まだまだ事件は始まらない

 ……時間だ!

 放課後の到来を告げるチャイムの一音目と同時に立ち上がり、司書の人もいるのかどうか定かでない、すっかり人気のなくなった図書室を後にする。本はとっくに書棚に返しておいた。

 退室と同時に、静寂を保たねばならない義務からも解放される。誰もいないなら騒いだところで問題ないのだが、かといって独り室内で騒いでも虚しいだけだ。

 今はとにかくダッシュが先決。走れ走れ。

 邪魔する奴は誰あろうと蹴散らさんばかりの勢いで、屋上に向かうための階段を一気に駆け上がった。いや、もし実際に何者かが行く手を塞いでいたら、持ち前の気の弱さを十二分に発揮し、蹴り飛ばされないようそっと道を譲っていたに違いないのだけれども。そう、俺の猛ダッシュは見かけ倒しなのだから。

 何故人は走るのか。健康のためか、遅刻回避のためか、はたまた近所の野良犬に追いかけられているからか。理由はどこかにあるはず。そこに道があるから、そんな理由で人は走るまい。俺なら絶対走らない。歩く。では何故俺は今走っているのか。理由は一つしかない。

 それは確認のためだ。運動部どころか文化部にも所属していない、何もしないために生まれてきたと言っても過言ではないこの俺が、夜中に脚がるのも覚悟の上で頼りない下半身を酷使しているのは、決してさっきの手紙に淡い期待を寄せてのことではなかった。これはあの手紙が如何なる意味を含んでいたかを探るための、単なる確認作業に過ぎない。

 ラブレターかもしれない、古い言い方をすれば恋文かもしれない、この十七年の、こと恋愛方面においては決して順調とは言えない味気ない生涯で、初めてラブに関するレターを貰ったのかもしれない、とうとう春が来たのかもしれない、これが本物の青春ってやつかもしれない、青春バンザーイ! などという浮ついた考えが、我が両の脚を無謀な筋トレに駆り立てているわけでは断じてないのだ。

  屋上に通じるドアは開いたままだった。半ば飛び込むようにして屋上に躍り出る。

 普段なら苦行でしかない階段ダッシュは、一瞬の体感時間で終わりを告げたが、無茶なダッシュに全身が悲鳴を上げている事実までは騙しきれない。両膝に手を突き、乱れに乱れた呼吸を暫し整える。喉から少し血の味がする。青春の味はかくもほろ苦いものなのか。単なる運動不足という可能性に思い至ったのは、ずっと後になってからのことだ。

 肺の動きがある程度自由になり、ようやく顔を上げるだけの体力が戻ってきた。

 打ちっ放しのコンクリートが足許に拡がる屋上空間。その片隅に佇むロングヘアの制服姿を、俺の視界はすかさず捉えた。澄み切った秋空のブルーと、眼下の灰色の鮮やかなコントラストを背景に、黒い影を長々と靴の先に伸ばしている女子生徒。

 今度は緊張で止まりそうになる呼吸を整えつつ、ゆっくり彼女の許へ。ポケットに手を入れ、先程の手紙の感触を確かめる。よし、図書館のあれは夢じゃない。


「あ、あのー」


 冷静を装い、天照宛南先輩に声をかける。いつもよりオクターブ高い声に自分でも驚くが、不自然なビブラートも手伝って、それはまるで他人の音声みたいによそよそしく響いた。


「こ、こ、このて、て、手紙なんですけど」


 ポケットから手紙を出すのも忘れて、今度はいつものオクターブ低い胴間声を発していた。震えは収まったが、代償としてスムーズな言い回しを失ってしまっていた。

 対する天照先輩はというと、薄く開いた切れ長の眸に印象的な紫の輝きを湛えたまま、靴音も高らかに一直線にこっちへ近づいてくる。右手に握られた、腕の長さほどもある諸刃の刀剣が、夕陽を受けてきらりと閃いた。

 え……刀剣?

 なんでそんなもの持ってるんだろう。

 俺との距離はかなり縮まっていたが、先輩の歩調は一向に緩むことなく、俺は思わず背後の壁まで後退っていた。先輩はすぐ目の前に迫っている。

 ま、まさか、これが噂に聞く壁ドンというやつでは……?

