その頃、地上では


 ――はっ、はっ、はっ、はっ。


 周りはうるさいのに、自分の呼吸音がやけに響く。動悸が治まらない。普段、どんな風に息してたっけ、オレ。


「構えー!」


 その声で、マスケット銃を構える。慌てて手から滑り落ちそうになった。

 オレの身体は八割がた塹壕ざんごうに守られている。腕と銃、そして頭だけが土の壁からひょっこりと出ている格好だ。視界を回せば、硝煙と暮夜に紛れてこちらに特攻を仕掛けようと近づく白兵の集団が見えた。


「あれか」

 隣から聞こえた声で、やっと同僚の存在を思い出した。直立して、不格好にマスケットを構えている。


「話しかけるな。気が散る」


 オレは短く一蹴した。味方との会話なんて戦場に似合わない。そんなことしたら、オレはずるずるとその場で座り込んでしまって、二度と立ち上がれない気がした。


 そうだ、ここは戦場だ。なぜ戦っているのか、オレには分からない。だがとにかく、ここは殺し合いが許される場で、オレは兵士だった。

 瞬きをするのも忘れて、距離を詰めてくる集団を凝視する。殺さないでくれ、とは言わない。だから――来ないでくれ。頼むから。


 願いも儚く、その時はやってきた。司令官が声を張り、斉射の合図をする。オレの銃身と、他の射撃地点から一斉に弾丸が飛んでいき、弾のいくつかが集団を貫く。血の花と表現するには憚れる、生生しい血液の飛沫。射撃を受けた兵士たちはそれぞれ逃げようとしたり、こちらに向かってこようとしたが、最後には全員、あえなく倒れた。銃口からたなびく白煙越しにそれを見届けて、頭を下げる。


「……あんなもん余裕だっての、なあ?」


 同僚が、膝を曲げて装填をしながら神経質そうな、張り詰めた声で言った。


「…………」

「おい、返事くらいしろよ。今ので何人ぶっ殺せたと思う? 俺の弾も当たってだぜ! ざまぁみろって感じだよな!」


 オレが無視を決め込んでいると、同僚はオレの肩を掴んで揺さぶってきた。黙らせようと顔を上げると、そこには同僚の姿はなかった。


「……あ」


 指先で自分の顔に触れると、指の腹に何かが付着した。見なくてもわかる。続くように、土嚢が落ちるような重い音が耳に届く。見下ろすと、そこには同僚が倒れていた。右側頭部にはギャグみたいにぽっかりと穴が空いていて、空っぽの脳みそから空気でも出るのかと思ったら、血が水道の蛇口を捻ったみたいにあふれ出ていた。


 敵方の塹壕から撃たれたのか、どこか違う場所から撃たれたのか。とにかく、塹壕の中で死ぬなんてツイてないやつだ。隊長に報告。とオレの中で冷静な声が響いているので、とりあえず地面に落ちている銃を拾った。すると、銃身から小さいものが転がり落ちた。


 拾ってみると、それは弾丸だと分かった。オレたちがマスケット銃に装填するもので、発射すれば無くなってしまうもの。


 オレは試しに同僚の銃を持って上下に揺さぶった。すると、弾丸が一個、二個、と落ちてくる。火薬もだ。


 ――――こいつ、撃つ振りしてやがった。装填まではみんなと同じようにやって、撃ての合図で引き金に手をかけたまま、引かなかったのか。


「…………」


 オレは同僚の開ききった目を、手で覆って瞑目させた。


非難する気持ちはなかった。怒りよりも、なぜか誇らしさがあった。


何が俺の弾が当たった、だよ。撃ってねぇじゃねぇか、嘘つきめ。


同僚の身体を塹壕の脇に寄せ、広くなった射撃場から自分の銃を拾う。


「……ん?」


 顔を出した一瞬、何かが見えた気がした。もう日も暮れて視界もあまり効かない。そろそろ敵も一度下がるはずだが……。


 もう一度だけ、塹壕から静かに顔を出す。


「……敵だ! 見敵! 見敵!」


 やっぱり、いた。思ったよりも近くに。集団での特攻は無理と判断して少数での奇襲に切り替えたのか。それにしても、なんでこの距離まで誰も気づかなかったんだ。塹壕攻めを警戒する部隊がいくつも控えていたはずじゃ……!


