意を述べた。
と、どこからか飛んできた紙切れが、そんな俺の頭にガサガサとへばりついた。手に取ってみる。上に大きくあしらわれた〈フリヤギ弦楽四重奏団定期演奏会の報せ〉の文字。あの雪山の大邸宅に来るはずだった楽団のことだろう。場所は駅前の市民ホールで期日は今日になっている。また中止か。つくづくついてない楽団だ。
「その頭に刺さってる鎌が抜けりゃあ、ちったあマシになりそうなんだがな」
少女が漕ぐブランコのスピードに畏れをなしたのか、化け猫は隣の動かぬブランコに乗り移っていた。
「無理だよ。俺が使いこなすのは」
「使いこなせとは言わねえ。鎌を手に身構えでもすりゃあ、見た目だけでも戦力アピールになるだろ」
「なるほど。でもそれにはまずここから抜かないと」
戦力のアピールは固より、頭部に鎌を刺したままでは危険人物アピールが解除できない。
「それが出来るなら最初からやってるっての。繰り返しになるから言わねえが」
前に聞いた話では、首に刺さった矢の氷結範囲に鎖鎌の尖端部が含まれているらしく、刃を抜き取るには一時的に解凍する必要があるのだという。しかしそんなことをすれば
「あの、前も訊いたけど、どうして俺の頭にこんなのが」
「言えるか! 人間知らねえほうがいいこともあるんだよ」
やはり化け猫は口を割らない。それは取りも直さず、この傷害事件の犯人と黙秘権を行使する化け猫が同一であることを意味する。故意か過失かはともかくとして。いや故意なら大問題なのだが。
「おい、鬼どものお出ましだぜ。話は後だ」
待ってましたとばかりに化け猫がブランコから飛び出した。話を逸らす口実が向こうからやって来たことを喜んでいるかに見えるのは、勘繰り過ぎだろうか。
「路地にも結構いるのですのっ」
「囲まれては面倒だ。今後の方針は移動しながら考えるぞ」
早くも俺から剣を引き抜いた先輩は、言う間に新手の鬼を二、三体打ち倒して道路に出た。本来の鬼退治からはかけ離れた現状に、眉間の皺は長らく刻まれっ放しだが、そんな憂慮の貌ですら美しいと思わせるのが先輩の凄いところだ。
「先輩、こないだ寄った記憶屋って、この辺りでしたよね」
さり気なく訊いてみたが、とうにブランコを降りた少女が耳聡く聞きつけ駆け寄ってくる。
「なんなんですのっ今更行ってどうするつもりですのっ」
「やめとけやめとけ。付け焼き刃じゃ高が知れてる。生兵法は大ケガの基ってもんだ」
猫にまで引き留められ、ぐうの音も出ない。俺はまたもや沈黙するしかなかった。
先陣を切って進む先輩に、脇を固めた少女と化け猫が続く。三角形のフォーメーション。迫り来る鬼を払いのけ、些かも速度を緩めず直進する。これぞ魚鱗の陣ですのっと少女が声高に叫んだ。
俺は殿だ。というと聞こえはいいが、要は魚鱗にくっつく金魚のフン。
「よくもまあ湧いて出てきやがる。次から次と」化け猫が毒づいた。「なんだってこいつらこんなことになってんだ? まるで夢遊病者みたいじゃねえか」
「宵子にはゾンビの群れに見えますのっ」
「ぞんび? なんだそりゃ」純国産の自称雷獣はすげない反応を示した。「まあなんでもいいがな。どうも眼つきがおかしいんだ、こいつらみんな」
「凶相というかっ意志のないお人形さんみたいですのっ」
「動きも変だしな。誰かに操られてやがるのか?」
「かもしれぬな。にしても、もっと効率よく鬼どもを蹴散らせぬものか」
行く手を阻む、かつては人間であった数名を景気よく吹き飛ばしながら、先輩は物騒な物言いをした。ただ、俺には化け猫の言葉を微妙にはぐらかしたようにも聞こえた。
「女神先輩っ」少女が声を弾ませて、「こんなときこそ飛び道具が必要ですのっ女神先輩の長剣プラス風撃を以てしてもっ射程距離の不足まではなかなか補えませんのっ」
「豆だ豆」化け猫が真顔で、「節分最強の武器っつったら豆だろ」
「おい」先輩が振り向いて俺を指差した。「雪山の例の屋敷で、犯人がお腹にダイナマイトを巻いていただろう。あれを参考に、豆爆弾的なやつを作れ」
「無理ですよそんなの」
なんて無茶なことを言うのだろう。チラッと見ただけで構造も何も判りようがないのに。
「大うつけめ。そんなこともできぬのか。ならば作り方を調べよ」
「まあそれくらいなら……って、先輩自分で作るんですか」
「作って悪いか」
「チョコを作るついでとかですか」
「チョコ?」
「はあ、もうじきバレンタインデーなんで」
「殺す。殺した後でまた殺す」
爆弾の作り方なんてそう簡単に見つかるだろうか。不安はあったが先輩直々の頼みだ。俺は心中をひた隠しにして承諾した。
「お前は頭脳労働担当かよ。いい身分だな坊主。肉体労働組の苦労も知らないでさ」