 いきなりの展開に、先輩が何故か手にしていた謎の長剣のことを考える暇もない。取り敢えずは成り行きに身を任せ、先輩の手が俺の横に力強く押しつけられる瞬間をぼんやりと想像したりなんかしていた。結局、次の瞬間には剣のほうを否応なく思い出すことになるのだが。

 音もなく持ち上がる先輩の右腕。刀剣の切っ先を下にして反転し、眼にも止まらぬ迅速さでそれは打ち下ろされた。同時に左肩に凄まじい衝撃が走る。


「あいてっ!」


 反射的に首を左に向ける。頬の先に見える黒い何か。

 ……柄だ。

 肩のすぐ上に、深々と突き刺さった剣の柄と、洋剣っぽい鍔の部分だけが姿を覗かせていた。

 な、なんだこれ。

 俺、刺されたの?

 痛みは……それほどでもない。刺された瞬間はメチャクチャ痛かったが、今は痛さよりも体内に異物が侵入している気持ち悪さが先行している。

 確実に、完全に刺されてるよな俺。なんであんまり痛くないんだ?

 ていうか、なんで刺されたんだ?

 この人、どうして俺の肩を剣で思いっきり突き刺したんだ?

 俺に何か恨みでも? さっき初めて会ったばっかりなのに? 何故に?

 何がなんだか訳が判らない。壁ドンならぬ、まさかの剣グサ。

 俺は混乱の極みにあった。


「な、なな、なんですかこれ……」


 目の前の先輩は首の動きだけで肩先に垂れた髪を後ろへ流すと、満足げに一度だけ頷いて、


「ふむ。予想通り」


 口中で言葉を転がすかの如き短い呟きだったが、その声色は透き通るような冷たさを帯びていて、美しさと険を共有した表情に程良くマッチしていた……なんてのは後日改めて抱いた感想に過ぎない。当時はそんな悠長に分析などできるはずもなく、俺は未だ混乱の最中にあった。


「よ、予想通りって、ど、どういうことですか?」

「〈記憶〉だ。我が〈記憶〉に誤りはない」

「き、記憶?」


 どうしてこんな場面で記憶なんてのが出てくるんだ。

 しかし先輩はかぶりを振って、いや、そんなものはどうでもいいと呟くと、今度は高らかに歌い上げるような口調で、


「さっき図書室で肩を触らせてもらったが、特に張りも懲りもなさそうだし、我が技量も加味すれば余裕で刺せると思って。それで刺してみた」

「えっ?」


 それで刺してみた、って……〈それで〉の使い方、なんかおかしくないか?


「それに図書室で読んでいた本、あれミステリだろう?」

「えっ?」

「ミステリの読者ということは、つまりとして、わけだ」


 あの、話が飛躍しすぎてて何が何やら。

 ……待てよ。ワトソン役?

 この人、もしかして助手を探しているのかな。そう問うてみると、違うと言下に否定された。


「助手ではない、手先だ。もっと下僕的な。家来と言ってもいい」


 名探偵シャーロック・ホームズのシリーズに出てくる助手の医師ワトソンは、そんな下僕的な存在ではないはずなのだが。でも、ワトソン役を求めているということは、この人自体は探偵を自認しているということか?

 再度問うてみると、今度は当たり前のことを訊くなとどやされた。


「英国の名探偵と言えばシャーロック・ホームズをいてほかになし。何せ拳闘・棒・剣の達人なのだから。偉大なる我が先達である」

「あ、はあ……」


 確かに元祖名探偵のシャーロック・ホームズはボクシングにも精通しており、フェンシングの名手でもあったとか。

 だがしかし。

 助手の医者をその鋭い尖端で突き刺したなんて話、聞いたことがない。それに先輩の口振りだと、どうも格闘技の達人であることが、名探偵の必要条件になっているような気がしてならない。探偵というのはむしろ頭脳労働が重要なのであって、だからこそミス・マープルや我が国の三毛猫風情が活躍できる余地もあるというのに。


「あのですね、そもそも、俺そんなにミステリ好きじゃないん……」

「ワトソン役が不服なのか? 無能の代名詞的な扱いをされるのがしゃくであると」先輩は小賢しいとばかりにフンと鼻で息を吐いて、「ウィンドウズOSにもドクター・ワトソンなる超優秀情報収集機能があると聞く。そう腐るな」


 冗談とも本気ともつかぬ口調でそう言い、先輩は暫し屋上に吹き渡る突風に長髪とスカートをはためかせていた。

 今日びコンピューター界隈でワトソンと言えば、IBMの人工知能風システムのほうだろう。それを指摘するべきか思案していると、何かを感じ取った様子の先輩が肩越しに後方を見て取り、姿勢はそのままですかさず腕だけ伸ばして剣の柄を掴んだ。そして俺に刺さっていた長剣を易々と抜き取ると、淀みない動作で背後に鋭い一閃を放つ。

 切った……のか? 一体何を?

