『』

空っ手

プロローグ

まだ事件は始まらない

「お兄ちゃん、大丈夫かね? 肩んとこに何かブッ刺さってるけども」


 お遣いを済ませ、後は校舎に戻るだけとなった夕刻の街中でのこと。

 年相応に腰の曲がった、通行人の見知らぬお婆さんにいきなり声をかけられた。珍妙な生き物を発見したかの如き驚きと、下らない手品でも見せられたかのような疑念を折半して宿した、深い皺の奥にほの見える双つの瞳。その低い視点から肩のコレを見て取るのは難しい。まだ距離を詰める前の段階で、既に眼に留めていたのだろう。

 対する俺は歩みを止めたものの、少しも動じることなく愛想笑いを浮かべて、いえ、大丈夫ですとだけ答えた。肩口に向けられる奇異の眼差しにはもう慣れっこだ。


「そうかい? んじゃ、その肩んとこから出てる棒みたいのは何かね?」更なる追及。齢を重ねた女性は好奇心旺盛というか押しが強い。「てっきり包丁か何かの柄だと思ったんだけどもねえ。ちょっとごてごてしてて持ちづらそうだけども」


 惜しいけど違う。いや、違うけど惜しいというべきか?


「いえ、違うッス」

「近頃はそういうのが流行ってんのかい? あたしゃ昔っから世間の流行に疎くてねえ。それ肩凝りに効くのかね?」


 歯擦音を発するたびに入れ歯を射出しそうな勢いで、お喋り好きと思しきお婆さんは言葉を続けたが、こっちも長々と付き合っているわけにはいかない。鬼より怖い大先輩が俺の帰りを待ちかねている。


「肩凝りには効かないですよ。すいません、ちょっと急いでるんで」


 会釈もそこそこに買い物袋を持ち替え、そそくさとその場を離れる。


「近頃はほんと肩が凝ってねえ、孫もちっとも叩いてくれなくなっちゃって……」


 最早独り言と区別がつかなくなったお婆さんの声を背後に置き去り、学校へと急ぐ。

 実のところ、お婆さんは俺の風体が気になって声をかけてきただけなのであって、それを煩わしく思うのは筋違いなのだ。他人の好奇心を刺激しないよう、肩から伸びたこいつ・・・に何かを被せておけば済む話なのだから。しかしそれもできない。そんなことをしたら殺される。物騒な話だが、少なくとも、殺すと直々に仰せつかっている。



 校門を抜け、学校の敷地内へ。

 西日に輝く無骨な造りの学舎は、授業を終えた解放感と遠くから聞こえる部活動の掛け声で、放課後特有の朗らかな活気に包まれていた。

 学生鞄を手にした下校集団と下駄箱ですれ違う。俺の左肩に注がれるいぶかしげな視線は、街中に比べるとずっと穏やかだし数もそれほど多くない。代わりに、またか、みたいな呆れがちな表情が増えるのはどうにもならなかったけれども。

 人気のない屋上への階段に到着すると、生徒たちの喧噪も反響ばかりが目立つ、ぼんやりしたものに変わっていた。

 階段を駆け上がりながら、以前ここを通ったときのことを思い浮かべる。

 あれからもう二週間が経つ。あのときはまだ左肩にはなかったし、もっとずっと意気揚々としていた。浮かれ気分だったと言ってもいい。あんなにテンションが上がることなんて、以後永きにわたるであろうところの我が生涯にあってもそうそうないだろう。

 階段を上りきった先で、この身に想像を絶する悪夢が降りかかろうとしていたなんて、当時の俺は知る由もなかったからだ。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 そもそもの始まりは、まだ文化祭の期間中だった二週間前。図書室内での運命的な邂逅かいこうにまでさかのぼる。

 誤解のないよう断っておくが、俺は決して文化祭に、本来の意味で参加していたわけではない。集団で一致団結して物事に取り組み、何事かを成し遂げるという協力行為になんら達成感やカタルシスを見出せない孤高の存在――ぼっちとも言うが――である俺にしてみれば、文化祭なんてものはその年の負のイメージを凝縮して発散するだけの、悪しき一大凶事でしかなかった。

 とにかく期間中は息を潜め、一刻も早く過ぎ去るのを待つしかない暴風雨にも似た憎き存在、それが文化祭なのだ。おお文化祭を敬い崇め奉る者ども――それが大半を占めるのだろうが――に災いあれ!

