第2章

 部室に召集がかかった日から三日後、キョウジたちは東京駅に集まっていた。これから浪浜なみはま村へ向かうのである。

 キョウジにとって予想外な人物がそこにいた。

 サークルの先輩である伊藤いとうヒロトである。

 明るめの茶色に染めた髪は伸ばしており、サーフィンが趣味であるため、肌は一年を通して焼けている。D大学四年生であり、江田とは学部が同じ友人である。映画サークルに所属してはいるが、ほとんど幽霊部員だった。

 彼は三日前の召集にただ一人、姿を見せなかった張本人であった。

 キョウジはまさか、彼が来るとは思っていなかった。

「おはようございます。伊藤さん、来てたんですね」

 キョウジは声をかける。

「おっす、相田。こないだぶり」

 伊藤は日に焼けた顔をキョウジに向ける。

 夏休み前に会った時よりも焼けたのではないか、とキョウジは思った。

「俺も行くことにしたんだ。その、浪浜村だっけか。江田にどうしても人手が足りなくて、来て欲しいって言われてさ。暇だったし、旅行代わりにいいかなって」

「そうなんですか」

 三日前の話では五人で足りると言っていたが、予定が変わったのだろうか。

「俺も撮影班にまわるけど、何も期待しないでな。美しいを撮る名誉は、将来有望な後輩たちに任せるぞ。手伝うことがあれば、おまえたちから指示を出してくれ」

 キョウジは困ったような笑顔で応える。

 この人は頼りにできないんだよな。江田さん、よっぽど頼る相手がいなかったんだな。

 キョウジはそう考えることにした。

 伊藤の姿を見つけた江田が駆け寄ってくる。

「伊藤、来てくれたんだな。良かった。おまえときたら、当日になってドタキャンもあり得る奴だからな。恩に着るよ」

「あんまり江田に頼まれることもないからな。女との約束より、こっちのを優先したんだ。よろしく頼むよ」

 ありがとう、と江田は頭を下げると、上沼の元へ行った。

「宇川、おはよ。撮影班は俺とおまえと、相田でやるのか?」

「あれ、伊藤先輩じゃないスか。おはようございます」

 持ち物を確認していた宇川が、顔を上げて答える。

「江田先輩が言ってた助っ人って、伊藤先輩だったんスか。なら、この三人が撮影班ですね」

「面子もこれで全員なんだな。それにしても、珍しい取り合わせというか。女子は上沼と、荻上だけか。大丈夫なんか、これ」

 さすがの伊藤も苦笑いが浮かんでいる。

「取材班には江田さんが同行するみたいだし。最悪、仲裁に入るつもりなんじゃないですかね」

「江田が自分で蒔いた火種だしな。それならそれでいいか」

 伊藤は荻上に目を向けるが、すぐに目線を外した。

「これから新幹線だよな。そのまえに一服してくるわ」

 そう言うと、伊藤は喫煙所へと向かった。

 伊藤が去ったのを見て取ると、荻上がキョウジたちのもとへやって来る。

「ヒロト先輩も来てたんだね。タツ先輩が声かけたのは聞いてたけど、まさか本当に来るとは」

「荻上も伊藤さんのこと聞いてたのか。知らなかったのは俺だけかよ」

「そうなの?でもタツ先輩が声をかけたの、昨日だって言ってたよ。急なことだったから、キョウジくんに知らせるのを忘れてたんじゃない?それに、呼ばれたからってくるとは限らないから。ヒロト先輩」

 あてにされているのかどうか分からない人だな、と思ったがそれ以上は何も言わなかった。

 その三十分後、キョウジたちは新幹線に乗り込み、東京をあとにした。



 A県S駅で新幹線を降りると、駅のロビーにキョウジたちを待つ人物がいた。

 先の話にあった、浪浜村広報の東浜である。

 年齢は五十代前半くらいだろうか。中肉中背で、ワイシャツにスラックスという、いかにもサラリーマンといった風体だ。事務的な印象の眼鏡がよく似合っている。不自然に浮き上がった髪には全員が違和感を覚えたが、キョウジたちは見なかったことにした。