 オレは焦る頭で考えながら武装を整える。といってもあるのはマスケット銃と近接戦に用意してある小型のナイフだけだ。この距離からじゃ銃は間に合わない。撃てて一発。外したら塹壕に入られて終わりだ。銃は捨てて身軽になった方がいい。射撃はオレの声に気付いた味方がやってくれる。オレは塹壕に入られたときの為に備えておくべきだろう。


 もう一度敵との距離を確認しようと顔を出した瞬間、目の前を何かが通り過ぎた。振り向きざまにナイフを抜く。反射的にその行動を取れた自分に驚いた。考えている暇はない。敵だ。入られた。敵国のクソ、あろうことか大胆にジャンプしてきやがった。射撃場を出て右に曲がると、目の前をナイフが掠めた。


おい、死んでた。当たったら。今の。


敵がやたらめったらと得物を振り回す。オレはナイフをしまってよけるのに徹した。大丈夫だ、あの野郎もテンパってる。


「ぅ、ああああアア!」


 必死にナイフをよけて、中腰で敵に組み付く。勢いに勝てなかったヤツは思いっきり後ろに倒れこんだ。


「はっ、はっ」


 吹き出る汗もお構いなしにそのまま敵に跨り、手首を捻ってナイフを落とす。そのままナイフは遠くに滑らせた。オレは腰からナイフを抜き取り――その時始めて、敵の顔を見た。


 オレと同じように短く息を吐き、汗をだらだらと流している。青い目と唇を引き絞って、何かに耐えるように唇を震わせていた。恐らく、こいつは塹壕攻めのかき回し役、鉄砲玉なんだろうな、とぼんやりと考えた。


「eΔgh(‘&)」


 そいつが何かを言う。オレは敵国の言葉なんて分からない。何かを言いながら、首を横に振っている。目じりから涙がこぼれていた。


 オレはナイフを振り下ろそうとするが、出来ない。自分を本気で殴ろうとしても殴れないのと同じだった。抗いがたい、妙な抵抗感。


 ヤツはオレが躊躇っているのを見ると、首筋に手をやった。武器でも隠しているのかと身構えたが、首にかけられたチェーンを手繰り寄せただけだった。汚れた軍服の下から出てきたのは、ロケットだった。ヤツが中を開くと、幸せそうに寝ている赤子の写真が収められていた。


「…………やめろよ」

「#&‘gl――」

「うるさい!」


 オレはヤツの言葉を遮るように顔のすぐ横にナイフを振り下ろした。敵の癖に、人みたいにしゃべるんじゃない。


 殺さなきゃいけない。逃がすわけにはいかない。オレが殺されない保証なんてないし、今にもこいつの味方が塹壕にやってくるかもしれない。オレは訓練を受けた兵士だ。人を殺すなんてなんでもない。いまからこいつの首に刃を突き立てる。血が出る。それで終わりだ。いつか先輩兵士から聞いた、敵を殺すコツを思い出した。


 こいつを人間だなんて思わない。

 こいつにも家族がいるだなんて思わない。

 どことなく顔つきが友人に似ているな、なんて絶対――。


 終わりは呆気なかった。コイツが急に起き上がろうとして、オレは震えるまま首を突き刺した。ひゅうと口から音が出て、何度が痙攣したあと、オレを見つめたまま息絶えた。


ナイフを掴んだ右手が離れない。バカみたいに固まったまま動けなくなって、オレは泣いた。吐しゃ物をまき散らしながら、泣いて、許しを請うた。ごめん、ごめん、と。誰に許しを得たいのか、自分でも分からなかった。ただ、罪悪感でいっぱいだった。


人を殺した。


それは、子供の頃から教えられてきたことへの裏切りだった。


 気づけば、周りの銃声も聞こえなくなっていた。どうやら、こっちにやってきた奴らは全員、終わったらしい。オレは茫然自失のまま、塹壕から空を見上げていた。既に夜は深く、硝煙に代わって夜気が充満している。澄んだ空気は鼻の奥で混じって酸っぱい味になった。


 あの赤子は、息子だったのだろうか。あの兵士は、オレに何を伝えようとしていたのだろうか。オレは奪ったのか。人の命を。顔を見て、人生を垣間見たやつのすべてを。


 ……しばらくすると、他の兵士の声が聞こえてきた。何かがあったらしい。ざわめきは段々と大きくなっていき、オレの耳にも届いた。




 空を見ろ。




「……ああ」


 ファンタジーのような景色だった。黒い夜空が、一面に星の輝きを抱いている。一つ一つの星が、命を慈しむように、労わるように、煌々と輝いていた。


満天の空。


更には、雲なんてないのに雪も降り始めた。塹壕内を歩くと、みんなが一様に立ち止まって空を見ている。笑う者、涙する者、何かを悟ったように瞑目する者もいた。


 オレはもう一度空を見上げた。


 戦場に空はないと思っていた。


だから、一度も上を見上げたことはなかった。


 雪がオレの鼻頭に落ちる。手のひらで受け止めて舐めると、甘い味がした。胸に溶けるような、優しい味だった。


 オレは空を眺めながら、もう一度大声で泣いた。

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