 俺には何も見えなかったのだけれど。

 なんだかよく判らないが、取り敢えず自由になった左肩に眼を向けた。カーキ色に統一されたブレザーの肩口に、刀身で穿うがたれた細い切れ目。しかし不思議なことに出血は全くない。痛みもない。相変わらず訳が判らない。

 ぽとりと間の抜けた音がして、俺は先輩に視線を戻した。

 ブレザーと同じカーキ色のスカート。その裾からすらりと伸びる脚線美を凝視したい衝動をぐっとこらえ、靴先のコンクリートに二つばかり転がっている、お椀型をした掌大の物体に眼を向ける。黒い中身と芯を上に向けて真っ二つに割れたそれは、野球用の硬球だった。

 いや、割れたんじゃない。先輩が手にした剣で切り裂いたのだ。

 不思議なことに、直前まで俺の体内に埋まっていた細身の刀身は完全に乾ききっていて、俺の血痕らしきものは一切付着していなかった。やっぱり何かの手品か、あるいは目眩ましの類いなのか?

 とにかく、不意に飛んできた硬球を一撃で切り捨てる程度には、剣の扱いには長けているようだ。ただ、それが当たり前であるかのように、返す刀でまた俺の肩口に剣を突き刺したのだけはどうにも頂けなかった。


「あの、な、なんで俺に刺すんですか」

「まさか痛むのか?」さも心外そうに先輩は目を見開いて、「そんなはずはなかろう」

「いえ、別に痛みはないんですけど」

「ならばよし。我が技量に疑念を挟むような真似をするな」


 全然答えになってない。というより答える気があるのかすら怪しい。俺は質問を変えることにした。


「はあ……でも、刺されたら普通痛いですよね。どうして痛くないのかなあと」

「どうして痛くないのか? 何故そんなことを疑問に思う必要がある? 痛くないのだから日常生活になんの支障もないわけだろう。ならばよし。問題ないではないか」


 ええと……いやいや問題だらけなのでは? なんなんだこの凄まじい割り切り方は。俺は頭を抱えたくなった。同じ日本語で喋ってるのに、意思の疎通がまるでできていない。決定的な認識の差異がある。


「ていうかその……心臓とか、貫通しちゃってる感じがするんですけど」

「それがどうした」


 相も変わらぬ、にべもない反応。人の心臓をハツの串焼きか何かだと思ってるんだろうか。


「痛みは?」

「ないです」

「ほかに異状は?」

「ないですけど」

「ならばよし。心配性にも程がある」


 いやいやいや剛胆にも程がある。繊細そうで麗しい見た目をあまりにもあっさり裏切るそのギャップに、俺は底冷えすら感じた。


「骨の箇所はちゃんと避けて刺している。ありがたく思え」


 他人を刃物で刺しておいて、ありがたく思えって、ちょっと……。


「といっても、その剣は金属を叩いても刃毀はこぼれ一つ生じぬ通称〈無傷の秘剣〉だからな。端から心配などしておらぬが」


 こ……こんな心配りが許されていいのか。どこの誰が身体の状態を差し置いて、体内に残った刀剣のほうを心配するっていうんですか。


「むしろ血糊や脂身がついてしまうことのほうが難儀だったが、見たところそれらしい付着物もなし。首尾は上々である」

「な、なんで何もついてないんですか」

「何を気にすることがある。理由はどうあれ、何も付着していないほうがお互いにとってプラスなのだ。いちいち気にするでない」


 どうやら俺の肉体的損傷に関しては、ちっとも意に介していないらしい。酷い。酷すぎる。


「でも、やっぱり俺に刺しておくよりは、鞘とかに入れたほうがいいんじゃ」

「愚か者めが」正論を言ったつもりなのに、いきなり罵倒された。「鞘に収めようが抜き身だろうが、無許可で刀剣を持ち歩けば捕まるのは必定。だがこうして刀身を体内深くに沈めておけば、誰にも見咎みとがめられることはない。人間一人を隠れ蓑にする。見事な叡智である」


 確かに、柄の部分だけが肩からにょっきり突き出ていたところで、よもやその先が胴体に深々と埋まっているとは誰も考えまい。それが見事な叡智かどうかはさていて。

 がしかし、しかしだ。それでも俺はこう考えざるをえないのだ。その常識を持ち合わせていながら、何故人に刺すほうの罪状は不問に付すのかと。こっちの都合は丸っきり考慮の外なのかと。

