第6章

 タクシーを見送り、キョウジは部屋に戻ろうとしたが、宇川は立ち尽くしたまま動かない。

「キョウジ、すまん。俺が口を滑らせたばっかりに、サークルがめちゃめちゃになっちまった。全部、俺の責任だ」

 宇川は唇を噛み締めた。

「…確かに、シンジの発言は軽率だったな。でも、おまえが口を滑らせなくても、遅かれ早かれこうなったと思う。全部がおまえの責任だというのは間違いだ。俺にも責任はあったと思う」

 キョウジは宇川の肩を叩いた。

「サークル内部の問題だ。なら、それは全員の責任だと俺は思うよ。荻上や上沼さんには、東京に戻って落ち着いてから、謝ればいい」

「そうだな。ありがとう」

「今は任されたことをやろう。機材も全部片付けないと」

「ああ」短く応えて、宇川は顔を上げた。

 それからキョウジたちは部屋へ戻り、帰るための支度を始めた。

 カメラやレフ板などの機材、机に広げた資料、自身の着替えなど。

 明日の早い時間には発つということだったので、残された江田の荷物も多少まとめておいた。

 その後はすることも無く、何かする気も起きなかったので、ただ時間を潰していた。



 夕飯の時間になったが、今はキョウジと宇川しか居ないので、食事は部屋でとることになった。

 空腹ではあるのだが、キョウジは食欲が湧かない。

 隣の宇川というと、キョウジほどではないが食が進まないようだ。

 昨日に引き続き、食事を残すのも躊躇われたので、なんとか汁物には口をつけた。

 それ以上は何も受け付けないので、結局は残してしまったのだが。

 一時間ほどして、御膳を下げるために女将が来る。

「今日もご飯進まなかったのね…。帰ることになった女の子のこと心配?」

「ええ、本当にすみません」

「いいのよ。あなた優しい子なんだね。友だちのこと想えるんだもの」

 女将はいつものように後片付けを始めた。

「そうだ。昨日のお茶、出してあげようか。今日は温かいのを淹れてあげるから。それで、少し休んだらお風呂に入っちゃいなさいな。くよくよ悩むときは、早く寝てしまうのが一番だよ」

「そうします。いつもありがとうございます」

 キョウジは頭を下げた。

 女将は御膳を運んだあと、温かいお茶を出してくれた。

 キョウジは香りを楽しんでから、少しずつ口をつけた。

「私は洗い物に戻るから。なにか欲しいものあったら、遠慮なく声かけて頂戴」

 そう言って、女将は襖を閉めて部屋を出た。

 女将を見送ってから、キョウジは大きな溜息をつく。

 この浪浜村に来て三日が経つ。

 自分の知っている、これまで生活してきた世界が、随分と遠くにあるように感じる。

 距離ではなく、価値観だ。

 この閉鎖的な土地は、キョウジの価値観を変えた。

 社会から取り残された村人たち。置いていかれた存在。誰も手を差し伸べてくれない。

 寂しい、と思った。

 どうやら自分は、ここに宇川と共に残されたことで、ナイーブになっているようだ。

 鞄を引き寄せ、しまっていた携帯電話を取り出す。

 見ると、菊池からのメール着信が表示されていた。一時間ほど前の着信だ。

 キョウジは菊池の番号を選び、電話をかけた。

 この不安を消し去りたいと思った。

 呼び出し音が続く。取り込み中なのだろうか。それでも、キョウジは菊池が出るまで待ち続けた。

 今日あった出来事を話したい。菊池は今日、何をしていたのか聞きたい。

 瞼が重くなる。

 呼び出し音が、ずっと遠くで響いている。

 間もなくして、キョウジは意識を失った。



 目が覚めたとき、暗闇のなかにいた。

 いつの間にか、体を横にしていた。

 電話をかけながら、自分は眠ってしまったのだ。

 まだはっきりとしない頭のなかで、それだけは理解できた。

 すると、頭の後ろのほうで、襖の閉じる音が聞こえた。

 誰かが廊下を歩いて去っていく足音が聞こえる。

 キョウジは体を起こして、周囲を見回した。真っ暗ではあるが、ここは泊まっている部屋だ。

 宇川は少し離れた場所で、壁に寄りかかって座りながら寝息をたてている。

 どれだけ眠っていたのだろうか。キョウジは携帯電話を探す。

 しかし、先ほどまで手にしていた携帯電話が見つからない。

 鞄にしまったのだろうかと思ったが、傍に置いていた鞄も見当たらない。

 何かがおかしい。宿の中が静まり返っている。

 少しずつ暗闇に目が慣れ、はっきりと見えるようになってきた。

 出立のために、部屋の角にまとめておいたはずの荷物が、全て無くなっている。

 壁にかけておいたパーカーも、机に上がっていた江田の資料も、何もかもが消え去っている。

 自分は夢のなかにいるのだろうか、と思った。

 未だに重い瞼を覚ますために、両手で頬を叩いてみる。現実であるのは間違いないようだ。

 何が起こったのだろうか。

 何が起きているのか。

 とりあえず、この場にいるのはよくないと思われた。

 眠っている宇川の体を揺すり、起こそうとする。相当深く眠っている。

「シンジ。起きろ、シンジ」

 頬を叩きながら、耳元で名前を呼ぶ。

「…キョウジ?」

 目をこすりながら、宇川が目を覚ます。

「なんで部屋が真っ暗なんだ。俺、寝てたのか?」

「静かに。様子がおかしい、荷物が全部消えてる」

「なんだって?」

 宇川はキョウジの差す方を見る。

 まだ意識がハッキリしていないようだが、その表情に驚きが浮かんでいるのが分かる。

 宇川が口を開こうとしたその時、廊下の方から物音が聞こえた。

 二人は瞬時に口をつぐむ。

 みしり、みしりという足音。

 一人二人の足音ではない。何人かの集団と思われた。

 音をたてないように、ゆっくりと歩いているようだ。

 暗闇のなかで、その音は不気味に響いた。

 危険が迫っているとキョウジは感じた。

「シンジ、ここから今すぐ逃げよう」

「逃げるって、どこに逃げるんだよ」

「この宿からとにかく出るんだ。ここに居たら絶対に危険だ」

 キョウジは広縁に続く戸に手をかけ、音を立てないようにゆっくりと開いた。

 裸足のまま中庭に降り、低い姿勢を保って宿の裏口の方へ抜ける。

 二人は宿から離れることに成功した。

 街灯を避けるようにして、キョウジたちは国道方面へ逃げた。

 その日は新月であった。

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