「D大学のみなさんですね。はるばる東京から来ていただいて、本当にありがとうございます。東浜といいます。やっぱり東京の学生さんは垢抜けていて、ちゃんとしてますねえ。うん、うん」

 まくし立てるように話すと、それから東浜は全員に名刺を配った。

 浪浜村役場・広報部部長・東浜とうはまマサシ。名刺にはそう書かれていた。

「ここからはバスでの移動となります。二時間半くらいの距離ですので、お手洗いなど先に済ませてくださいね」

「かなり遠いんですね。浪浜村には電車は通っていないのでしょうか?」

 上沼が尋ねる。

「ええ、そうなんですよ。バス路線はあるんですが、それも朝夕の二本だけ。今日、みなさんに乗っていただくのもレンタカーです。国道道路が通っていますが、冬になると車も通らなくなるので、陸の孤島になってしまうんですよ」

「そうなると、車を持っていないと住みづらいですね」

「そうです。その免許を取るために、結局は村の外に出なければいけない。悪循環ですわ」

 何分かの時間を取った後、キョウジたちはバスへ乗り込み、浪浜村へ移動した。到着は昼過ぎ頃だそうだ。

 途中、いくつかの村落や道の駅を見かけたが、それも途絶える。

 景色は山の中へと移り、木々が立ち並ぶ道路を進んでいく。

「もう随分と走ってるけど、完全に人気のない場所に来たな」

 前の座席に座っている宇川が、振り向いてキョウジに話す。

「本当にこの先に海なんてあるのか。少し不安になってきたよ」

 キョウジも同じ思いであった。

 何よりも、自分たちの知っている世界から、別の空間に向かっているのではないかという不安が湧いてくる。

 知らない地域とはいえ、町並みが続いている方が幾分かは安心だと思えた。

「そうかな。私はずっと東京住みだから、こういう緑に囲まれた風景って、それだけでテンションが上がるんだけどな」

 通路を挟んで隣に座っていた荻上が答える。

「東京も郊外へ行けば、こういった山に囲まれた地域があるけど、私はあんまりそういう場所には行かないし。虫とか全然ダメだし。だから、こういった機会でもないと、山の風景も見れないのよ。すごくいいと思う」

