第5章

 最初に異変に気付いたのはキョウジだった。

 目が覚めて顔を洗いに行こうとしたときだ。伊藤の布団が無人であった。

 てっきり、タバコでも吸いに出たのかと思ったが、そもそも布団を使った形跡がない。

 伊藤が昨夜は別の場所で眠った可能性も考えたが、彼の荷物がそっくりと消えていた。

 キョウジは眉をひそめた。

 しばらくして、江田と宇川が目を覚ます。

「おはようございます、江田さん」

「おはよう。相田、起きるの早いんだな。僕はまだ眠くて眠くて」

「江田さん、どうも伊藤さんが居ないみたいなんですけど。荷物も無いみたいだし」

「ん…ああ、伊藤な。昨夜はみんな、寝るのが早かったから伝えそびれたんだけど。あいつ、夜のうちに東京に帰ったんだよ」

 初耳であった。宇川も同じらしく、寝起きだというのに目を丸くしている。

「伊藤先輩、帰っちゃったんスか」

「昨日、夕飯のときに伊藤から話があるって言われて、僕たち途中で抜けたろ?なんかすごく真剣な顔してると思ったら、突然、帰りたいとか言い出してさ」

「そんな。伊藤さん、無責任過ぎますよ」

「僕もそう思って止めたんだけど。昨日、変なお爺さんに絡まれたんだって?」

 江田が言っているのは、ロクロウのことだと思われた。

「この村の過去について色々聞いたって。相田や宇川もその場にいたんだよな」

「ええ、そうです」

「その話に怖気づいた…というわけでもないだろうけど、そんな場所に居るのはもうごめんだって。あいつ短気だから、もう何を言っても聞かなくてさ」

 キョウジは昨日の商店街での伊藤を思い出していた。

「仕方がないからタクシーを呼んで、夜のうちに帰したんだ。あの時間だと新幹線には間に合ったろうから、今頃はもう東京に着いてるはずだよ」

「ひどいな、伊藤先輩…。それじゃあ、今日から撮影班はキョウジと二人だけっスか」

「そうなる。そこで考えたんだけど、今日からは撮影班も取材に同行してくれ。効率を考えて別行動をとっていたけど、どうもそれだと収穫が少なそうだし。風景の画は十分撮れたと思うから、今日からは村人のインタビューに同行してくれ。伊藤が抜けた分の負担は、僕がカバーするから」