鬼の攻勢が落ち着いた頃、化け猫が皮肉を言い放って俺の頭部に飛び乗った。普段は買い出しにも行かされるし脚も多少使うが、こと戦闘に関してはその通りだ。
「それを言うなら、早くこの鎌を抜いてくれよ」
「まだ言うか」
化け猫に額をペシリと叩かれた。
「俺だって保身用の武器は欲しいよ。先輩、やっぱり記憶屋に寄りたいんですけど」
「また言うか」
先輩の返事は冷たい。
「記憶を買うお金はあるんですのっ?」
「あんまりないけど……みんな武器持ってるのに、俺だけないってのはちょっと。確か記憶屋が、魔術師の四つ道具とか言ってましたよね。小なんとかっていう」
先輩は無言だ。いつもなら即座に訂正が入りそうなのに。
「みんな持ってるのって、その四つ道具なんですよね。なら、どこかにもう一つあるはずですよね」
「むろん探している」先輩は何故だか苛立たしげに見えた。「だが、手に入れたところで使えまい。〈無謬の聖杯〉は武器の類いではないのだ」
「それならこいつだって」俺は頭上の化け猫を指差した。「首にぶら下げてるだけですよ。勲章でもあるまいし……いてっ! やめろこらっ」
額に爪を立てられた。鎖鎌や分銅には劣るが、これも立派な武器だ。
「判ってねえなあ。五芒星の魔力で俺様の霊力は否応なしに活性化されてんだぜ。気づいてねえのはお前くらいだ」
「使えるかどうかは別としてっ宵子も最後の一個が気になるのですのっ」役目を終えた弓を肩にかけ、少女が会話に加わった。「聖杯といえばっ日本では馴染みが薄いのですけれどもっ西欧では聖杯伝説も多数残されてるお馴染みの聖遺物ですのっ日本では〈杯〉の字を当てるのが一般的ですけれどもっ実際の形状は謎に包まれてるのですのっミステリアスでオカルトで興味深いですのっ」
この少女、変なことにだけはやたらと詳しい。なるほどと頷き返しつつ、俺は心のどこかに引っかかりを憶えていた。聖杯……
どこだ? どこでだ?
「ミステリアスっていうか嘘臭えな」
「ニャトランちゃんってばちっとも存じ上げないのですのっ?」少女は困ったように肩を聳やかして、「ただでさえガラパゴスな感じの生き物なのですからっもっとグローバルな視野を取り入れたほうがよいのですのっさすがにアーサー王と円卓の騎士ぐらいは知っていてほしいのですのっのちの文学や絵画や音楽に多大な影響を与えた聖杯探求譚の基礎ですのにっ」
「
「
先輩と俺の声が交差した。
「ご存知でしたのっ?」
ご存知も何も、以前迷い込んだ雪山の大邸宅に住んでいたのが円卓一族で、その当主が四十代目〈麻王〉氏ではないか。
「まさかあの家が、聖杯と関係が……あっ」
長男氏が被っていた金色の器。あれを家人は〈聖なる杯〉と呼んでいたではないか。
聖なる杯。
聖杯。
「あれが聖杯!」
「そうであったか」
俺が思わず叫んでいたのに比べ、先輩は不思議なほど冷淡だった。
「となると、今一度あそこへ向かう必要があるな」先輩は淡々と語を継いだ。「二度手間になってしまうが、聖杯のためとあらば仕方あるまい。スキー用具も返却せねばな」
「また行くんですか?」
「行くですの行くですのっ今度は宵子もお供しますですのっ!」
げんなりする俺に対し、少女は出し抜けに活気づいた。
「いいねえ雪山登山」頭上の化け猫も同調する。「酒呑童子の兄ちゃんと
「お、おい暴れるな。首が痛い」
「うるせえなあ、坊主は黙ってろ」
化け猫の前肢が伸びて俺の口を塞ごうとする。避けるべく首を左右に振っていると、先輩があろうことか剣の柄を口に突っ込んできた。
「もごっ」
「さすが姉ちゃん。気が利くねえ」
「鞘ならばこれくらい平気であろう。逆向きでないだけありがたく思うのだな」
「恵方巻みたいですのっ縁起ものですのっ」
鬼がいれば無能扱い、鬼が去ってもこの扱いだ。実力制を採用しているこのパーティーでは、たとえ最古参であってもヒエラルキーの最底辺になるしかない。歯に当たる柄の硬さに口を閉じることすら許されず、俺は身も心も大いなる苦渋を味わった。
しかし、それももう少しの辛抱だ。聖杯さえ手に入れれば、俺の立場も変わるだろう。今はまだ雌伏の時だけれど。
「でもでもっどうやって行くんですのっ電車やバスは動いてないですのっ」
「自転車で行くしかあるまい。山道は徒歩になるが」
「マジかよ! まあ俺様はこいつの上で高みの見物だからどうでもいいが」
「ハイキングする気ゼロですのねっ」
「ははっまあな! よろしく頼むぜ乗り物。あんまり揺らすなよ、酔っちまうから」
そう、今はまだ……。
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