 もちろん、住むのはゴメンだけど。と続けて言いながら荻上は笑った。

「そういうものかな。俺もシンジも上京組だから、荻上ほどは自然に触れる機会はあったと思うけど。都会を離れるとこんな不安になるなんて、気付きもしなかったよ」

 キョウジはそう言って、携帯電話を確かめた。この辺りは圏外のようだ。

 江田からの説明で、村の中では携帯電話が使えると聞いていたのだが。

 どうやら村に着くまでは使えないようだ。

 駅に降りたところで菊池に連絡しなかったことを少し悔やんだ。

「ところで荻上、なんで江田先輩と離れて座ってるの?いつもはべったりじゃないか」

 キョウジもそれには気付いていた。やぶ蛇だと思われるので控えていた疑問を、宇川はそれと知らず荻上にぶつけていた。

 案の定、荻上の眉根は釣りあがっている。

「昨日からタツ先輩に言われてるのよ。村に居る間は、あんまりベタベタするなって。…っていうか、普段からそんなにべったりじゃないし」

 そういうことかと、二人は納得した。

 むくれながら窓の外を眺めていた荻上だったが、急に表情が明るくなる。

「海だ!今、林の切れ間に海が見えたよ!」

 荻上がはしゃいでいる間にも、段々と木々が遠ざかり、代わりに青い海が近付いてるのがキョウジにも見てとれた。

 太陽の光を反射して、時折、波がきらきらと光っていた。

 やがて海岸沿いの道路に出ると、いよいよ海が近付き、さすがのキョウジも声が漏れる。

 バスの先には、道路に沿うように並ぶ漁村が見えていた。



 まるで時間が止まったような場所だ。キョウジはそう思った。

 どの家も潮風によってトタン張りの屋根は錆びており、壁も屋根もペンキが剥げ落ちたまま随分と放置されているようだった。

 倒壊したと思われる家屋の瓦礫には、ネットが被されている。おそらく、人が住まなくなった空き家が倒壊し、瓦礫が風で飛ばされないようにしている処置だろう。

 漁で使うと思われる浮きの付いた漁網が折畳まれ、そこかしこに置かれているが、長い間使われていないようだ。

 まだ太陽が高いというのに、出歩く人は誰もいない。人が生活している跡はあるのに、無人の町なのではないかと錯覚さえ覚える。

 出口の無い白昼夢のなかに迷い込んだような、そんな不安をキョウジは抱いた。

 当初の予定通り、江田と上沼は役場へ出向いて村長と面会するという。

 キョウジたちはそのままバスに乗り、宿泊先である民宿へ向かうことになった。

 村の中の道のりもやはり、人の姿は見当たらなかった。

 民宿に着くと、主人と女将が出迎えてくれた。

 二人とも方言はあるが対応は丁寧であり、人当たりも良く、キョウジはホッとした。

 ここに来てようやく人と出会ったためだろうか。

 玄関の脇には、この民宿の名前と思われる「東浜屋とうはまや」と書かれた看板が立っている。

 東浜屋は白壁塗りの二階建てあり、瓦屋根の古風な日本建築であった。周囲の民家と比べても、比較的新しい建物に見える。

 こんな村でもそれなりに観光客などが来るのだろうか。

 聞けば、主人たちの姓は東浜とうはまだという。

「こちらの村役場の広報の方も、東浜さんでしたよね。浪浜村では多い名字なんですか」

 キョウジは部屋へ案内してくれている女将に尋ねた。

「そうだね。ここに住んでる人だば、名字って大体二つしかないのさ。村の東側に住んでる人が『東浜とうはま』、村の西側に住んでる人が『西浜にしはま』って名前が多いの。分かりやすいでしょ。後から村さ来た人の名前は違うけども、今だば殆どいなくなっちゃったね」

 カラカラと笑いながら女将は答える。

 キョウジはなるほど、と相槌を返した。

「この宿は西側にあるけど、ずっと昔は東側さあったのさ。宿の名前はその名残りなの」

 この部屋です、と通されたのは一階にある畳部屋である。

 本来は八畳間なのだろうが、隣部屋へ続く襖を外し、二部屋を一つの部屋にしていた。

 広縁の向こう側には海が見える。

「こちらが男性のお部屋になります。このお部屋からは夕陽がキレイに見えるんですよ。今日も見れるんじゃないかな」

「これはいい部屋ですね。風情があるし。本当にこんな所に泊まっちゃっていいのかな」

 宇川は素直に感心しているようだ。

「ほとんどこの宿を貸し切る状態だな。これは来て正解だったかもな」

「伊藤先輩、ここ泊まるならみっちり働いてもらわないと困るっスよ」

「分かってますって、宇川センセイ」

 三人はそれぞれに荷物を置いた。

「女性のかたは二階のお部屋になります。今、主人が案内してます。それから、夕食は七時から。お風呂は九時までだから、閉めちゃう前に入ってね。朝食は七時半。お昼は十二時だけど、皆さん外出なさるみたいだから、言ってもらえればお弁当は作ります。この辺りはお店なんもないからさ」