「そうですか…わかりました」

 どうにもやりきれないが、キョウジはそう答えるしかなかった。

 気が進まないのは自分や宇川も同じなのに、勝手が過ぎると思っていた。

 しかし、ここで江田に不満をぶつけても仕方が無い。

 江田は朝食の場で、女性陣にも同じ説明をした。

 無論、ロクロウの話は伏せた。

 伊藤のことについて、主に荻上から不満の声があがったが、江田がなだめた。

 上沼は、伊藤の行動を止められなかった江田の責任を追及したが、一応は了承した。



 その日は江田が話したとおり、キョウジたちも取材班に同行した。

 浪浜村漁港に併設されている漁協を訪れ、インタビュー形式の取材を行った。

 漁協には事務員と思われる中年の女性と、漁協組合の組合長との二人だけであった。他にも数人職員は居るらしいが、家の畑の作業で不在とのことだった。

 江田は港に上がった魚をバックにしてインタビューができたらいい、などと言っていたが、期待も虚しく今朝は誰も漁に出なかったそうだ。

 仕方が無いので、事務所の一画を間借りし、上沼と組合長の対談式でインタビューを行う。

 港で獲れる魚の種類、漁獲量のこと、後継者不足のこと等々。最後に漁協として望んでいる方向について聞き取り、取材は終わった。

 午前中いっぱいは漁港周辺で村人にインタビューをしてまわった。

 午後は浪浜村の郷土資料館なる施設に行き、浪浜村の歴史について取材をする運びだ。

 浪浜村の歴史。

 キョウジは昨日聞かされた、村の凄惨な過去の話を思い出していた。

 あのような話が事実だとして、資料館に残す歴史には一切書かれていないだろうと思った。

 いっそのこと、村の誰かに聞きたい思いに駆られたが、できるはずもなく、キョウジは胸につかえたまま過ごした。



 正午になり、キョウジたちは昼食をとるために宿に戻った。

 宴会場の広間に長テーブルが置かれ、女将が用意してくれていた素麺を全員で囲んだ。

 キョウジは午前中の考えが頭から離れず、部員たちの会話が頭に入らないまま食事をとっていた。

 そのとき、宇川の隣に座っていた荻上が騒ぎ出した。

「人殺しの村って、それ本当なの?信じられない!」

「荻上、声が大きいって…」

「その話が本当なら、そんなの聞いちゃったヒロト先輩が出て行ったのは当然だよ。どうしよう、私も帰りたくなってきた…」

 どうやら、宇川が昨日のロクロウの話をしたようだ。

「タツ先輩も知ってたんですか?この村に人殺しの歴史があったって」

「…宇川。おまえ」

 江田は宇川の方を見る。

「すみません…。つい喋っちゃって」

「仕方ないやつだな…。中途半端に隠してもダメだろうし、話すしかないな」

「さっきから、一体なんの話なの?江田くん」

「昨日、伊藤たちが村人から聞いたっていう、この村で過去にあった風習の話さ」

 江田は改めて、女性陣に村の陰惨な伝承を説明した。

 外部の人間を狙った村ぐるみの追い剥ぎ、おっぱぎ。

 全てを闇に葬るために、残らず殺された被害者たち。

 天災を祟りと恐れ、作られた無縁仏の祠。

 それらを黙って聞いていた上沼たちに、衝撃が広がるのが見て取れた。

「それが本当なら、とんでもないことね。さすがに驚いたわ」

 上沼は足を崩し、腕を組んだ。冷静に努めているが、表情からは不安が伝わる。

「タツ先輩。この村にはきっと祟りが本当にあるんだよ。そうでなきゃ、わざわざその祠なんてものも作らない。それに、この村の人たちは誰もそんな話をしなかった。きっと後ろめたいから話さないのよ。この村は、怨念に呪われた村なのよ…」

 かぶりを振ってそう言う荻上を、上沼は睨みつけた。

「くだらないわね。聞いていられないわ、あなたの話」

「なんですって」

 険悪な空気が張り詰める。

「あなた、自分が何を言っているか分からないの?あなたが言っていることは、事実かどうかわからない話を鵜呑みにして、この村をおとしめているのよ。それを風評被害というの。私たちはジャーナリストではないわ。でもね、事実だけを検証して、正確に判断する必要があるの。そうしないと、罪のない人たちを苦しめることになる。そんなことも分からないで…。帰りたいのなら、あなた一人で東京に戻りなさいな。はっきり言って、そんな乏しい発想しか浮かばない人と、一緒に居たくないわ。迷惑なのよ」

 上沼は吐き捨てるようにして言う。

「迷惑って…なんでそこまで言われなきゃならないのよ!」

「あなたは江田くんと一緒に居たくて、旅行気分でここに来たのでしょう?動機が不純なのよ。そんな半端な考えしかできない。その程度の人間なのよ、あなたは!」

 荻上は言葉を失った。

 怒りのあまり、唇が震えているのが分かる。

 何も言い返すことが出来ず、荻上はその場にうずくまって泣きはじめた。

「上沼!いくらなんでも言い過ぎだ。君の言うことが正しいとしても、君はそれを使って荻上を傷付けている。それは卑劣なことだと思わないのか」

「卑劣だなんて、心外だわ。私には苦しんでいる人を助けたいという目的があるの。それを曲げるようなことは、看過できないわ!」

「じゃあ聞こう。君はその目的のためなら、他人を苦しめてもいいと言うんだな。君は荻上を傷付けた。それは自身の目的のために必要で、当然のことだと言い切るんだな」

「それは…」

 上沼は目を伏せた。彼女自身も熱くなっていたことに気付いたようだ。

 江田は荻上の肩を抱いて慰める。

 キョウジたちは何も言う事が出来ず、長い沈黙が続いた。



 荻上が落ち着くのを待ち、それから江田が口を開いた。

「これじゃ、取材も撮影も続けられそうにないな…」

 江田の呟きに対し、誰も異論を唱えなかった。

 サークル部内に、修復しようのない亀裂ができてしまった。村のPR活動どころではない。

 キョウジは、これまで目を瞑っていた問題が、ここにきて最悪の形で現れたことに、自身の責任も感じていた。どうすることも出来なかったが、負い目を感じていた。

「一度、村での活動を終えて東京に戻ろう。こうなったら仕方が無い」

「全員撤収ってことスか」

「今からすぐに全員が戻ることはできない。役場の東浜さんにも説明しないと。とりあえず、荻上は今日のうちに東京に戻れ。駅まで僕も一緒に行こう。それから上沼」

 江田は上沼の目を真っすぐ見つめて言う。

「君も荻上に付き添って東京に戻ってくれ。荻上ひとりで行かせるのは心配だし、君にもこうなった責任を取ってもらう」

「わかったわ」力なく答える。

「僕は二人を駅まで送ったらまた戻る。相田と宇川は、明日発つために荷造りをしていてくれ。女将には僕から説明していくから」

「わかりました」

 江田は荻上を支えるようにして立たせる。

「荻上、行こう。荷物をまとめて帰る支度をするんだ。できるよな?」

 真っ赤に腫らした瞳はまだ焦点を捉えないが、荻上は黙って頷いた。

「荻上さん、私…」

「何も言わないで。何も聞きたくない」

 短い言葉だが明らかな拒絶だった。

 上沼はそれ以上、何も言うことができなかった。



 それから暫くして、タクシーが宿まで迎えにやって来た。

 女将に、サークル部員が体調を崩してしまったので、東京に帰したいと話したところ、手配してくれたのだ。

「僕が戻るのは夜遅くになると思う。相田たちは先に寝てしまって構わない。女将にもそう説明してあるから」

「はい。そうします」

「運転手さん、お願いします」

 江田と荻上、上沼を乗せて車は出発した。

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