 結局その疑問を音声として発することはなかったが、代わりにどうしても訊いておきたいことがあった。図書室で渡されたあれは、つまり……。


「てことは、その」俺は慎重に口を開いた。「あの手紙は、俺にこうして、凶器を刺すために」

「凶器などとぬかすな。〈無傷の秘剣〉は天下の名剣なのだぞ」


 冷然と言い放つ先輩。古風な言い回しが、声音の冷たさを一層引き立てているかのよう。


「あ、はい、すいません」頭を下げつつ、言葉を選んで語を継いだ。「その、無傷の秘剣をですね、俺に刺すために、そのためだけに、あの手紙を渡したと」

「むろんだ」

「じゃあ、こ、この手紙は」俺はようやくポケットから、色々な弾みで皺くちゃになった紙片を取り出して、「恋の告白とかではないと」

「殺すぞ。どこにそんなことが書いてある」

「…………」


 なんてこった。いや、確かに何度読み返しても、その文面に告白めいた表現は皆無でしたが。

 結局、罠だったのか。不覚だった。色香に惑わされた、というより短絡的な勘違いを犯してしまった我が身を呪わずにいられなかった。


「いいか、わたしはその肩のの良さと、我が手先たるに不可欠な下僕的、いな、ミステリ的素養を買ったに過ぎない。わたしに選ばれたからといって、過度に驕るような真似はするなよ。まあ名誉に思う程度なら留めもせぬが」


 美女に選ばれた点を考慮しても、これは決して快い状況ではないだろう。手放しで喜べる状態には程遠い。なんというか、白羽の矢を立てられた気分だ。実際にはもっと鋭利な刃物が左半身に埋没してしまっているのだけれど。

 ひょっとして俺は、とんでもない事態に巻き込まれてしまったのではなかろうか。正直いやな予感しかしなかった。


「グラウンドに行く」


 それまで屋上を気儘きままに駆け回っていた風がぴたりと止んだので、先輩のそんな呟きがはっきり聞こえた。まるで先輩の声を聞き取りやすくするために、なんらかの意志がこの数瞬だけなぎを創り出したかの如く。


「グラウンド、ですか」


 俺にこんなことをしておいて、今から何しに行くんだろう。そんな疑問をぼんやり思い浮かべていると、先輩はいささかの躊躇もなく俺のほうに右腕を伸ばしてきた。

 ほっそりした白磁のような指が、俺の頬をかすめる。ま、まさか、これは……。

 接吻的な、口づけ風の、マウス・トゥ・マウスに至るための、つまりキスの、予備動作ではっ!

 ……なかった。

 先輩の目的は唇ではなく、やはり肩口の剣だった。そりゃそうだよな。

 とはいえ、俺に予想できたのはそこまでだった。

 もしも先輩が、部活中の不可抗力である点を完全無視した上で、打球を屋上まで飛ばしてきた強打者を懲らしめるべく、練習中の野球部に乗り込もうと画策し、俺の肩から突き出た剣の柄を引っ掴んだまま、屋上から砂利だらけの地表へ飛び降りるという無謀なショートカットを敢行し、剰えあまつさ俺から抜き放った剣をちらつかせてグラウンドに集う部員たちの度肝を抜き、俺の再三に亘る懇願によってなんとか剣を収める――それは即ち俺に剣をわけなのだが――という驚愕の行動パターンを事前に察していれば、グラウンドに向かうのをなんとしても足止めしていたに違いないのだけれども。俺如きの悪い予感程度では、そこまで非現実的な現実を思い浮かべることなどできなかった。

 いや、万が一予期していたとしても、止めるのは不可能だったと今では思う。いかに心構えをしていたとて、俺はあまりにも間近に迫った先輩に対し、結局なんの抵抗もできなかったはずだ。オスの思考力は美女の距離に正比例する。ゼロレンジの美女は破壊力マックス。俺を思考停止させるには充分すぎる間合いだった。

 あのとき、いきなり柄の部分を掴まれ、しなやかな跳躍と共に華麗に宙を舞う先輩に続いて無様にもがき回るしかなかった俺は、全くもって生きた心地がしなかった。剣で刺された挙げ句、三階建ての屋上から放り出され、たった一日で二度も死ぬかと思ったのだ。あまりの恐怖に記憶が一部抜け落ちたみたいで、直後の情景がかなりあやふやになっている。実際、どうやって着地したのかも憶えていない。

 どうせなら、その前後の記憶も凡て消えてしまえばよかったのに。あの日の夕刻に起きた出来事を、丸ごと帳消しにしてしまいたかった。

 古人曰く、過ぎたるは及ばざるが如し。

 思えば、図書館で偶々ミステリ小説を読んでいたのが間違いの元だったのだ。別に熱心な読者というわけでもなかった。単なる時間潰しだ。中身はなんでもよかったのだ。何故に俺は、よりにもよってミステリを選んでしまったのか。

 凡てが、何もかもが後の祭りだった。

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