 夕食は宴会場に準備するので時間になったら声をかける、と言い残して女将は部屋を出て行った。

 キョウジは海に面する広縁のガラス戸を開けた。

 波の音がここまで聞こえてくる。

 潮風が吹きぬけ、とても気持ちがいい。

「いい景色だな。ここが気に入ったよ」

 伊藤がタバコを吸うために傍にやってきた。

「でも伊藤さん、ここに居たらもっと焼けちゃいますよ」

「おう、いいじゃん。本場の人間もびっくりの黒い肌目指すぜ」

 なんの本場ですか、と返して二人は笑った。

 そのとき、キョウジは外から強い視線を感じた。

 伊藤はキョウジの顔を覗き込み、声をかける。

「どうした」

「いえ、誰かに見られていたような感じがして」

 不思議に思った伊藤は、縁側に据え付けられたサンダルを履いて外に出てみる。

「誰もいないみたいだな。…俺ら外から来たよそ者だし、気になるんだろ」

「気になるって、誰がです?」

 煙を吐きながら伊藤は答える。

「この村の人間たち、だよ」



 江田と上沼が役場から戻ると、次の日からの取材と撮影について打ち合わせが行われた。

 取材班は江田、上沼、荻上。主に、村の風土や産業について。村長から聞いた話を元に、漁業組合や村人に取材を行う。

 撮影班は伊藤、宇川、キョウジ。広報担当の東浜マサシが同行し、観光スポットとなりそうな場所を主として、風景や町を撮影する。

 先に聞いていた通り、村のなかでは携帯電話が通じるので、連絡する際にはそちらを使う。

 早速、明日から始めることとなった。

 時間になると女将に呼ばれ、宴会場に案内された。

 人数分の御膳には新鮮な刺身を中心に、天ぷら、お吸い物、鍋物といずれも食欲を誘う料理が広がっていた。全て港で上がった魚だという。どの料理も美味であり、東京ではなかなか味わえないものだと思えた。キョウジたちは新鮮な海の幸に舌鼓を打った。

「お刺身、すごくうまい!うますぎて、どれから食べていいかわからないっス!」

「お吸い物、磯の香りがたまらないわ。これ、もしかしてウニかしら」

 皆、思い思いに感想を口にした。

 すると、荻上が何かに気付いた。

「女将さん、あの人形の被っている笠ってなんですか」

 荻上が指差したのは、宴会場の小さな舞台に立つマネキンであった。

 女性を模したと思われるマネキンは着物をまとい、手踊りを踊っているポーズをしている。

 そして、荻上が言うように気になったのは、マネキンが被っている真っ黒な笠であった。

「私、人文科だから少し郷土についても学んでいて。あんな風に笠が黒いのは珍しいなって」

「ちょっと他にはないものかもしれないね。あの笠は、この村で作られ続けてきたものなんですよ。冬の間に内職で女の人が作ってきたの。普通は、笠も草履も藁で編むでしょう?」

「ええ、そうです」

「ずっと昔、この辺はお米を作るための田んぼも少なかったから、稲藁が殆ど無かったのさ。だから、代わりにススキやなんかの別の植物を編みこんだの。それだけだと水が染みてしまうから、ご先祖さまたちは知恵を絞ってね。笠の表面に、山で捕まえた猪とか、鹿の脂を塗りこんだの」

「へえ。ワックスみたいな効果があったのかな」

 キョウジは感心した。

「そういうこと。そうして脂を塗った笠は、時間が経つに連れて、段々と黒くなってしまうの。今はもう誰も笠なんて作らないけど、私のおばあちゃんや、お母さん達は、親から教わって代々作ったそうですよ。あの人形は、この村のお祭『かさねぶた』を踊っているの。かさねぶたの時は、あの黒い笠を被って、こうやって手踊りをして村中を練り歩くのさ」

 女将はそう言って、手踊りの真似をしてみせた。

「かさねぶた、ですか。『ねぶた』とは違うんですね」

「紛らわしいでしょ。もっとも、あっちのねぶたは今も賑やかで続いてるけど、かさねぶたはもう随分おこなわれてないわね…」



 料理も粗方平らげた頃、宿の主人が宴会場にやって来た。

「お食事中のところ失礼します。サークルのみなさんにお客さまがお見えですよ」

 そう言うと、あとから一人の老婆が入ってくる。

「こんばんは。ご飯食べてるところ、お邪魔してごめんね。私、この辺りの本家のもので、西浜にしはまトヨと言います。みなさん、今日ははるばる東京から来ていただいて、本当にありがとうございます」

 西浜と名乗る老婆はゆっくりとした口調でそう名乗ると、深々と頭を下げた。

 つられて、キョウジたちも箸を止めて頭を下げる。

 トヨは頭を剃っており、尼僧といった印象であった。着物を着ていることから、更にその印象は強まる。年齢は八十歳以上に見えた。

「東京の若い人たちが、私たちの村のために力を貸してくださると、役場の方から聞きました。見ての通り、この村は錆びれてしまって、若い人たちも全員、村を出てしまいました。時代の流れもあるばって、私たち年寄りの力不足です。申し訳ない、申し訳ないと思ってます」

 トヨは畳へ視線を落とした。

「でも、私たちにはどうしていいか分からないのさ。なんとか、村にまた活気が戻るように、みなさんの力を貸してください。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。僕はこのサークルの部長で江田と言います。この村の良さを、外の人たちにも伝わるお手伝いができるように、最善を尽くします」