 文化祭に学校生活のピークを持っていく諸氏は多くあれど、ぼっちにとってクラス単位の団体行動なんてのはおよそ苦痛でしかなく、文化祭のエピソードだって皆無に等しい。俺は一年で最も呪わしい文化祭シーズンを、一年前の再現となるルーチンワークで乗り切ることに決めていた。

 読書。図書室での読書漬けだ。この時期だけ、俺は読書の鬼になるのだ。

 クラスの連中とは暗黙の相互不干渉ルールが成り立っている。俺が名を呼ばれること自体まずないのだが、出し物の準備に忙しい連中と同じ空間で何もしていないという罪悪感を、無視できるほどに強靱な精神も持ち合わせていない。

 ならば、せめて連中の眼の届かない場所で過ごしたくなるのが人情というもの。むろん文化祭の真っ只中なので、生徒の家族や近隣住民の出入りはあるが、自身の教室で所在なげに佇んでいるよりはよっぽどましだ。勤勉な学生に見られるというメリットも享受できる。かもしれないし。

 そんなわけで、平時に比べると幾分騒々しい図書室の、入り口から一番離れた窓際の座席に身を置き、俺は周囲の情報を意志の力で遮断してひたすら読書に没頭していたのだった。

 だったのだが。


「ん?」


 左の肩を叩かれた気がして、はっと振り向く。

 気のせいじゃなかった。間近に立っていたのは、赤みがかった見事なストレートヘアを腰まで伸ばした、背の高い女性。

 学校指定の制服を着ていなければ、どこぞの芸能プロダクション所属や現役モデルと言われても充分通用するであろう、均整の取れたスタイル。そして見る者に近寄りがたい印象すら与える、白く透き通った美貌。

 何よりその眼。カラコンと見紛うほどにどこまでも深い紫のひとみ。その自然な大きさでどうにか肉眼と判る双つの紫に、意識を吸い込まれそうな錯覚を憶えた。


「…………」


 紫色の眼をしたその女生徒は、俺の前に折り畳んだ紙片を置くと、ふわりと後ろ髪をなびかせ、無言のまま踵を返し去っていった。

 時間にして僅か数秒。

 けれども俺に与えた衝撃は計り知れなかった。こんな美人が、うちの学校にいたなんて。しかもクラスメイトにさえ叩かれることのない肩に、直々に触れてくれるとは。

 ここで呼び止めるどころか誰何の声すら出せないのが俺の俺たる所以なのだが、そんな忸怩じくじたる思いは拡げた紙切れの中身を見て立ち所に吹き飛んだ。

 これは……。


〈放課後 屋上にて待つ

 他言無用〉


 ……これは!

 ドアに眼を向ける。出入り口付近にいた数人の女生徒が、廊下に消えていく長髪の美女を見つめながら、天照あまてらす先輩いつもキレイだよねーあたしもあんなふうになりたいなーそんなの無理に決まってんだろーえー顔がダメなら髪の毛だけでもー、と口々に囁き合っているのが聞こえた。

 じゃあ今のが……校内でも屈指の美人と名高い、三年の天照宛南あてな先輩その人なのか!

 そして、そんな高嶺の花がこの冴えないしがないしょうもない俺に、放課後屋上に来てと直々に伝えてくるとは。それはつまり……!

 罠。

 まあ何かの罠だろうな。それだけは疑いようがない。

 校内を見渡せば、俺よりかっこいい奴や賢い奴は腐るほどいる。そいつらを差し置いて、俺を選ぶ理由など万に一つもない。この手の事柄に関しては至極冷静になれるし、そうならざるをえない。あまりに別世界の現象ゆえ、齢十七にして早くも思考が枯れ始めていた。

 しかし、それでも後から後から湧き上がるこのたかぶりはなんだ?

 思わせぶりな文章を受け取るという初めての出来事。しかも美人の先輩からという想定外の出来事に、俺は完全に浮き足立っていた。信じたい気持ちをどうにも抑えきれない。

 罠だろ。どう考えたって。

 あんな美女、俺如きと釣り合うわけがない。

 だが、今思えばこの時点で、既に冷静な判断を失っていたのかもしれない。さっきまで読んでいたミステリの名探偵よろしく頭をフル回転させ、罠でない可能性を手繰り寄せ、遂には都合のいい解釈に成功してしまったのだから。

 何故これが罠でないと言えるのか。

 本気で罠を仕掛けるなら、もっと凝った文章にするはずだろう。読む者の心を蕩かすような、甘い告白の言葉を書き連ねるはずなのだ。罠であれば。こんな業務連絡に等しい事務的な内容で済ませるはずがない。従ってこれは本物の呼び出しであり、他意は一切ない。

 よし、証明終わり。

 逸る気持ちを高鳴る胸に秘めつつ、残りの時間を図書室で無為に過ごした。読みかけのミステリはページを開く気にもなれず、真相も結末も今やどうでもよくなっていた。

 紙片に書かれたたった数文字を飽くことなく眺め続け、やがて待ちに待ったその瞬間が訪れる。

 ……放課後だ!

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