「同じく、サークル部員の上沼と申します。明日から取材を始めたいと思っています。村の方々のご迷惑にならないよう配慮しますが、何卒、ご協力をお願いします。西浜さんは本家のかたということですが、この村のことについて何か教えていただけますか」

「そうだねぇ…。この村はいくつかの部落が集まって、私が生まれるずっと前に合併してひとつの村になったのさ。今、村の真ん中を走ってる国道があるけど、あれは昔からあった街道がそのまま残ったの。その街道を境にして、東側が『東行浜ひがしなめはま』、西側が『西行浜にしなめはま』という部落だったの」

「なめはま、ですか。変わった地名ですね。なんて書くんだろ」荻上が尋ねる。

「行く浜と書いて、行浜なめはまって読むの。通り過ぎる浜。南と北に大きな街があって、その途中にこの村は昔からあるの。街を行き来する昔の旅商人や旅行する人にとって、部落は立ち寄るための場所であったのさ。東行浜と西行浜が合併するときに名前が変わって、今の浪浜村になったの。今でも村の人たちは、道路の向こうを東郡とうぐん、こっち側を西郡にしぐんって呼ぶね」

「西浜さんたちのお名前も、もしかして土地名から取られた名字なんですか」

 トヨはキョウジを見て答える。

「そう。東浜とうはま西浜にしはまはご先祖さまの住んでいた場所だったの」トヨは笑った。

「あんまり長居しても迷惑だし、今日はこのへんで。また聞きたいことあったら、いつでもうちさ来いへ。ここの宿より美味しいものは出せないけど、おもてなしするはんで」

 そう言ってトヨは傍らに置いてあった杖を支えに立ち上がり、一礼をして帰っていった。

「可愛いおばあちゃんだったね。丁寧だし、いい人そう。やっぱり地方の人はみんな素朴でいい人ばかりなのかな」

 荻上は隣に座る宇川に言う。

「うん。派手なことは無い村だけど、だから無欲で人当たりがいいのかもね。都会とは違うよ」

 夕食はそれでお開きとなった。

 部屋に戻ると、キョウジは携帯電話を持って広縁から外に出た。

 着信履歴からリダイヤルして菊池ミウに電話をかける。

 駅を降りてからはメールを送る暇もなかった。

 その間、何度か菊池からのメールや着信はあったのだが、なんだかんだで後回しになっていた。

 電話に出た菊池は、やはり怒っていた。

 キョウジは事情を説明し、ひたすら謝る。

 菊池は交際相手を束縛する性格ではなかったが、こういった恋愛の決まりごとのようなことは大事にするタイプであった。怒り出すとなかなか止まらないが、キョウジはそういった菊池のこだわりが好きだった。

『もういいよ。忙しくてもメールくらい返してね。約束だよ』

「わかった。明日からはちゃんとするよ。今日は本当にごめんなさい」

『うん、わかった』

 菊池の声に柔らかいものがあり、ようやくキョウジは胸を撫で下ろした。

「明日からは移動しながらの撮影になるんだ。村内はこうやって電波あるし、今日みたいなことにはならないよ。ちょくちょくメールする。菊池の方は今日どうしてた?」

『マイコたちと一緒に海に行ってきたよ、由比ガ浜。でも人が多くて。海は目の前にあるのに、なんだか街中にいるのと変わらない感じがした。イマイチ、消化不良』

「あそこの海水浴場は都内から近いし、そりゃあな…。芋洗い場みたいになってるのが想像できるよ」

『芋洗い場って。なんだかおじいちゃんみたいな言い回し。先輩、そっちに行って老けちゃったんじゃない?』鈴の音が鳴るように菊池は笑った。

 そんなわけない、とキョウジも笑って返す。

「明日は朝早くから出るんだ。だから、今日はもう休むよ」

『頑張ってね。…少しくらい日に焼けたほうが、男前が上がるかもよ?』

「はいはい。魅力を上げて帰ってみせますよ」

 おやすみを言って電話を切り、キョウジは部屋に戻った。

 次の日の計画を宇川たちと簡単に確認すると、間もなく眠気が訪れ、キョウジは眠りについた。

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